第4話

 馬稚国城下の往来は、朝からこのうえなく賑わっていた。

 魚を売って歩く棒手振り、城へむかう侍たち、道具箱をかついだ大工、飛脚や女中、丁稚や商売人、などなど。

 そんな中、一軒の長屋からひとりの小僧が飛びでてきて、道行く人に助けを求めていた。

「だれか、だれか! ……助けてくれよう!」

「どうしたんだね」

 と声をかけたのは、ちょうど通りかかった隠居だった。小僧は泣きぐずりながらも、懸命に説明をしはじめる。

「お父とお母が、うんともすんともいわないんだ。今朝からずっと、布団にはいったまま……。ゆすっても、たたいても、まったく起きないんだ。ずっと眠っちまってるみたいで」

 隠居はこまった顔で、顎髭を撫でながらいった。

「なんと。また、例の奇病か……。ここのところ、やけに続いておるな」


 ――馬稚国の人々を突如おそいはじめた謎の奇病は、原因不明のまま、蔓延していった。

 奇病にかかった者はみな、眠ったように気をうしない、徐々にやせ衰えていった。

 またどういうわけか、気力に満ちあふれたものよりも、生活に困窮した者や、悲しみの深い者などが病の犠牲になった。



 馬稚国の国主である幸畠信貞ゆきはたのぶさだは、二人の家老をはじめ、八人の家臣たちと、評定の席についていた。

 信貞の右手に座る恰幅のよい男が、筆頭家老の二葉盛道ふたばもりみち。左手に座る痩身の男は、家老の田山藤兵衛たやまとうべえだ。

 信貞は父である信成のぶなりのあとを継いで城主となったものの、まだまだ自身では大きな決断ができない。

 そのため、家老の田山にどうしても頼ってしまう。田山は先代の信成を盛り立ててきた擁護派の家老で、代が変わっても、同じように信貞の政策を支援していた。もっとも、政策という言葉の意味を、信貞が理解していればの話だが。


 この日の評定のおわりに、ひとつ議題がでた。

 昨今問題になっている、城下や周辺で相次ぐ奇病の話題だ。

 二葉は挙手をし、意見をいった。

「あれやこれと問題があるなかで、いまの段階でいそいで詮議するようなことでは、ございますまい」

 それに対して田山は、こう抗弁する。

「二葉様、おそれながら。当問題は、早いうちに原因を突きとめ、対処せねばなりますまい。大きく波及してからでは、手におえませぬぞ」

 そのとき、二葉は扇子をひろげて、口元をかくした。それでも、無様なあくびの声がもれてくる。

 田山は怒りにふるえて、おのれの膝をうった。

「ふ、二葉殿。このような評定の場で……!」

 しかし、二葉は歯牙にもかけぬ様子で、

「まあまあ、様子を見て、しかるべき方策を考えようではないか」

 といいはなった。


 評定会がおわってから、信貞のもとに田山がやってきた。そこで田山は無念そうにうったえた。

「殿……。二葉殿は呑気なことをもうしておりましたが、事態は深刻ですぞ。民は国にとって、第一の宝にございます。ここは殿より、力をいれて対処するよう、しかと下知いただきとうございます」

 信貞はあいまいにうなずいたものの、二葉からの反論を考えると、それはそれで気が重かった。

「わ、わかった。そなたが、そこまでいうのならば……」

 すると、田山は残念そうにいった。

「いえ、殿……。わたくしがお頼みしたからではなく、……殿が納得いただいたのならば、一国の主として、ご決断いただきとうございます。……おお、無礼なことをもうしましたようで。失礼つかまつりました」

「いや、よいのだ。それより、少々つかれた。休ませてはくれまいか」


 まだ日が高いというのに、信貞は奥の座敷にいって体を横たえた。

 他界した父の信成は文武に秀で、統率力があったのだが、それにくらべて、信貞はその足元にもおよんでいなかった。

(まったく、田山がいろいろと動いてはくれるが、私など、その足手まといにしかなっていないではないか。父上……。なぜ私には、あなたのような能力がないのでしょうか?)

 やがて、信貞はうつらうつらと、夢の淵に誘われていった。


 信貞は荒れた斜面をぼんやりとくだっていく。

 遠くから重たい金属質の音がする。鐘の音だろうか。

 その音に導かれるように、ただひたすらと、歩いていく。

 斜面をくだるにしたがって、周囲は薄暗く、より荒涼とした風景になっていく。

 周囲には、いつしか大勢の人々が歩いている。

 人々はいずれも無表情に、死人のように足をひきずっている。

 そのとき、大きな影が空より落ちてきた。

 黒い具足を身につけた、武者のようでもある。

 黒い武者は人々にむかって太刀をふるい、おそろしい声をあげはじめた。

 やがて、武者が信貞にむかって、巨大な鉈のような太刀をふりあげた。


 信貞はがばりと飛びおきて、あたりを見まわした。――すると、いつもの見しった奥座敷であることがわかり、胸をなでおろした。

 しかし、目が覚めたというのに、夢の中で聞こえてきた、重々しい鐘の音がまだ、耳の奥にのこっている。

 鐘の音はいつまでも頭にこだました。

 その音を聞いていると、なにもかもが無為に思え、無性に眠たくなってくる気がした。


 洞穴をでた鹿彦は、沙耶を連れてまばらな木立を歩いた。しばらくいくと視界がひらけ、南北へどこまでも続く街道にいきついた。白ノ宮と馬稚の都をつなぐ、交易のための街道だ。

 西の地平線に近づいた太陽は、周囲の雲や空を赤くてらしはじめていた。

「わたしに追っ手がかけられたかもしれませんね。いそぎましょう。――もっとも、あの洞穴に別の出口があることをしる者は、かぎられていますが」

 街道をしばらくいくと、道を外れた森の奥に、小屋が見えた。


 小屋のまわりは雑草におおわれ、人の気配はなかった。

「たぶん、猟師が狩りのときに泊まるようなところだね」

 といいながら、鹿彦は引き戸に手をかけた。

 いささか戸は重かったが、力をこめると、耳ざわりな軋む音をひびかせて、戸はあいた。

 小屋の中央にはちいさな囲炉裏があり、錆びた鉄鍋がかかっていた。

 片隅には毛皮の羽織があったため、鹿彦は嬉々としてそれを手にとった。虫がついており、ところどころほつれていたが、裸よりはましだと、もらいうけることにした。やや丈があまったが、腹のまえで紐をしばると、なにやら不思議な生きごこちを得た。裏地のなめし革が肌にすいつくような感触があった。

「とんだ盗っ人ですね」

 と、沙耶が皮肉まじりにいった。

「借りるだけさ。だれしも、天地から借りて、天地に返す。借り手が変わることだってある」

「そうですか」

「そうさ。――さて、きょうはここに泊めさせてもらおう。夜通し歩くこともあるまい」

 鹿彦は自前の火打鎌をつかって、囲炉裏に火をつけた。壺の中にあった木の実を、沙耶と分け合って飢えをしのいだ。



 翌朝になると、二人は早々に小屋をたち、馬稚の都を目指した。

 半日も歩くと、小高い丘のうえから、都を一望できるほどにせまることができた。

 都の中央には馬稚城の天守がそびえ、城の内郭の外には城下町が広がり、太陽をあびた鼠色の屋根がかがやいていた。屋根は町の外周へいくに連れて、茶色の藁葺きになっていった。都の外周には、田畑がひしめいていた。

 街道の途中でもいくつかの農村が見つけられたが、それらの田畑を足し合わせても、都の外周を囲う田畑の広さにおよばぬだろう。

 馬稚の都から汕舵の地にいたるには、さらに二日は歩かねばならない。


 都へとむかう途中で、一軒のあばら家のまえを通りがかったときに、鹿彦は足をとめた。その家に医者らしき坊主頭の者がはいっていったからだ。

 その家のまえには近所のものたちが集まり、あれやこれやと噂話に興じていた。

 そのとき、ひとりのお内儀が、別の老婆に話しかけた。

「聞きましたか? あちらでも、眠り病がでたみたいですねえ」

 老婆は顔をしかめていった。

「うむ。夫の儀兵衛が、ひと月は眠ったままのようじゃの。おお、いやだいやだ。ただでさえ子供らにひもじい思いをさせておったのに……」

 ついで家の中から、妻と思わしき者の声がひびいてきた。

「どうにもならないんですか? うちの亭主は!」

 鹿彦は沙耶の顔を見て、不安げにつぶやいた。

「いったいなんだろうな」

 沙耶は、わかりませんね、と首をかしげた。


 街道から都にはいっていくと、いつしか宿場通りにいきついた。

 宿への呼びこみの若者が幾人も声をはりあげていた。しかし、野人と巫女という奇異な取り合わせのふたりに、近よる者はほとんどいなかった。

 雑踏の中で鹿彦は沙耶にもらした。

「いいかげん、草鞋がぼろぼろだよ。それに、旅籠とまではいわないが、どこかで休みたいな」

「それもそうですが。先立つものがなければ。……そうですね、これを手放せば、どうにかなるかも」

 と沙耶が手をかけたのは、胸元に光る、紅い勾玉だった。

「それは……。たしかに、ずいぶんと高価そうな。珊瑚かなにかかい?」

「よくご存知で。これがあれば、十分に旅の元手をつくれましょう」


 はじめに立ちよった質屋では、壮年の店主は肝を抜かしてことわった。

「め、めっそうもございませんや! 巫女様も、とんでもねえご冗談を。……そんなものを預かったら、罰があたるってもんです」

 ついで立ちよった、裏道にある薄暗い質屋には、背の曲がった老翁が店主をつとめていた。店主は心配そうな沙耶から勾玉の首飾りを受けとり、品定めをはじめた。

「ほう、これは。本物の珊瑚じゃね。ううむ。……おそらく、宮の巫女たちの中でも、特別な者にゆるされた、いわば神宝とも呼べるひとつじゃろう。とはいえ、こんな代物をさばくのは、あぶないのう。きわめて、あぶない」

「そうですか。ほかをあたります」

 首飾りに手をのばした沙耶に、店主はいった。

「ほかを? いや、それはのぞめぬな。それより、こんなものをぶら下げて質屋をめぐったら、すぐに騒ぎになるぞ。おまえさん、わけありなんじゃろう?」

 沙耶は口ごもって、そうです、ともらした。

「とはいえ、どこぞの物好きが金子を積むかもしれぬのう。よし、質草とするには、ものがものだけに扱いにくい。秘密を守るということであれば、わしが買いとってやろう」

「ほんとうですか?」

「うむ。そうじゃな。……買値は、四両でどうかのう」

 これは相場の十分の一にも満たない価格だった。しかし沙耶は、半ば投げやりな様子でうなずいた。


 二人は店をめぐって、旅に必要なものをそろえた。草鞋を四足ずつ。水筒、鉈、巾着袋など。

 やがて、二人は宿へはいった。

 ふつうは、宮の巫女ともなれば城中の部屋を供されるか、御家人の屋敷に招待されるものだ。

 事実、客引きの若者は黒目を舞わせておどろいた。

 そこで鹿彦は、沙耶の芝居を見ることができた。

「きょうは、祈祷のために城へまいったのです。そこで、偶然にも、都にきていた猟師の弟と鉢合わせました。神の道には、よく、こうした奇しき縁があるものです。――せっかくですから、宿をとり、都の見物をしていこうかと思ったのです。なにか、問題でもおありでしょうか?」

 若者は深々と頭をさげた。

「いえ! どうか、手前どもの宿をつかってやっておくんなせえ!」


 宿にはいった沙耶は、二階の部屋から街並みを見おろしていた。

 鹿彦は畳に横たわり、日が高いというのに、早くも寝息をたてている。よほど疲れていたのだろう。

 そのうち、窓辺に腰かける沙耶の元にも睡魔がおとずれた。


 その通りには、多くの人々が行き来していた。体にはふわふわとした感覚があったが、気にもとめずに、沙耶は通りに立っていた。街並みや人々は、馬稚の都とそっくりだった。

 そのとき、遠くの方で鐘の音が聞こえた。いや、鐘の音とするには、あまりに重々しいものだったかもしれない。

 すると、何人かが鐘の音がひびいてくる、街外れの方へ歩きはじめた。

 その一方で、鐘の音などはまったく気にしない者たちもいた。聞こえていても、首をかしげるだけで、音の方へむかおうとはしない者もいた。

 沙耶は不思議に思い、街外れへと歩いていく一団についていった。

 それに、くりかえし打ち鳴らされる鐘の音は、心地よく、安らげるものだった。その音は体の奥に共鳴し、こわばった肩や手脚をやさしくほぐした。

 鐘の音は体の外ではなく、内にひびいているもののようにさえ感じられた。

 気がつくと、あたりの街並みは消えうせ、代わりに岩や土におおわれた地肌が見えた。

 空はうすぐらく、風は荒々しく吹き、乾いている。それに、地面はゆるやかに傾斜している。

 人々は無表情に、長い坂をくだっていった。いつしか沙耶も、歩く屍のような一団のひとりとなって、ひびきわたる鐘の音にむかって歩いていった。

 そのとき、空に雷鳴がとどろき、一陣の風が吹きつけてきた。

 人々の頭上には、黒い具足に身をつつんで、牙をむきだした鬼神のような武者がいた。武者は宙を舞って、右手の太刀をかかげ、稲妻のような怒声をあげた。

 人々は武者の姿におそれおののき、尻もちをついたり、斜面を駆けおりたり、いそいで道を引きかえしたりした。


 肩をゆすぶられる感覚に、沙耶は目を覚ました。

「もし、巫女様。夕餉のご用意ができましたが。もし……」

 そこに立っていたのは、宿の女中だった。

 夢見ごこちの沙耶の脳裏には、重々しい鐘の音がこだましていた。はっきりとはしないが、どうやら、夢の中ではずっと、その鐘の音がひびいていたような気がする。

 女中はおそるおそる、沙耶の顔をのぞきこんできた。

「あの、夕餉の用意がありますが、いかがいたしましょうか?」

「ありがとうございます。先に、湯を浴びたいと思います。それでもよろしいですか?」

 すると、女中は一階にある風呂の場所を説明した。沙耶は寝言をもらす鹿彦を起こした。

「さあ、お夕飯のまえに、風呂で垢を落としましょう」

 湯をあがり、浴衣姿となった沙耶たちが部屋にもどると、さきほどの女中が膳をはこんできた。

 ふたりは生唾を呑みこんだ。

 漆塗りの膳には、様々な料理がひしめいていた。

 茶碗に盛られた白米、めざし、すりおろした山芋、ごぼうと大根の漬物、しじみの吸い物。口直しに、梨と煎茶もでてきた。

 沙耶にとっては、従来の宮での夕飯にいくらか色のついたものにすぎなかった。

 一方で鹿彦といえば、喜色満面と箸を振りまわしていた。飯粒を飛び散らかしては、それをつまみあげ、口にいれる。吸い物の椀にかぶりついては、殻をも噛みくだくいきおいで、一心不乱にすする。めざしについては、はじめは箸で身をほぐしていたものの、しまいには頭からかぶりつくありさまだ。

 苦笑する沙耶に、鹿彦は非難するようにいった。

「なにがおかしいんだよ。こんなご馳走、めったにないだろう?」

「料理は逃げませんよ」

「いいや。おれはもう、なにが起きたっておどろかないさ。地下に封じられた神様。真っ黒な人喰い蜥蜴。それを思うと、膳に足が生えて、走りだしたって不思議はないよ」



 来客があったのは、きわめて遅い時分だった。

 行灯のあかりを消して眠ろうとしたときに、ふすまのむこうから女中の声がしたのだ。

「もし、巫女様。まだ、起きておいでですか」

 沙耶は腰をあげ、襖に近よった。

「はい。なにか」

「どうやら、巫女様に、ひとりのお客様が……。このような時分ですが、いかがいたしましょうか」

 女中の話によると、客人は年配の男で、よい身なりをしているらしい。木内なにがし、と名乗ったそうだが、聞いたこともない名前だ。

 相手がひとりであることを確認すると、沙耶は腹をきめた。

「わかりました。こちらから、まいります」


 沙耶は鹿彦を伴って、静まりかえった帳場にいった。

 そこには、羽織袴に大小の刀を差した、壮年の男がいた。男は偽名を名乗ったことを詫び、自身が田山藤兵衛というものだと明かした。

「ここでは、ちと、話しづらい。外へでませぬか。そういえば、あなた様は、祈祷のために城へまねかれた、とおっしゃられたようですが、おかしなことです。宮の巫女様をお呼びしたものは、城中におりません」

 びくりと身をふるわせた沙耶は、やがて観念した。

「ときに、そちらの方は、どなたですかな」

 口をひらきかけた鹿彦に代わり、沙耶がこたえた。

「助手、といったところです」

「おや。弟なのではなかったですかな。……いや、頼みを聞いてくだされば、仔細には、かまいませぬ」


 井戸端までやってきてから、あらためて田山は非礼を詫び、突然の訪問の真意を説明した。

 馬稚国の国主である信貞が、都で蔓延している眠り病にかかったらしく、十日にわたって眠り続けている。ますます国政は乱れはじめ、このままでは大問題になる。そのため、まずは信貞を救うことに手を貸してもらいたい。

 そんなことを懇々と語った。

「わたしに、お殿様を救え、ということですか」

 と沙耶はいった。すると、田山は眉をひそめた。

「あなた様の身の保障と引きかえに、ということでしたら、いかがですかな。――実は、本日の午後、白ノ宮より使者がまいりました。どうやら、大事な役についた巫女様が、逃げだしたとのことで。たしか、名前を沙耶、というのだとか」

 沙耶はふるえる声でいった。

「強請るのですか」

「まさか。――ところで、あなた様のお名前を聞いておりませんでしたな」

「わたしは。……はつ、ともうします」

「そうですか。して、はつ様。ご助力いただけますかな?」

「しかし、お話をうかがうに、医者に相談すべきことのように思われます。それに、馬稚国の公式な依頼ならば、白ノ宮も手を差しのべるのではないでしょうか。なぜ、わたしなどに……」

「すでに医者は山ほど呼びました。それに、こたびの問題については、どうにも白ノ宮は慎重なようで。なんどか使者を送りましたが、おかしなことに、いまだによい返事をもらえず……。あちらは迷子探しを要請してくるというのに。――ともかくそんなわけでして、藁にもすがりたい思いで、こうしてお願いにまいっているのです。修行を積まれた巫女様ならば、なにか手がかりをつかめるのではないかと。……もし殿に万一のことがあらば。私は、腹を斬るつもりです」

「受けるしかないようですね。……わかりました。できることを、やってみましょう」

「おありがとうございます。それでは、明日の昼、駕籠をおむかえにあがらせます。……また、差し手がましいようですが、警護のものを、何人かつけさせていただきます。よからぬものが、万一あなた様をおそうことがあっては、心配でございます」

 そういって、田山は去っていった。

 宿にむかって歩いていると、黒装束の男の影が、屋根や路地にちらりと見えた。『逃げられぬぞ』といっているようだった。



 翌日の昼になると田山の話どおり、宿のまえに駕籠がやってきた。

 沙耶は巫女装束を身につけ、髪をしばりなおした。胸元の勾玉がないのはさみしかった。鹿彦は、はじめての登城ということもあり、そわそわとしているようだった。

 日に焼けた髪をなでつけ、目やにをぬぐい、服の皺をのばしていた。さすがに小屋で見つけた毛皮の羽織ではなく、昨日新調した紺の小袖を着ていた。

「こんなかっこうで、大丈夫かな」

「どうでしょうね。……べつにお侍ではないのだから、いいのでは?」


 沙耶は鹿彦とともに宿をあとにした。

 あたりには夏の日差しがふりそそぎ、蝉の声が間断なくひびいている。

 駕籠の手前には、ふたりの駕籠者が退屈そうに煙管をふかしていた。

 沙耶と鹿彦は駕籠に乗りこみ、ゆられながら雑踏の中をすすんでいった。すだれのおりた駕籠からは、わずかしか外が見えなかった。

 いちど、内郭の門で駕籠が止まった。駕籠者は、「ご家老の田山様の客人でさあ」といった。すると、「聞いておる。通るがよい」といかめしい声がした。


 駕籠は内郭の門をくぐり、堀を越え、天守の裏手へとまわり、やっと動きをとめた。

 内郭にはいってからというもの、一層と蝉の声がうるさくなった。あちらこちらに立っている松に、蝉がたかっているのだろう。

 駕籠の底が地面についてから、つきやした、という駕籠者の声がした。

 沙耶が外にでると、田山が駕籠者の手に金子を載せている光景があった。

「ごくろうだったな。いうまでもないが、城の客人について、よそであれこれ喋ると、御用がなくなるゆえ、気をつけよ」

「へえっ。よく心得ておりやす」

「よし、いくがよい」

「へえっ。それでは、これにて」

 すると、男たちは駕籠を担いで去っていった。

 そこは砂利の敷きつめられた中庭だった。うしろには天守があり、目のまえには瓦をふいた長大な屋敷があった。そこいらに鉢巻をした侍が、槍を手に立っていた。鎧はいずれも朱塗りの、手の込んだものだった。

「よくきてくださいました。殿は、お屋敷にいらっしゃいます」

 そういってから、田山は庭先を横切り、屋敷へと歩いていった。

「どうか、こちらへお越しを。……本来ならば、玄関をご案内すべきなのですが、人目をはばかるため、お許しくだされ」

 沙耶と鹿彦は縁側で履物をぬぎ、屋敷へとあがった。

 田山は重々しい襖のまえで膝をおり、

「田山でございます。失礼つかまつる」

 といって、襖をあけた。

 沙耶についてはいくらか礼儀を心得ていたため、床へ平伏した。鹿彦については茫然と立ちつくしていた。

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