第3話
月が夜空にのぼっても、沙耶は帰ってこなかった。
老婆は本宮へ使者を送り、事態を収拾するためにどうすべきか伺いを立てたようだったが、返事はいつになるのか、しれたものではなかった。また、場合によっては、沙耶がなんらかの罰則を受ける可能性もあった。よくて宮からの追放といったところだろうか。
鹿彦はついに立ちあがり、部屋のかたわらにあった行燈を手にとった。菜種油はまだなみなみと残っていた。それに念のため、火打石と火打鎌も懐にいれ、庭へでた。
玉石のしかれた庭をわたるときも、忍び足でゆくことはなかった。臆病者たちが自分の足音を聞いて、ふるえあがればいい、とさえ思った。
月は明々と夜空を照らし、星々は多様な光をはなっていた。赤みをおびたもの、白いもの、大きなもの、埃のように小さなもの。たゆまず光り続けるもの、蛍のように明滅するもの。それらの光は、人のありかたのように思われた。もし、沙耶が星ならば、自分など、もっとも奥の方でちぢこまった、石英のかけらに過ぎないと、鹿彦は思った。
あるいは鹿彦自身は、おのれを流れ星のように思った。
梟や虫の声が遠くから聞こえた。それらの声は、深い夜へ、古い闇へと誘っているようにも思われた。
大きな蛾や、得体の知れない羽虫が行灯をめがけて、なんどもぶつかってきた。それらをさけて、鹿彦は石段の方へ進んだ。
石段に足をかけると、氷のようだった。ついで、わらじの裏から冷気がかけあがってきた。
夜気が清冽と流れていたが、石段より立ち上がる、不吉な気配が薄められることはなかった。
石段をおりていくと、例の扉の前に行きついた。そこで、行灯の灯りが大きく揺れた。
半ば錆びついた大きな錠には、微細な装飾がほどこされていた。鳥らしき彫刻や、植物の蔓のような彫刻があった。
錠の左側に飛び出た二本の棒は、鍵が解かれていることを意味していた。
鹿彦は扉に体重をかけ、推してみた。――すると、扉は重々しく軋みながら、徐々に開いていった。それと同時に、むせかえるような湿った土のにおいと、かびのにおいが押しよせてきた。
闇は液体のようであり、意思をもっているようでもあった。巨大な生物の胎内に向かう心地で、鹿彦は行灯を掲げて進んでいった。濃密な闇は、それ自体が悪意を持っているかのようだった。
――そのとき、土の壁によって道が遮られた。周囲に行灯を向けると、左右に通路が続いているのがわかった。――そこで鹿彦は戸惑ったものの、右へと折れた。
……すると、足元に小さな影が横切った。気のせいだろうか、と、鹿彦は目を細め、行灯を向けた。
たしかに、黒い塊が地面を這っていったように見えたのだ。
(こんな場所だから、鼠かなにかが住みついていることだって、あるんだろう。そうさ。そうに違いない)
鹿彦は自身にそういい聞かせて、震える脚を引っぱっていった。
「沙耶さん、どこにいるんだい? 助けにきたんだよ!」
沙耶を探そうと、鹿彦はあてどもなく呼びかけながら歩いた。しかし、沙耶の返事はなかった。
道は複雑に入り組み、向いている方角すら、判然としなくなっていった。曲がり角にさしかかるたびに、おどろおどろしい神や、あるいは得体のしれぬ邪霊がひそんでいるのではないかと、鹿彦は気が気ではなかった。
事実、背後には常に、何者かの気配があった。しかし、その正体は判然としなかった。
(ひょっとして、沙耶さんが追いかけてきているのか? だとしたら、どうして? ――いや、きっと、洞穴に祀られている、言忌様か……? そもそも、言忌様は、どんな姿をしているんだ?)
そんな妄執にこたえるのは、湿り気のある闇の淀みばかりだ。付かず離れずまとわりついてくる、その気配はやはり、正体をさらさなかった。
ゆるやかに傾斜している通路を、鹿彦はひたすら進んでいった。地上へ引きかえそうと、なんども足を止めたのも事実だが、そのたびに、洞穴にいるはずの沙耶の苦しみを思った。
父を亡くした沙耶は洞穴に閉じこもり、死を迎えるつもりなのだろうか。そんな風に思うと、鹿彦はじっとしてはいられなかった。
やがて、背後にせまる気配がより、はっきりとしはじめた。また、その気配は、下方より迫ってくるように思われた。耳を澄ますと、小さな足音すら聞こえてくるようだ。
そこで、ついに鹿彦は足を止めて、行灯をもった右手を、ゆっくりと後ろへめぐらせた。
しかし、背後にはなにもなかった。
ただ、灯りを倦むように、闇が心なしか遠のいただけだ。
鹿彦は舌打ちをして、前へと向き直った。
そのとき、鹿彦は右の足首になにかを感じた。それは、石のかけらか洞穴をめぐる風の束だろうか。
わからなかった。
ゆっくりと身を引きながら、行灯を近づけると、それはいた。
鹿彦は飛び上がると、肩や頭を土壁にぶつけながら駆けだした。いきおい足をすべらせ転倒した。行灯は宙に舞い、菜種油を振りまいて地におちた。それにもめげず、鹿彦は油が染みついた体を起こし、暗闇の中を走った。
とつぜん頭や体をおそう木の柱や土壁は、闇の中からおそってくる棍棒のようなものだった。
先刻、鹿彦が目にした存在とは、蜥蜴にほかならなかった。
そう、二日まえに故郷の家になだれこんできた、黒い蜥蜴の一匹が、足元にすり寄って、舌を伸ばしてきたのだ。
(どうして! なんだってあいつらがいるんだ。宮の近くには守護が働き、やつらは入ってこられないはずだろう? そうじゃなかったのか!)
蜥蜴はつかず離れず、足音をたてて背後を追ってきた。
無我夢中で走っていくと、そのうち、蜥蜴は追跡をあきらめたのか、足音がなくなった。
鹿彦はなにも見えぬ闇の中、大きな声で叫んだ。
「いったい、あんたはどこにいるんだよ……沙耶さん!」
声はこだまするも、それに応える者はいなかった。
蜥蜴の姿は消えたものの、周囲の闇には、悪意を持った気配がひしめいているような気がして、どうにも落ち着かない。四方から、上下から、何者かがじっと見てくるような気配……。もはや鹿彦に、それらの重圧へ抗う気力はなかった。
鹿彦は半ば自暴自棄になって、獣の牙へ身を投げるように、闇の中を進みはじめた。そもそも、二日前に踏みいれた闇が、ずっと続いているだけのようにも思われた。
(この命でよければ、いくらでもうばうがいい。古い神だろうと、蜥蜴だろうと。いいかげん、やっかいな恐怖をもたらす、おれの命をうばってくれよ!)
いったいどれほどの時間がたったのか、はっきりとは分からない。暗い海水を掻き分けるように、鹿彦は闇を延々と歩いた。
やがて、遠くに光を見つけた。
ついで、水音がした。
壁に手をつきながら進んでいくと、光は岩と岩のあいだから、すき間をぬうようにもれてきているのが分かった。また、そのすき間からは絶えず水がこぼれ落ちており、ちいさな滝をなしていた。
滝は水たまりをつくり、そこから洞穴のわきにそって、川となっていた。暗い洞穴の中に突如現れたその光景は、現実離れしていた。鹿彦は呆然として、流れおちる水を手で受けた。その水流は、たしかに現実のものだった。水圧やつめたさや、さらさらとした肌ざわりが、幻であるはずがなかった。
両手に水をうけた鹿彦は、泥まみれの口内をすすぐこともせず、胃の底がつめたくなるまで飲んだ。胃がふくらんだころ、喉が渇いていたことをしった。ついで、なぜ地下の奥深くに光が射しているのか疑問に思った。
滝のしぶきをうけながら、鹿彦は目を細めてすき間をのぞきこんだ。
ほどなくして、疑問の答えはあたえられた。
「井戸の底へとつながっているのです」
ふりかえると、わずかな光によって、沙耶らしき人物の輪郭が浮かびあがっていた。澄んだ声質をもち、ほのかな神酒のにおいをはなつ少女は、沙耶のほかに思いあたらなかった。首元には紅い勾玉が光をはなっていた。
「ずっと探していたんだよ」
と、鹿彦はいった。
「そうでしょうね、よほど喉が渇いていたようですから」
「やっと見つけたよ……」
「ええ。わたしも、お役についてから半年も経ってから、この湧水を見つけたのです」
「ちがう。……おれは、あんたを見つけた、っていっているんだよ。沙耶さん」
沙耶は光の近くにやってくると、右手に水をうけ、味の検分でもするように口にふくむと、ちいさく喉を鳴らした。ふう、とためいきをついてから、沙耶は背中をむけたままでいった。
「どうして」
その言葉がなにに対してのものなのか、鹿彦にはわかりかねた。
「心配だからきたんだよ。禁をやぶったことにはなるが……」
「そうですか」
「そうだよ。――それに、よかったら、おれに聞かせてほしい。あんたは、死のうとしているのか、生きようとしているのか」
「ひとはだれしも、いずれ死にます」
「いいかい、沙耶さん。すくなくとも、おれたちは、まだ生きている。おれだって、心中するつもりできたわけじゃないんだよ」
「お説教をしにきたの?」
「どうだっていいさ。とにかく、もうもどろうよ、こんな場所」
「待って。それよりも、あかりはありますか?」
「なんだって? ここじゃ、あかりはご法度なんじゃないのかい。とはいえ、途中まで行灯をもってきちまったけど」
そこで鹿彦は火打石と火打鎌をもっていることを思いだし、すぐに懐へ手をいれた。
左手にもった火打石を岩間からもれる光にかざし、右手の火打鎌を打ちつけた。「ちぇ、こりゃ、やりづらいよ。第一、火口もなにもない」などと愚痴をもらしながらもくりかえしていくと、次第におおきな火花が飛ぶようになった。
「あとは、火口と、燃えしろだ。とはいえ、そんなものは見あたらないが」
「用意しますから、なんどか、それをくりかえしてください。火を打っていてください。暗くてどうにも、手元が見えません」
わかったよ、とつぶやいてから、何度も何度も鹿彦は火を打った。
「なあ、陽那さんは、おれを助けてくれるときに、呪符へ光をともしてくれたんだ。あんたにはできないのか?」
「そんなことを、だれもができると思わないでください。それに、どのような術であれ、それをするために、巫女はおのれの寿命を燃やさなければなりません。一年か、二年か、そんなことはわかりませんが、あなたをすくった光は、陽那さんの命を燃やしたものだったということを、どうか忘れないでください」
しばらく不機嫌そうにしていた沙耶であったが、やがて自分の装束の裾をやぶいた。
「なにをやってるんだ?」
「服につまった木綿を……。寒がりでして、夏でも木綿をいれているものですから」
「なるほど、それを火口にするってわけか。それで、なにを燃やす?」
「どうやら、菜種油のにおいがしますね」
「ああ。途中で行灯をひっくりかえしてね。――そういえば、そうだ! なんとしたことか。この洞穴に、蜥蜴がいたんだ! 先日、おれのお母を喰らいやがった、あいつらが。それか、あの蜥蜴が、言忌様だっていうのかい?」
しかし沙耶は落ちついた声でいった。
「いいのです。ここは、ゆめゆめそういった場所なのです。さて、燃えしろをなんとかせねばなりませんね。たとえばあなたの、菜種油をすいこんだ上衣は、ほどよいと思いますが」
鹿彦はしぶしぶ上衣をぬいで、それを丸めた。火を打って、木綿を燃やし、その火を上衣に移した。
「こんなの、すぐに燃えちまうよ。それに、油だって、すこし浴びたくらいだ」
「かまいません。祭壇はすぐ近くですから。さあ、ついてきてください」
「分かったよ。さて、燃えつきちまうから、早くいこう」
すると沙耶はうなずいて、歩きはじめた。しばらく行ってから、沙耶は立ち止まっていった。
「ここは、かつて、水晶を掘るための坑道だったのです」
「へえ、そうだったのか……」
「かつて、先々代の大巫女様は、汕舵の民より授かった秘法をつかうことを決めました。数々の呪と、生贄と、言霊をもちいる、おそるべきものでした。神をつくり、それに敵を呪わせるという、およそ信じられない方法でした。――術は成就し、神はつくられました。神には名があったのですが、すぐに忘れられました。言葉にするのも忌まわしい、穢れた名前だったと聞きます。そのため、神は言忌様と呼ばれました。むろん、言忌様の力は、強力なものでした。大巫女様が唱えた呪詛が言忌様のお耳にはいるや否や、言忌様の口からは嵐のような災厄が飛びでて、敵国にふりそそいだと伝えられます。――その後、ふたたび言忌様の助けが必要なときまで、ある場所に封じることになったのです。それが、この坑道なのです」
「そ、それはわかったけど。おれなんかに、いってしまっていいのかい? それに、この場所で、……言忌様に聞こえるような場所で、そんなことをいってしまって、いいのかい?」
しかし沙耶はなにもこたえず、先を歩いていった。
しばらくいくと、二人は広間のような場所にいきついた。
岩肌の天井は見あげるほど高く、壁にはまばゆいばかりの光が反射していた。
「まだ、採掘されていない水晶がのこっているのですね」
「これは、すごい……」
鹿彦は口を呆けたようにあけて、周囲を見まわした。
岩にうまった水晶の原石が、夜空の星のごとくかがやいて、周囲を取りまいていたのだ。
火のゆらぎに合わせて、星々はまたたいた。
しかし、悠長にもしていられなかった。
早くも右手にたずさえた布の松明が、燃えつきようとしていたのだ。
夜空の広間の中央には、肩の高さくらいの、木製の檻があった。沙耶はそれを指さして、なにもいわずに立っていた。
鹿彦が檻の中を見たのは、一瞬のことだった。
なにしろ、やっとのぞきこんだ瞬間に、火は布を食いやぶり、とうとう右手を火傷させるほどのところまできていたからだ。
暗闇の中から、声がした。
「見ましたか?」
鹿彦はうなずいてから、光がないことを思いだして、見たよ、とこたえた。声がふるえて、まともに喋ることができなかった。
闇の中でなお目をとじて、鹿彦は最後に見たものを思いかえした。
檻の中央には、寝そべったまま死んだらしき何者かの骨があった。
頭や胴体や手足などの、もろもろの部位の白骨が、乾いたうすい皮をやぶって突きでていた。
頭蓋骨やもろもろの骨は、人のものにしてはちいさかった。
「目をあけて」
沙耶の声がした。そのとおりにしてから、鹿彦は疑問を覚えた。
「どうして、こんな暗闇で、おれが目をとじていることが、わかったんだ」
「目をあけているから」
「あんたは、夜目が効くんだね」
「どうでしょうね」
すると、鹿彦の手につめたいものが触れた。どうやら、沙耶が手のようだった。
「な、なにを……」
「もう、もどりましょう。帰り道で、それ以上体にこぶを増やしたくはないでしょう。なにせ、上半身、裸になってしまいましたし」
帰り道は、おどろくほど短かった。
さんざん迷いに迷った道も、沙耶にかかれば、よくしった屋敷を歩くのと変わりがなさそうだった。
鹿彦の手をひく沙耶は、道の半ばで、ふと、こんなことをいった。
「言忌様は、元々、猿を依り代に使ったものと聞いています」
「だろうね。あの骨の持ち主が、そうだとしたら。なんにしても、すでに死んだみたいだけど。――いや。それにしても、おかしなことがある。はじめ、おれは、言忌様とは、蜥蜴の化身だと思っていたんだ。見まちがいや、幻のたぐいかもしれないが、たしかに、この目で見たんだ。ああ、いまにも、そこらへんにいるんじゃないかって……」
「それは、おそらく、言忌様でしょう」
「なんだって」
鹿彦は身をすくませて、立ちどまった。
「言忌様は、不自由な猿の肉体をすて、洞穴に広がったのでしょう」
「え、どういうことだい。まさか、あの蜥蜴が、何体もいるってことかい?」
「いいえ。言忌様はもともと、霊体なのです。さまざまな霊魂をあつめ、呪法で怨念を植えつけ、それを猿の体に封じたものが、言忌様の正体なのです。しかも、それは汕舵の民に伝わる秘法のひとつなのだとか。大巫女様が、親交のあった汕舵の民からさずかったのです。――やがて、猿が死をむかえると、言忌様は霊となって、洞穴を徘徊するようになったのだと思います」
「それが、蜥蜴の姿をしているってわけかい?」
「そうでもあり、そうではない場合もあります。――いいですか。言忌様はかつて、戦のおりに、呪いの媒体としてお力をお貸しくださいました。呪われた国の王や家臣たちは、めいめいの、もっともおそれる姿を見て、発狂の中、苦しみ亡くなったとされています。けだし、言忌様の姿とは、恐怖そのもの、といったところでしょう」
「そうか。たしかに、おれは、あの蜥蜴どもをおそれているよ。しかし、もう言忌様はやってこないんだろうか。さっきから、気配がないようだけど」
「わかりません。ただ、しばらくはやってこないでしょう。言忌様は、恐怖の気もちに引きよせられるのです」
「よかったよ。どうあれ、もう、蜥蜴なんか見たくもないや。それにしても、なんだか、かわいそうな感じがするよ。あの、言忌様というやつが」
「そうですね。死ぬこともなく、ずっと洞穴をさまようのですから。そして、それは、わたしの姿でもあるのです。……このお役についているかぎり、わたしは生きてもいなければ、死んでもいなかった」
「そうか。そんな状況で父上の訃報があったものだから……」
「わたしが陽那さんに託した手紙も、まにあいませんでしたね。あいにくと、父は亡くなりました。看病のために、宮を抜けだそうとなんど思ったことか……。気がつくと、わたしは地下で座りこんでいました」
「こんなところにとじこもっていたら、死んでしまうよ」
「そうですね。――おや、出口が見えましたよ」
そこには地上へと続く扉があった。
闇の中をひたすら、沙耶に引かれていた鹿彦であったが、このときはまえに躍りでて、駆けはじめた。
地上の光にむかって、石段を駆けあがった。沙耶も心なしか軽快な足音をたてて、あとをついてきた。
――そこには、幾人もの兵がいた。
石段の周りを囲うように、三人の兵が槍を構えて立ちはだかっていたのだ。いずれも壮健たる巨躯に、厚手の木の具足をまとっている。
「これは、いったい……」
鹿彦は石段より顔だけをだして、そういった。
沙耶も同じく顔をだして、短い悲鳴をあげた。
そのとき、老婆が兵の陰から顔をのぞかせた。
「沙耶さま、これらは、本宮からつかわされた兵ですじゃ! お逃げくだされ!」
すると、兵の中でも年配の、髭をたくわえた兵長らしき者が、だまらんか、と一喝、老婆をおしやった。ついで沙耶を見ていった。
「そなたは、地下にいすわってお役の務めを乱し、言忌様を冒涜した。よって、厳しく詮議しなければならぬ。そればかりか、見しらぬ若鹿を連れこんだとあっては、ただではすまぬ」
老婆はなおも、兵の腕をかいくぐって顔をだした。
「お逃げくだされ! このままでは、沙耶さま。あなたは、よくして宮からの追放。悪ければ、殺されますぞ!」
兵長は老婆の頭をなぐり、またしてもうしろへ突きとばした。
「なんにしても、本宮での詮議が先だ。さて、沙耶殿、きてくださいますな」
鹿彦は沙耶のまえに立った。
「おれは、勝手にはいりこんだまでだ。沙耶さんに落ち度はない」
「関係ないな。結果のことをいっておるのだ。お主のことがなくとも、お役の巫女が、神聖な地下の洞穴にとじこもって一晩を明かすなぞ、あってはならぬこと。……われわれに従わぬ場合は、無理にでも連れてまいらねばなりませんぞ」
すると、兵たちは石段に向かってせまってきた。
老婆はなおも口から血を流して地をはってきた。
「沙耶様。わしのことは気にせず、どうかお逃げくだされ!」
鹿彦はその声を聞きながらも、はたしてどうやって逃げるべきかを考えていた。石段を駆けのぼったとしても、兵どもにとらわれるのがおちだ。それをしのいだとしても、門をどうやって越えればいいのだろうか。
そのとき、老婆はひそやかに、地面を指した。節くれだった右手の人さし指を、地面にむかって突きたてたのだ。
沙耶を見ると、唇をかみしめて、石段の奥へ視線をむけた。
ふたたび、老婆の声がした。
「さあ、お逃げくだされ! 鹿彦さんも、沙耶様も、ただではすみませぬぞ」
すると、沙耶は身をひるがえして石段をおりていった。
鹿彦はおどろいて声をかけた。
「地下へいって、どうしようっていうんだ!」
「鹿彦さん、あなたも、こちらへ!」
わけもわからず、鹿彦は沙耶に続いた。
背後から兵長の怒声がひびいた。
「そんなところに逃げても、どうにもならぬぞ。でてくるまで、待っているだけだ」
鹿彦はふたたび、沙耶に手を引かれて暗闇をすすんだ。
「沙耶さん。あんたはいったい、どうするつもりなんだい」
「あなたまで巻きこむわけにはまいりません。逃げましょう」
「だからといって、地下へ逃げこんでも……」
「ここは、かつて水晶を掘るための坑道だった、といったはずです」
「まさか、出口が、ほかにもあるってことかい?」
二人はひたすら歩き続けた。
一刻もすすむと、鹿彦はいつしか、傾斜をのぼっていることに気がついた。
やがて坑道の先から、木々や草のにおいがまじった、ひとすじの風が流れてきた。
坑道は地表の近くまで達したようだが、袋小路になっているようだった。頭上からは、ほのかな光がもれてきていた。
「火を打ってみてください」
と沙耶がいった。
鹿彦は火打石と火打鎌をとりだし、頭上からのわずかな光を頼りに火を打った。なんどもくりかえすと、木で組まれた天井が、蓋のようにかぶさっていることがしれた。
沙耶は天井をなんどかたたいてから、残念そうにいった。
「出入り口が、そのままになっているとは思わなかったけれど、こうなっては……」
鹿彦はあきれるようにいった。
「あんたは、あまりに従順すぎたんだよ」
すぐに鹿彦は火打鎌をふりあげ、頭上にむけてぶつけはじめた。
「やぶるんだよ。そうでなきゃ、道なんて袋小路だらけさ」
鹿彦はなんども天井を打った。木屑がおちて目にはいるも、なんどもなんども打った。少しずつ光が大きくなってきた。
「木の梁を、一本ずつでも、折るんだよ」
やがて鹿彦はつかれはてて、腰をおろした。すると、こんどは沙耶に火打鎌をとりあげられた。
無言のまま、沙耶は天井の切れこみに火打鎌をぶつけ続けた。
鹿彦はその光景を、半ば苦笑まじりに見あげていた。この巫女は、いままでの人生において、ここまで無様な力仕事をしたことがあっただろうか。いや、たぶんなかっただろう。
「これからは、楽じゃないかもしれないよ」
沙耶は腕を動かしたまま、
「いえ、もうすぐ、やぶれるのではないかと」
といって、咳こんだ。土や木屑をすったのだろう。
「変わってやるよ」
そういって、鹿彦は立ちあがった。火打鎌を受けとろうとしたのだが、折ろうとしていた一本の梁が、すでにたわんでいることに気がついた。
「よし、ここまできたら!」
鹿彦は地面に足を張り、天井をおしあげた。木がきしむ音についで、土がおちてきた。
さらに力をこめたとき、天井はくずれた。直後、おびただしい量の土砂がふりそそいだ。沙耶の悲鳴が聞こえた。
土煙がおさまったとき、腰まで土にうもれた沙耶の姿が見えた。
鹿彦は土の小山をよじのぼって地面にでると、沙耶をひきあげた。
沙耶はどういうわけか、暗い洞穴の奥を見たまま、動こうとしなかった。
鹿彦は不思議に思い、闇の中を見た。するとそこには、猿の姿にも見える、ぼやけた影がたたずんでいた。さしずめ、猿の亡霊といったところだろう。
亡霊を見つめていた沙耶は、まるで子供にいいふくめるように話しかけた。
「すみません。わたしはもう、ここへはもどりません。どうか、ご達者で」
すると亡霊は、さみしそうに背中をむけて、去っていった。
鹿彦は体の土をはらいながら、沙耶へいった。
「なんだったんだろう。さっきのは」
沙耶は土まみれの巫女装束をそのままに、無言のままかむりをふった。
鹿彦はしばらく思案してから、沙耶に尋ねた。
「おれは、これから汕舵の地を目指すつもりだ。元より、そのつもりだったからね」
「そうですか。ここからでしたら、おそらく街道も近いでしょうね。街道に沿って北に向かえば、
「ありがとう。道はとおいが、おれはいくよ。お母の墓も立ててやれてないが、もどったらまた、蜥蜴どもがやってくるかもしれない。いまは、汕舵の地をめざすほかはないみたいだ。さて、沙耶さん。あんたはどうする?」
「故郷にもどろうにも、待つひとはおりません。わたしは……。ひとりですね」
沙耶は両手で顔をおさえて嗚咽をもらした。同時に、泣くことを恥じるように眉根をゆがませた。
「遠慮はいらないよ。……だれだって、悲しいときは、そうなるもんさ」
鹿彦は右腕をのばして、沙耶の肩をつつんだ。
しかし沙耶は手をはらって、背中をむけた。
「案内しましょう。少しは、道がわかりますから。どのみち、わたしも追われる身です。汕舵の民はいずれの勢力にも与さない中立の民ですから、こんなわたしでも、かくまってくれると思います。――いや、それはあまりに楽観的な考えかもしれませんが。……つてが、ないわけでもありません」
それにしても、と鹿彦はいいさして、大きなくしゃみをした。
「なにか、上衣を着なくちゃ、たまらないな」
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