第3話

 月が夜空にのぼっても、沙耶は帰ってこなかった。

 老婆は本宮へ使者を送り、事態を収拾するためにどうすべきか伺いを立てたようだったが、返事はいつになるのか、しれたものではなかった。また、場合によっては、沙耶がなんらかの罰則を受ける可能性もあった。よくて宮からの追放といったところだろうか。

 鹿彦はついに立ちあがり、部屋のかたわらにあった行燈を手にとった。菜種油はまだなみなみと残っていた。それに念のため、火打石と火打鎌も懐にいれ、庭へでた。

 玉石のしかれた庭をわたるときも、忍び足でゆくことはなかった。臆病者たちが自分の足音を聞いて、ふるえあがればいい、とさえ思った。


 月は明々と夜空を照らし、星々は多様な光をはなっていた。赤みをおびたもの、白いもの、大きなもの、埃のように小さなもの。たゆまず光り続けるもの、蛍のように明滅するもの。それらの光は、人のありかたのように思われた。もし、沙耶が星ならば、自分など、もっとも奥の方でちぢこまった、石英のかけらに過ぎないと、鹿彦は思った。

 あるいは鹿彦自身は、おのれを流れ星のように思った。

 梟や虫の声が遠くから聞こえた。それらの声は、深い夜へ、古い闇へと誘っているようにも思われた。

 大きな蛾や、得体の知れない羽虫が行灯をめがけて、なんどもぶつかってきた。それらをさけて、鹿彦は石段の方へ進んだ。

 石段に足をかけると、氷のようだった。ついで、わらじの裏から冷気がかけあがってきた。

 夜気が清冽と流れていたが、石段より立ち上がる、不吉な気配が薄められることはなかった。

 石段をおりていくと、例の扉の前に行きついた。そこで、行灯の灯りが大きく揺れた。

 半ば錆びついた大きな錠には、微細な装飾がほどこされていた。鳥らしき彫刻や、植物の蔓のような彫刻があった。

 錠の左側に飛び出た二本の棒は、鍵が解かれていることを意味していた。

 鹿彦は扉に体重をかけ、推してみた。――すると、扉は重々しく軋みながら、徐々に開いていった。それと同時に、むせかえるような湿った土のにおいと、かびのにおいが押しよせてきた。

 闇は液体のようであり、意思をもっているようでもあった。巨大な生物の胎内に向かう心地で、鹿彦は行灯を掲げて進んでいった。濃密な闇は、それ自体が悪意を持っているかのようだった。

 ――そのとき、土の壁によって道が遮られた。周囲に行灯を向けると、左右に通路が続いているのがわかった。――そこで鹿彦は戸惑ったものの、右へと折れた。

 ……すると、足元に小さな影が横切った。気のせいだろうか、と、鹿彦は目を細め、行灯を向けた。

 たしかに、黒い塊が地面を這っていったように見えたのだ。

(こんな場所だから、鼠かなにかが住みついていることだって、あるんだろう。そうさ。そうに違いない)

 鹿彦は自身にそういい聞かせて、震える脚を引っぱっていった。

「沙耶さん、どこにいるんだい? 助けにきたんだよ!」

 沙耶を探そうと、鹿彦はあてどもなく呼びかけながら歩いた。しかし、沙耶の返事はなかった。


 道は複雑に入り組み、向いている方角すら、判然としなくなっていった。曲がり角にさしかかるたびに、おどろおどろしい神や、あるいは得体のしれぬ邪霊がひそんでいるのではないかと、鹿彦は気が気ではなかった。

 事実、背後には常に、何者かの気配があった。しかし、その正体は判然としなかった。

(ひょっとして、沙耶さんが追いかけてきているのか? だとしたら、どうして? ――いや、きっと、洞穴に祀られている、言忌様か……? そもそも、言忌様は、どんな姿をしているんだ?)

 そんな妄執にこたえるのは、湿り気のある闇の淀みばかりだ。付かず離れずまとわりついてくる、その気配はやはり、正体をさらさなかった。


 ゆるやかに傾斜している通路を、鹿彦はひたすら進んでいった。地上へ引きかえそうと、なんども足を止めたのも事実だが、そのたびに、洞穴にいるはずの沙耶の苦しみを思った。

 父を亡くした沙耶は洞穴に閉じこもり、死を迎えるつもりなのだろうか。そんな風に思うと、鹿彦はじっとしてはいられなかった。


 やがて、背後にせまる気配がより、はっきりとしはじめた。また、その気配は、下方より迫ってくるように思われた。耳を澄ますと、小さな足音すら聞こえてくるようだ。

 そこで、ついに鹿彦は足を止めて、行灯をもった右手を、ゆっくりと後ろへめぐらせた。

 しかし、背後にはなにもなかった。

 ただ、灯りを倦むように、闇が心なしか遠のいただけだ。

 鹿彦は舌打ちをして、前へと向き直った。

 そのとき、鹿彦は右の足首になにかを感じた。それは、石のかけらか洞穴をめぐる風の束だろうか。

 わからなかった。

 ゆっくりと身を引きながら、行灯を近づけると、それはいた。


 鹿彦は飛び上がると、肩や頭を土壁にぶつけながら駆けだした。いきおい足をすべらせ転倒した。行灯は宙に舞い、菜種油を振りまいて地におちた。それにもめげず、鹿彦は油が染みついた体を起こし、暗闇の中を走った。

 とつぜん頭や体をおそう木の柱や土壁は、闇の中からおそってくる棍棒のようなものだった。


 先刻、鹿彦が目にした存在とは、蜥蜴にほかならなかった。

 そう、二日まえに故郷の家になだれこんできた、黒い蜥蜴の一匹が、足元にすり寄って、舌を伸ばしてきたのだ。

(どうして! なんだってあいつらがいるんだ。宮の近くには守護が働き、やつらは入ってこられないはずだろう? そうじゃなかったのか!)

 蜥蜴はつかず離れず、足音をたてて背後を追ってきた。


 無我夢中で走っていくと、そのうち、蜥蜴は追跡をあきらめたのか、足音がなくなった。

 鹿彦はなにも見えぬ闇の中、大きな声で叫んだ。

「いったい、あんたはどこにいるんだよ……沙耶さん!」

 声はこだまするも、それに応える者はいなかった。

 蜥蜴の姿は消えたものの、周囲の闇には、悪意を持った気配がひしめいているような気がして、どうにも落ち着かない。四方から、上下から、何者かがじっと見てくるような気配……。もはや鹿彦に、それらの重圧へ抗う気力はなかった。

 鹿彦は半ば自暴自棄になって、獣の牙へ身を投げるように、闇の中を進みはじめた。そもそも、二日前に踏みいれた闇が、ずっと続いているだけのようにも思われた。

(この命でよければ、いくらでもうばうがいい。古い神だろうと、蜥蜴だろうと。いいかげん、やっかいな恐怖をもたらす、おれの命をうばってくれよ!)


 いったいどれほどの時間がたったのか、はっきりとは分からない。暗い海水を掻き分けるように、鹿彦は闇を延々と歩いた。

 やがて、遠くに光を見つけた。

 ついで、水音がした。

 壁に手をつきながら進んでいくと、光は岩と岩のあいだから、すき間をぬうようにもれてきているのが分かった。また、そのすき間からは絶えず水がこぼれ落ちており、ちいさな滝をなしていた。

 滝は水たまりをつくり、そこから洞穴のわきにそって、川となっていた。暗い洞穴の中に突如現れたその光景は、現実離れしていた。鹿彦は呆然として、流れおちる水を手で受けた。その水流は、たしかに現実のものだった。水圧やつめたさや、さらさらとした肌ざわりが、幻であるはずがなかった。

 両手に水をうけた鹿彦は、泥まみれの口内をすすぐこともせず、胃の底がつめたくなるまで飲んだ。胃がふくらんだころ、喉が渇いていたことをしった。ついで、なぜ地下の奥深くに光が射しているのか疑問に思った。

 滝のしぶきをうけながら、鹿彦は目を細めてすき間をのぞきこんだ。

 ほどなくして、疑問の答えはあたえられた。

「井戸の底へとつながっているのです」

 ふりかえると、わずかな光によって、沙耶らしき人物の輪郭が浮かびあがっていた。澄んだ声質をもち、ほのかな神酒のにおいをはなつ少女は、沙耶のほかに思いあたらなかった。首元には紅い勾玉が光をはなっていた。

「ずっと探していたんだよ」

 と、鹿彦はいった。

「そうでしょうね、よほど喉が渇いていたようですから」

「やっと見つけたよ……」

「ええ。わたしも、お役についてから半年も経ってから、この湧水を見つけたのです」

「ちがう。……おれは、あんたを見つけた、っていっているんだよ。沙耶さん」


 沙耶は光の近くにやってくると、右手に水をうけ、味の検分でもするように口にふくむと、ちいさく喉を鳴らした。ふう、とためいきをついてから、沙耶は背中をむけたままでいった。

「どうして」

 その言葉がなにに対してのものなのか、鹿彦にはわかりかねた。

「心配だからきたんだよ。禁をやぶったことにはなるが……」

「そうですか」

「そうだよ。――それに、よかったら、おれに聞かせてほしい。あんたは、死のうとしているのか、生きようとしているのか」

「ひとはだれしも、いずれ死にます」

「いいかい、沙耶さん。すくなくとも、おれたちは、まだ生きている。おれだって、心中するつもりできたわけじゃないんだよ」

「お説教をしにきたの?」

「どうだっていいさ。とにかく、もうもどろうよ、こんな場所」

「待って。それよりも、あかりはありますか?」

「なんだって? ここじゃ、あかりはご法度なんじゃないのかい。とはいえ、途中まで行灯をもってきちまったけど」

 そこで鹿彦は火打石と火打鎌をもっていることを思いだし、すぐに懐へ手をいれた。

 左手にもった火打石を岩間からもれる光にかざし、右手の火打鎌を打ちつけた。「ちぇ、こりゃ、やりづらいよ。第一、火口もなにもない」などと愚痴をもらしながらもくりかえしていくと、次第におおきな火花が飛ぶようになった。

「あとは、火口と、燃えしろだ。とはいえ、そんなものは見あたらないが」

「用意しますから、なんどか、それをくりかえしてください。火を打っていてください。暗くてどうにも、手元が見えません」

 わかったよ、とつぶやいてから、何度も何度も鹿彦は火を打った。

「なあ、陽那さんは、おれを助けてくれるときに、呪符へ光をともしてくれたんだ。あんたにはできないのか?」

「そんなことを、だれもができると思わないでください。それに、どのような術であれ、それをするために、巫女はおのれの寿命を燃やさなければなりません。一年か、二年か、そんなことはわかりませんが、あなたをすくった光は、陽那さんの命を燃やしたものだったということを、どうか忘れないでください」

 しばらく不機嫌そうにしていた沙耶であったが、やがて自分の装束の裾をやぶいた。

「なにをやってるんだ?」

「服につまった木綿を……。寒がりでして、夏でも木綿をいれているものですから」

「なるほど、それを火口にするってわけか。それで、なにを燃やす?」

「どうやら、菜種油のにおいがしますね」

「ああ。途中で行灯をひっくりかえしてね。――そういえば、そうだ! なんとしたことか。この洞穴に、蜥蜴がいたんだ! 先日、おれのお母を喰らいやがった、あいつらが。それか、あの蜥蜴が、言忌様だっていうのかい?」

 しかし沙耶は落ちついた声でいった。

「いいのです。ここは、ゆめゆめそういった場所なのです。さて、燃えしろをなんとかせねばなりませんね。たとえばあなたの、菜種油をすいこんだ上衣は、ほどよいと思いますが」


 鹿彦はしぶしぶ上衣をぬいで、それを丸めた。火を打って、木綿を燃やし、その火を上衣に移した。

「こんなの、すぐに燃えちまうよ。それに、油だって、すこし浴びたくらいだ」

「かまいません。祭壇はすぐ近くですから。さあ、ついてきてください」

「分かったよ。さて、燃えつきちまうから、早くいこう」

 すると沙耶はうなずいて、歩きはじめた。しばらく行ってから、沙耶は立ち止まっていった。

「ここは、かつて、水晶を掘るための坑道だったのです」

「へえ、そうだったのか……」

「かつて、先々代の大巫女様は、汕舵の民より授かった秘法をつかうことを決めました。数々の呪と、生贄と、言霊をもちいる、おそるべきものでした。神をつくり、それに敵を呪わせるという、およそ信じられない方法でした。――術は成就し、神はつくられました。神には名があったのですが、すぐに忘れられました。言葉にするのも忌まわしい、穢れた名前だったと聞きます。そのため、神は言忌様と呼ばれました。むろん、言忌様の力は、強力なものでした。大巫女様が唱えた呪詛が言忌様のお耳にはいるや否や、言忌様の口からは嵐のような災厄が飛びでて、敵国にふりそそいだと伝えられます。――その後、ふたたび言忌様の助けが必要なときまで、ある場所に封じることになったのです。それが、この坑道なのです」

「そ、それはわかったけど。おれなんかに、いってしまっていいのかい? それに、この場所で、……言忌様に聞こえるような場所で、そんなことをいってしまって、いいのかい?」

 しかし沙耶はなにもこたえず、先を歩いていった。


 しばらくいくと、二人は広間のような場所にいきついた。

 岩肌の天井は見あげるほど高く、壁にはまばゆいばかりの光が反射していた。

「まだ、採掘されていない水晶がのこっているのですね」

「これは、すごい……」

 鹿彦は口を呆けたようにあけて、周囲を見まわした。

 岩にうまった水晶の原石が、夜空の星のごとくかがやいて、周囲を取りまいていたのだ。

 火のゆらぎに合わせて、星々はまたたいた。

 しかし、悠長にもしていられなかった。

 早くも右手にたずさえた布の松明が、燃えつきようとしていたのだ。

 夜空の広間の中央には、肩の高さくらいの、木製の檻があった。沙耶はそれを指さして、なにもいわずに立っていた。

 鹿彦が檻の中を見たのは、一瞬のことだった。

 なにしろ、やっとのぞきこんだ瞬間に、火は布を食いやぶり、とうとう右手を火傷させるほどのところまできていたからだ。


 暗闇の中から、声がした。

「見ましたか?」

 鹿彦はうなずいてから、光がないことを思いだして、見たよ、とこたえた。声がふるえて、まともに喋ることができなかった。

 闇の中でなお目をとじて、鹿彦は最後に見たものを思いかえした。

 檻の中央には、寝そべったまま死んだらしき何者かの骨があった。

 頭や胴体や手足などの、もろもろの部位の白骨が、乾いたうすい皮をやぶって突きでていた。

 頭蓋骨やもろもろの骨は、人のものにしてはちいさかった。


「目をあけて」

 沙耶の声がした。そのとおりにしてから、鹿彦は疑問を覚えた。

「どうして、こんな暗闇で、おれが目をとじていることが、わかったんだ」

「目をあけているから」

「あんたは、夜目が効くんだね」

「どうでしょうね」

 すると、鹿彦の手につめたいものが触れた。どうやら、沙耶が手のようだった。

「な、なにを……」

「もう、もどりましょう。帰り道で、それ以上体にこぶを増やしたくはないでしょう。なにせ、上半身、裸になってしまいましたし」


 帰り道は、おどろくほど短かった。

 さんざん迷いに迷った道も、沙耶にかかれば、よくしった屋敷を歩くのと変わりがなさそうだった。

 鹿彦の手をひく沙耶は、道の半ばで、ふと、こんなことをいった。

「言忌様は、元々、猿を依り代に使ったものと聞いています」

「だろうね。あの骨の持ち主が、そうだとしたら。なんにしても、すでに死んだみたいだけど。――いや。それにしても、おかしなことがある。はじめ、おれは、言忌様とは、蜥蜴の化身だと思っていたんだ。見まちがいや、幻のたぐいかもしれないが、たしかに、この目で見たんだ。ああ、いまにも、そこらへんにいるんじゃないかって……」

「それは、おそらく、言忌様でしょう」

「なんだって」

 鹿彦は身をすくませて、立ちどまった。

「言忌様は、不自由な猿の肉体をすて、洞穴に広がったのでしょう」

「え、どういうことだい。まさか、あの蜥蜴が、何体もいるってことかい?」

「いいえ。言忌様はもともと、霊体なのです。さまざまな霊魂をあつめ、呪法で怨念を植えつけ、それを猿の体に封じたものが、言忌様の正体なのです。しかも、それは汕舵の民に伝わる秘法のひとつなのだとか。大巫女様が、親交のあった汕舵の民からさずかったのです。――やがて、猿が死をむかえると、言忌様は霊となって、洞穴を徘徊するようになったのだと思います」

「それが、蜥蜴の姿をしているってわけかい?」

「そうでもあり、そうではない場合もあります。――いいですか。言忌様はかつて、戦のおりに、呪いの媒体としてお力をお貸しくださいました。呪われた国の王や家臣たちは、めいめいの、もっともおそれる姿を見て、発狂の中、苦しみ亡くなったとされています。けだし、言忌様の姿とは、恐怖そのもの、といったところでしょう」

「そうか。たしかに、おれは、あの蜥蜴どもをおそれているよ。しかし、もう言忌様はやってこないんだろうか。さっきから、気配がないようだけど」

「わかりません。ただ、しばらくはやってこないでしょう。言忌様は、恐怖の気もちに引きよせられるのです」

「よかったよ。どうあれ、もう、蜥蜴なんか見たくもないや。それにしても、なんだか、かわいそうな感じがするよ。あの、言忌様というやつが」

「そうですね。死ぬこともなく、ずっと洞穴をさまようのですから。そして、それは、わたしの姿でもあるのです。……このお役についているかぎり、わたしは生きてもいなければ、死んでもいなかった」

「そうか。そんな状況で父上の訃報があったものだから……」

「わたしが陽那さんに託した手紙も、まにあいませんでしたね。あいにくと、父は亡くなりました。看病のために、宮を抜けだそうとなんど思ったことか……。気がつくと、わたしは地下で座りこんでいました」

「こんなところにとじこもっていたら、死んでしまうよ」

「そうですね。――おや、出口が見えましたよ」

 そこには地上へと続く扉があった。

 闇の中をひたすら、沙耶に引かれていた鹿彦であったが、このときはまえに躍りでて、駆けはじめた。

 地上の光にむかって、石段を駆けあがった。沙耶も心なしか軽快な足音をたてて、あとをついてきた。


 ――そこには、幾人もの兵がいた。


 石段の周りを囲うように、三人の兵が槍を構えて立ちはだかっていたのだ。いずれも壮健たる巨躯に、厚手の木の具足をまとっている。


「これは、いったい……」

 鹿彦は石段より顔だけをだして、そういった。

 沙耶も同じく顔をだして、短い悲鳴をあげた。

 そのとき、老婆が兵の陰から顔をのぞかせた。

「沙耶さま、これらは、本宮からつかわされた兵ですじゃ! お逃げくだされ!」

 すると、兵の中でも年配の、髭をたくわえた兵長らしき者が、だまらんか、と一喝、老婆をおしやった。ついで沙耶を見ていった。

「そなたは、地下にいすわってお役の務めを乱し、言忌様を冒涜した。よって、厳しく詮議しなければならぬ。そればかりか、見しらぬ若鹿を連れこんだとあっては、ただではすまぬ」

 老婆はなおも、兵の腕をかいくぐって顔をだした。

「お逃げくだされ! このままでは、沙耶さま。あなたは、よくして宮からの追放。悪ければ、殺されますぞ!」

 兵長は老婆の頭をなぐり、またしてもうしろへ突きとばした。

「なんにしても、本宮での詮議が先だ。さて、沙耶殿、きてくださいますな」

 鹿彦は沙耶のまえに立った。

「おれは、勝手にはいりこんだまでだ。沙耶さんに落ち度はない」

「関係ないな。結果のことをいっておるのだ。お主のことがなくとも、お役の巫女が、神聖な地下の洞穴にとじこもって一晩を明かすなぞ、あってはならぬこと。……われわれに従わぬ場合は、無理にでも連れてまいらねばなりませんぞ」

 すると、兵たちは石段に向かってせまってきた。

 老婆はなおも口から血を流して地をはってきた。

「沙耶様。わしのことは気にせず、どうかお逃げくだされ!」

 鹿彦はその声を聞きながらも、はたしてどうやって逃げるべきかを考えていた。石段を駆けのぼったとしても、兵どもにとらわれるのがおちだ。それをしのいだとしても、門をどうやって越えればいいのだろうか。

 そのとき、老婆はひそやかに、地面を指した。節くれだった右手の人さし指を、地面にむかって突きたてたのだ。

 沙耶を見ると、唇をかみしめて、石段の奥へ視線をむけた。

 ふたたび、老婆の声がした。

「さあ、お逃げくだされ! 鹿彦さんも、沙耶様も、ただではすみませぬぞ」

 すると、沙耶は身をひるがえして石段をおりていった。

 鹿彦はおどろいて声をかけた。

「地下へいって、どうしようっていうんだ!」

「鹿彦さん、あなたも、こちらへ!」

 わけもわからず、鹿彦は沙耶に続いた。

 背後から兵長の怒声がひびいた。

「そんなところに逃げても、どうにもならぬぞ。でてくるまで、待っているだけだ」


 鹿彦はふたたび、沙耶に手を引かれて暗闇をすすんだ。

「沙耶さん。あんたはいったい、どうするつもりなんだい」

「あなたまで巻きこむわけにはまいりません。逃げましょう」

「だからといって、地下へ逃げこんでも……」

「ここは、かつて水晶を掘るための坑道だった、といったはずです」

「まさか、出口が、ほかにもあるってことかい?」


 二人はひたすら歩き続けた。

 一刻もすすむと、鹿彦はいつしか、傾斜をのぼっていることに気がついた。

 やがて坑道の先から、木々や草のにおいがまじった、ひとすじの風が流れてきた。

 坑道は地表の近くまで達したようだが、袋小路になっているようだった。頭上からは、ほのかな光がもれてきていた。

「火を打ってみてください」

 と沙耶がいった。

 鹿彦は火打石と火打鎌をとりだし、頭上からのわずかな光を頼りに火を打った。なんどもくりかえすと、木で組まれた天井が、蓋のようにかぶさっていることがしれた。

 沙耶は天井をなんどかたたいてから、残念そうにいった。

「出入り口が、そのままになっているとは思わなかったけれど、こうなっては……」

 鹿彦はあきれるようにいった。

「あんたは、あまりに従順すぎたんだよ」

 すぐに鹿彦は火打鎌をふりあげ、頭上にむけてぶつけはじめた。

「やぶるんだよ。そうでなきゃ、道なんて袋小路だらけさ」

 鹿彦はなんども天井を打った。木屑がおちて目にはいるも、なんどもなんども打った。少しずつ光が大きくなってきた。

「木の梁を、一本ずつでも、折るんだよ」

 やがて鹿彦はつかれはてて、腰をおろした。すると、こんどは沙耶に火打鎌をとりあげられた。

 無言のまま、沙耶は天井の切れこみに火打鎌をぶつけ続けた。

 鹿彦はその光景を、半ば苦笑まじりに見あげていた。この巫女は、いままでの人生において、ここまで無様な力仕事をしたことがあっただろうか。いや、たぶんなかっただろう。

「これからは、楽じゃないかもしれないよ」

 沙耶は腕を動かしたまま、

「いえ、もうすぐ、やぶれるのではないかと」

 といって、咳こんだ。土や木屑をすったのだろう。

「変わってやるよ」

 そういって、鹿彦は立ちあがった。火打鎌を受けとろうとしたのだが、折ろうとしていた一本の梁が、すでにたわんでいることに気がついた。

「よし、ここまできたら!」

 鹿彦は地面に足を張り、天井をおしあげた。木がきしむ音についで、土がおちてきた。

 さらに力をこめたとき、天井はくずれた。直後、おびただしい量の土砂がふりそそいだ。沙耶の悲鳴が聞こえた。

 土煙がおさまったとき、腰まで土にうもれた沙耶の姿が見えた。

 鹿彦は土の小山をよじのぼって地面にでると、沙耶をひきあげた。

 沙耶はどういうわけか、暗い洞穴の奥を見たまま、動こうとしなかった。

 鹿彦は不思議に思い、闇の中を見た。するとそこには、猿の姿にも見える、ぼやけた影がたたずんでいた。さしずめ、猿の亡霊といったところだろう。

 亡霊を見つめていた沙耶は、まるで子供にいいふくめるように話しかけた。

「すみません。わたしはもう、ここへはもどりません。どうか、ご達者で」

 すると亡霊は、さみしそうに背中をむけて、去っていった。

 鹿彦は体の土をはらいながら、沙耶へいった。

「なんだったんだろう。さっきのは」

 沙耶は土まみれの巫女装束をそのままに、無言のままかむりをふった。

 鹿彦はしばらく思案してから、沙耶に尋ねた。

「おれは、これから汕舵の地を目指すつもりだ。元より、そのつもりだったからね」

「そうですか。ここからでしたら、おそらく街道も近いでしょうね。街道に沿って北に向かえば、馬稚国まちこくの都があります。さらに北方へ二日ほどゆけば、汕舵の地にいたります」

「ありがとう。道はとおいが、おれはいくよ。お母の墓も立ててやれてないが、もどったらまた、蜥蜴どもがやってくるかもしれない。いまは、汕舵の地をめざすほかはないみたいだ。さて、沙耶さん。あんたはどうする?」

「故郷にもどろうにも、待つひとはおりません。わたしは……。ひとりですね」

 沙耶は両手で顔をおさえて嗚咽をもらした。同時に、泣くことを恥じるように眉根をゆがませた。

「遠慮はいらないよ。……だれだって、悲しいときは、そうなるもんさ」

 鹿彦は右腕をのばして、沙耶の肩をつつんだ。

 しかし沙耶は手をはらって、背中をむけた。

「案内しましょう。少しは、道がわかりますから。どのみち、わたしも追われる身です。汕舵の民はいずれの勢力にも与さない中立の民ですから、こんなわたしでも、かくまってくれると思います。――いや、それはあまりに楽観的な考えかもしれませんが。……つてが、ないわけでもありません」

 それにしても、と鹿彦はいいさして、大きなくしゃみをした。

「なにか、上衣を着なくちゃ、たまらないな」

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