第2話

 鹿彦が目を覚ますと、白木で組まれた天井や梁が見えた。

 首を横にむけると、畳の上に小さな行李が置かれていた。その向こうの障子の桟も白木で組まれているようだ。

 日光は障子を透かして室内を淡くてらし、畳へと落ちてきていた。

 時間が止まったような室内には、畳のにおいと、桧のにおいが満ちていた。

 鹿彦は目をつむり、深呼吸をして、それらの香りを改めて味わうとともに、みずからが生き長らえたことを不思議に思った。

 ついで、昨夜に起こったできごとが、夢であることを願った。故郷の村に蜥蜴が押し寄せ、母が餌食になったことを。蜥蜴から逃げ、命からがら夜道を駆けて、どこまでも走り続けたことを。

 寝がえりをうつと、体じゅうが痛んだ。疲労がたまっていたし、逃げるあいだに木や岩にぶつかったせいもあっただろう。とりわけ足の裏が痛んだ。布団から足をだすと、白い木綿らしき布が巻かれていた。

 そのとき、障子の向こうに人影が見えた。やがて人影は立ちどまり、ゆっくりと障子をあけた。そこに現れた少女は、驚いたように目を見開いた。

「目を覚ましたのですね」

 そう呼びかけてきた少女は、ゆっくりとした所作で近づいてきた。年齢は、十六か十七といったところか。身にまとう白い装束と赤い袴は、陽那の服装とほとんど同じものだった。長い黒髪をうしろで束ね、背中に落としている点も似かよっていた。その一方で、陽那が細面の狐顔だったのに対して、その少女の顔は幼さを残す、丸い輪郭をしていた。しかし病的な印象は否めない。――目元にはくまが焼きつき、頬がいくらかこけていたのだ。首元には、紅い勾玉の首飾りが光っていた。

 少女は鹿彦の枕元に近寄り、膝を曲げて正座した。かすかに、木綿の生地のにおいがした。鹿彦は体を起こそうとしたのだが、目がまわってしまったため、横になったまま尋ねた。

「あんたは、誰だ? それに、ここは?」

「……ここは、白ノ宮の一角にある、言忌ノ宮こといみのみやという場所です。それから、わたしは、巫女の沙耶と申します」

「白ノ宮? そうか、おれはあのあと気を失って……」

「ええ。あなたは、この近くで倒れていたのです。――なにやら、追い剥ぎか狼にでも追いまわされて、途中で力つきた、といった具合だったようですね」

「その通りだよ。おれは、とんでもないやつらに追われていたんだ……」

「近くの山道であなたを見つけたのは、ここで働いている婆やでした。――番兵たちはあなたを宮に入れることを嫌がりましたが……。婆やは番兵たちを諭して、あなたを連れてこさせたのです。『旅人は神人』という言葉のとおり、旅人は大切にすべきものですから」

「そうかい。それは本当に感謝しないとね。――ああ、それにしても、おそろしい目にあったもんだ。昨夜……おれのお母が、殺されたんだ」

「なんと、そんなことが……」

 鹿彦は苦衷の面持ちでうなずいた。

「本当だよ。……いまだに、夢でも見ているんじゃないかって、思うくらいだ」

 沙耶は唇をきつく結んだ。薄桃色だった唇が白んだ。

 外に舞う鳥の声が部屋に響いてきた。それに急かされるように、少女は言った。

「お母様のことが本当だとしたら、お悔やみの言葉もありません。大変なご苦労をされたのですね。……して、昨夜は、人ならざるものに追われていたようですが。なんと言うか、そんな雰囲気が、いまでもあなたから、漂ってくるのです。重苦しい、荒魂の気配が……」

「そうさ、そうだよ。おれは昨日、蜥蜴みたいな、真っ黒な妖魔に追われて、ほんとうに命からがら逃げてきたんだ! そして……おれは力つきて、気を失なったはずだった。……それなのに、どうして生きているのか、自分でも分からないんだ。――あいつら、おれの母親を、またたくまに骨だけにしちまったんだ! ああ、とんでもないやつらだった……。そんな蜥蜴たちが、目の前にやってきて!」

「あなたが無事な理由……。それは、結界のおかげでしょうね」

「結界、だって?」

「はい。あなたは、宮の守護呪法がゆきとどく、境目の付近で倒れていました。白ノ宮の周囲には、魔をはばむ守護呪法が張られていますから、それにより、妖魔がしりぞけられたのでしょう。ここは、白ノ宮のなかでも外周に位置するのですが、十分に守護されております。夜ともなれば、またそやつらが狙ってくるかもしれませんが、ここにいるかぎり、心配はいりません」

 そういって、少女は腰をあげた。

「待ってくれよ。おれ、まだあいさつもしてなかったね。――ほんとうに、助かったよ。介抱してくれて、どうもありがとう! 沙耶さん、だっけ? おれは、鹿彦というんだ」

「わかりました、鹿彦さん。それでは、お白湯でも用意してきましょう」

 そう言って去ってゆく沙耶を、再び鹿彦は呼びとめた。

「陽那さんが」

「……え? いま、なんと」

「助けてくれたんだ。陽那さんが。しっているだろう? 巫女の、陽那さんだよ。あのひとは、あんたに……沙耶さんに相談しろって」

 すると、それまで冷静だった沙耶の表情に哀切の情が強く浮かんだ。眉をゆがませ、目を細め、膝をおって顔を寄せてきた。

「あなたは、陽那さんと会ったのですか?」

「ああ、そうだけど。――偶然、村にやってきたんだよ。ひょんなことでうちに泊まって……それが昨日さ。まだいくらも経っちゃいない。おれを逃がしてくれるときに、沙耶さんの名前がでたんだ」

「そう……ですか。陽那さんは、どんな様子でしたか?」

「そうだね、なにか、用事をすませた、なんて言っていたっけ。でもね、取りつく島がないっていうか、影があって、あれこれとは聞けなかったな」

「あのひとには、ほんとうに、お世話になったの」

 沙耶は唇を結んで、泣きだしそうな表情をした。


 正午になると沙耶が膳をはこんできた。

 その膳には白粥とごぼうの漬物と味噌汁が載っていた。

 はじめは食欲などないと思っていた鹿彦だったが、一口粥を舌に載せると胃袋がさわぎ出した。間もなく鹿彦は、我を忘れて、粥の残りをすすってしまった。

 半ばあきれる沙耶をよそに茶碗を空にすると、こんどは思い出したようにごぼうをかじり、味噌汁を飲み干した。それから、鹿彦が箸を置くのを待たず、沙耶はつとたちあがった。

「しばらく、ゆっくりなさってください。あとで、陽那さんのことをお聞きしたいのです。務めがありますので中座しますが……。二刻もすれば、またこちらにきます」

 それから沙耶は、親切に厠の場所や井戸の場所も教えてくれた。やがて沙耶は障子の向こうの影になって、廊下を去った。


 しばらくしてから、鹿彦は尿意をもよおし、立ち上がった。

 廊下に出ると、白木の床や手すりが見えた。

 建物のまわりには玉石が敷きつめられ、外周には頑丈そうな木の塀が取り囲んでいた。

 そのとき、松がならぶ林の一画に、高杯を手にした沙耶の姿が見えた。高杯の中身は鹿彦からはよく見えなかった。

 沙耶は地下へ続く階段に、足を踏み入れていくところだった。

 鹿彦は茫然とその姿が地面へ消えていくのを眺めていた。それから、改めて敷地を見まわして、あれやこれやと考えを巡らせた。

(いったい、この建物は、この施設は、なんのために建てられたのだろうか。沙耶の役目とは、なんなのだろうか。

 意味もなく、こんな立派な建物をしつらえる必要などないはずだ。――沙耶さんは特別なお役のために、この外宮に務めているといっていた。その務めとはなんなのだろう)

 鹿彦は厠へ向かうのも忘れ、地下への階段の方から、目を離せなくなった。


 西日が地をほのかに赤くそめるころに、やっと沙耶は階段を登ってきた。

 縁側に座ってそれを見ていた鹿彦は、沙耶が去ったのを確認して、いよいよ立ち上がった。玉石を鳴らさぬように、ゆっくりと庭を進むと、地下への階段があった。

 十段ほどの石段が地下に向かって続き、その先には頑丈そうな木の扉が立ちはだかっていた。

 赤黒くくすんだ重厚な扉を見るに、見栄えよりも質をとっているように思われた。あらゆる建材に白木を使っていたというのに、その扉だけは、樫かなにかできているようだった。

 石段の奥の方からは冷気が立ち昇り、鹿彦の足や首筋を撫でてきた。

 おそるおそる石段を降りていくと、扉には大きな錠前がかかっており、そこから先に進むことはできそうになかった。

 

 地下の探索をあきらめた鹿彦は、敷地の中を歩きまわった。

 本殿の中央の広間には、大きな鏡のすえられた神棚があった。

 かび臭い物置には、巻物や見慣れない道具がならんでいた。

 だれかしらが寝起きしていそうな部屋が、三つばかりあった。

 庭の片隅にはちいさな井戸があり、水桶が二つころがっていた。

 生活感の希薄な土間には、みすぼらしい身なりの老婆が米を炊いていた。

 言忌ノ宮の門番は、牛のようにふとった、不気味な男だった。

 ――発見といえばそれくらいで、ほとんど予想の範囲だった。やはり、鹿彦の興味をひくものは、地下への扉のほかに存在しなかった。


 夕刻となった部屋には、行灯がともっていた。夕餉を食べおえた鹿彦は、沙耶が訪ねてくるのを待っていた。

 昼間の様子を考えると、沙耶は陽那のことを気にしていたようだったし、鹿彦からしても、今後の身の振り方を相談したかったのだ。

 やがて廊下をやってくる足音がした。ついで、障子のむこうに光が横切った。やがて、障子を押し開いて入ってきたのは、やはり沙耶だった。

 沙耶は行灯をかたわらにおいて、鹿彦の近くに腰を降ろした。鹿彦は布団の上であぐらを組んでいた。

「きっと、くるだろうと思っていたよ」

「待っていてくれたのですね……」

「そうだね。おれも、話をしたかったんだ。沙耶さんみたいな巫女ならば、蜥蜴のこととか、諸々のことを、教えてくれるんじゃないかと思ったんだ……」

 こうして鹿彦は、おのれの身にふりかかった昨今のできごとを、すこしずつ語りはじめた。

 夢の中で、老婆の声を聞いたこと。

 蜥蜴がいかに凶暴だったかということ。

 母や自分は、どうやら汕舵の民の血をひくであろうこと。


 沙耶は姿勢をくずさず、だまったまま話を聞いていた。

 鹿彦が語りおえたとき、締めくくるように沙耶がいった。

「聞けば聞くほどに、おいたわしいかぎりです。それに、たしかに、鹿彦さんの容姿には、汕舵の方の特徴が見られます。――深い肌の色に若白髪。――いずれも、汕舵の方のしるしです。よって、汕舵の集落に行けば、なにかがわかるかもしれませんね。汕舵の地は、白ノ宮の北西に位置します」

「うわさには聞いたことがあるけど。……遠いのかい?」

「そうですね。ここからですと、四日から五日の距離になりましょう。もうしばらく静養したら、旅の備えをされてはどうでしょうか? できることなら、なんなりとお助けします」

「ありがとう、沙耶さん。――なにからなにまで、助けてもらってばかりで」

 鹿彦は沙耶の顔をまっすぐ見つめて、頭をさげた。しかし沙耶は、鹿彦の気持ちを正面からうけるのを憚るように、つねに斜めの位置で応じていた。

「いいえ。わたしこそ気がまぎれて、救われているのです」

 外からは虫の声が聞こえてきていた。風がいささか強いようで、たえず低い音を立てて吹き付けてきた。

 沙耶は口を開きかけたが、言葉をのみこんで、また静かになってしまった。その静寂が気まずく、鹿彦は黙っていられなかった。

「ところで、陽那さんは、どんな用事で旅をしていたんだい?」

「あの方は、わたしがこのお役につく以前から、本宮で世話をしてくださいました。そんな、もっとも信頼できる友人として、手紙を託したのです。手紙の相手は、わたしの父です。――病で倒れた父へ、手紙を持っていってくださったのです。陽那さんは、巫女の中では制約の少ない立場でして、日頃から各地に赴いて、思い思いの勉強や修行をされています。そのため、お願いしやすかったのです。わたしは、父のことが本当に気がかりで……」

 そこで、沙耶は顔をそむけて、うつむいてしまった。

「よけいなことを聞いて、悪かったよ」

「いいえ……」

「こんどは、おれが、沙耶さんの話を聞くとしよう。少し、誰かに話すことで、楽になることもあるさ。あんたさえよければ、ね」

 すると、深くうなだれていた沙耶は顔をあげ、とつとつと話をはじめた。



  * *


 わたしは、あるお役のために、ここへ住みこんでおります。

 お役とは、言忌こといみ様をお祀りすることです。

 ――ああ、先に幾つかのことを説明しなければなりませんね。

 まずはじめに、この外宮について説明しましょう。

 白ノ宮と呼ばれるこの一帯には、中央の本宮をはじめ、いくつかの外宮があります。ここも、そういった外宮のひとつなのです。

 外宮にはそれぞれ用途があり、たとえば一種の貯蔵庫みたいな場所もあれば、式典でつかわれる場所、宝物を納めてある場所など、さまざまです。

 中でもここは、ある神を祀り、なぐさめるために建てられたのです。

 ええ。

 言忌様というのは、おそろしい力をもった神です。

 先々代の大巫女様が、諸敵国に呪いをかけるため、特別な方法でおろしてから、この宮の地下に封じたのです。

 わたしは幼少のころに白ノ宮に引きとられ、ほかの巫女と同じように修練を積んでまいりました。学問や呪法のもろもろを。

 そんなある日、このわたしが四代目のお役として――言忌様を祀る巫女として、抜擢されたのです。

 はじめは、とても名誉に思ってよろこんだものです。

 ところで、この宮のまわりを囲む高い塀をごらんになりましたか。

 まるで檻のようではありませんか。

 この檻の中でわたしは、外にでることもなく、四年のあいだ、お役をつとめてまいりました。

 そうです。

 言忌様をお祀りする巫女は、宮をでてはならぬという定めなのです。

 あの、熊のごとき門番は、わたしを見はるためにいるのです。

 長いあいだ、わたしはお役についてきました。

 哀れ、だとお思いですか。

 もちろん、自分自身でそう思うこともあります。

 誰の目も気にせずに、野や山を走ることができたら、どれほど幸せか、などと。

 しかし、言忌様をお祀りすることが、わたしの使命なのです。

 よって日々、わたしはお神酒を高杯に載せて、地下の祭壇へとおりてゆくのです。

 地下のことについては……。

 本来は、部外者に語ってよいことではないのですが。

 ああ、きっと、あと何年も、何十年も、あるいは死ぬまで、わたしはいまのお役を続けなければなりません。

 こんな運命をまったく悲しく思わない、というのは、嘘になります。

 だからこそせめて、こんな巫女が檻の中で生きていたことを、憶えていてほしいのです。

 わたしはいま、井戸の底に向かって告白するつもりで、語っているのです。

 ……そう、地下のことでしたね。

 言忌様は地下にお祀りされています。地下は、この敷地と同じくらいの洞穴になっているのです。むしろ、洞穴のうえにこの、外宮を建てた、ともいえるでしょう。

 入り口は、あの地下への石段です。

 言忌様はあかりを厭うため、松明や行燈はもっていかれません。暗闇の洞窟には祭壇があり、その奥に、言忌様がいらっしゃるのです。すくなくとも、そういうことになっているのです。

 また、これはだれにもいっていないのですが。

 言忌様は、洞窟のいたるところに出歩き、わたしを見つめていらっしゃるのです。言い伝えでは、洞穴の最奥に封じられている、とされているのに!

 灯りがないため、はっきりと目にしたわけではありませんが、わたしが祭壇まで、頭の地図にしたがって歩くあいだ、いつも、見つめていらっしゃるのです。

 それは、庇護の視線でしょうか。

 好奇の視線でしょうか。

 人間に対する憎しみや敵意なのでしょうか。

 それは、わかりません。

 ひたすらわたしは寒気をこらえて、いつおそいかかられるか、肝を冷やしながら、お神酒を交換しにいくのです。

 あれは……たしかに存在します。動物でもなく、邪霊でもなく。あるいは、あれは神でもなく。

 いえ、今宵はこれくらいにさせてください。どうも、よけいなことを話しすぎたみたいで……。

 それにどうか、勘違いをしないでください。

 わたしは、お役が嫌だというわけではないのです。

 いまや、わたしはお役に……いえ、言忌様に生かされている、ともいえるのです。

 あの洞窟におりてゆくと、茶の葉が湯にほころぶように、苦しみやかなしみが、闇にとけてゆくのです。

 わたしには、あの洞窟こそが、ほんとうの住居であり、故郷なのだと思われることがあります。

 もし、死ぬときがきたら、あの中で……などと。そんな風に思うこともあるのです。

 ああ、わたしは、ひどく不安定になってしまうときがあって……。すみません……失礼いたしました。


  * *



 翌朝、目をさました鹿彦が庭を見ると、空は曇っていた。

 丸石の灰色をはじめ、塀や木々の色までも、くすんでいるように思われた。

 そんな敷地の、特に門の方から話し声が聞こえたため、鹿彦は歩いていった。

 敷地にもうけられた唯一の出入り口たる門には、使用人の老婆がいた。

 老婆はとある訪問者に対応しているようだった。彼は身軽そうな絣の着物をおび、上気した顔にちいさな髷を載せていた。一見すると、飛脚のようだった。

 門番――木の具足に身をかため、いつも槍を掲げているふとった男――は門の脇でにらみをきかせていた。

 しばらく見ていると、老婆は手紙らしきものを受け取り、素早く懐にしまった。ついで、飛脚は一礼して去っていった。

 庭をよこぎろうとする老婆へ、鹿彦は声をかけた。

「おはようございます。この日和なら、きょうは涼しくすごせそうですね」

「おお、そなたか。具合はどうじゃ」

「おかげさまで、だいぶ精がつきました。まったく、あなたが助けてくれなければ、いまごろ獣に喰われていたか、飢え死にしていたか、定かではありません。ありがとうございました」

「うむ。旅人は神人、という言葉がある。天はしかるべきときに、しかるべき者をさしむけるとされておる。ゆえに旅人を丁重にもてなすのじゃよ。特に天神のお膝元である、この白ノ宮では。それがなくとも、この宮は息がつまる。外の風をいれれば、沙耶様のお心も多少は晴れると、期待しておったのじゃよ」

「そうですか。そういえば、先ほども、旅人がまいりましたね」

「……見ておったのか。あの飛脚を。まだ、だれにもいうでないぞ」

「なぜですか? 手紙くらい、ふつうのことじゃないんですか?」

「うむ……。そうじゃが。いやいや。どうにもそなたは、たちいったことをしりたがるのう。そんなことは気にせず、沙耶様に外の世界の話でもしてやってくれればよい」

「沙耶さんは、定めにより、ここから出られないようですからね。そりゃあ、気晴らしも必要ですね」

「ほう、そこまで聞いたのか?」

「はい。きのうの夜」

「そうか、沙耶様はそなたのところにいかれたのか。とはいえ、そなたはわかっておろうな。巫女の身は、浄くなければならぬ」

 鹿彦は頬を赤くそめて抗弁した。

「なにをいっているのですか? いくらなんでも、おれはまだ、そんな気は……」

 老婆は皺にうもれた唇を笑ったように釣りあげ、くれぐれも飛脚のことは内密にな、といいのこして去った。


 その日、沙耶は地下よりもどってこなかった。

 正午すぎに階段をおりていったきり、夕方になっても沙耶は地上にあらわれなかったのだ。とはいえお役の者以外が地下にはいることは禁じられていた。鹿彦はときおり、人の目を盗んで地下への扉を見にいった。すると、扉の錠はずっと解かれたままだった。それは、沙耶が地下にいることを意味した。すぐにでも様子を見にいってやりたかったが、迂闊に禁をやぶったりすれば、沙耶に迷惑をかけてしまう気もした。そのため、頻繁に扉の様子をたしかめにいっては、階段をのぞきこんでいることぐらいしかできなかった。

 それにしても、と鹿彦は思った。

 老婆が飛脚より手紙を受けとったように見えたのは、朝のことだった。人目をしのぶように懐にかくした手紙は、きっと沙耶の手にわたったのではないか。そこにはなにか、沙耶をこまらせるようなことが書かれていたのではないか。


 日がおちるころ、ふたたび鹿彦は階段の近くへいった。すると、老婆が先にきていた。

 老婆は両手を口元に当て、青白い顔をしていた。

「お婆さん。やっぱり、あの手紙が原因なんだね?」

 と、鹿彦が尋ねると、老婆はうなずいた。

「そうじゃ……。おお、わしのせいじゃ。あんなものを……」

「いったい、なにが書いてあったんだい?」

 老婆は皺にうもれた目をむいて、苦しげな声でいった。

「わしとて、心が痛んだ。……されど、お役をあたえられた巫女とはいえ、人の子じゃ。おお、沙耶は人の子なのじゃよ!」

 くずれおちそうになる老婆を、鹿彦はささえた。

 老婆はおのれの涙におぼれそうなほど、延々と泣いた。

「あの手紙は、持っているのかい? もし持っているなら……。おれにも見せてくれないか?」

 やがて、老婆は枯枝のような手を懐にいれ、つづらにおられた手紙を取りだした。

 字は丸みをおびた女性的な雰囲気をもっていた。

 とはいえ読み書きもろくにできない鹿彦は、老婆をともなって自室にむかった。

 鹿彦が行燈をともすと、老婆はむせかえる喉をなんとかしずめ、目の涙をふいてから、それを読んでくれた。

 手紙の内容は、こんなものだった。



  * *


 かような事態ですので、必要なことのみお伝えいたします。


 なにしろ、気を強く持ってお読みください。

 なやんだあげく、友情のために、親愛の情のために、真実をお伝えすることにいたしました。


 結果として、あなたさまがお父上に書かれたお手紙を、読んでさしあげることはできませんでした。

 皮肉にも、お父上の病は悪化しており、わたしが着いたときには、すでに他界しておられました。はやりの眠り病に侵されてからすぐのことで、ご家族や村の方は、さぞ悲しんでおりました。

 深く、ただ深く、この身の不甲斐なさを恥じます。

 たったひとりの身よりを亡くされた、あなた様の不憫を思うと、このうえなく胸が痛みます。

 お役のため、お父上の死に水をとれないあなたさまは、さぞご心痛のこととお察しします。

 お父上は、あなた様のお役や、宮でのはたらきを、このうえなく誇りに思っておいででした。

 このことは、看病にあたった女中、ならびに医師の証言として、信頼にたるものと心得ます。


 本来ならば、わたしはすぐにでも言忌ノ宮こといみのみやに赴き、お詫びもうしあげるべきでした。

 しかしながら、不注意のため怪我を負いまして、ただいまわたしは、療養を余儀なくされております。

 重ね重ね、お恥ずかしいかぎりでございます。

 このお手紙は、信頼のおける飛脚にたくしました。

 無事、あなた様の手元に届くことを願っております。


 陽那

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