蛇霊記
浅里絋太
第1話
木々の厚い葉は日をさえぎって、森林を薄暗いものとしていた。
そびえる楢や杉の向こうから、得体のしれぬ甲高い声が響く。猿か鳥のものだろう。
そんな森には
一段目は人間の胸のあたり、二段目は、男二人が肩車をすれば届きそうなあたり、三段目は樹木のほとんど上部のあたり。それら三段の注連縄をして、神域を守るがごとく、森の一画が区切られていたのだ。
そのとき、木立の奥に、ゆっくりと動くかたまりがあった。
尊大ともよべる緩慢さで森を這う巨大な存在は、いびつな体躯を引き摺っていた。
それは両頭の大蛇だった。
半分より一方に向かって白い胴体が延び、先端にはやはり、白い蛇の頭が付いている。一方、その反対側は、まるで鏡写しのごとく、黒い胴体と頭が付いていた。
樹齢を重ねすぎて、輪郭がくずれた杉の影より、それは現れた。
両頭の蛇が前進する光景というものは、ことさら不自然で、不気味なものといわねばなるまい。
二つの頭が競い合うように、絡まりそうになりながら、そうぞうしく森を横切っていくのだ。
そんな注連縄の前には、ひとりの老婆が立っていた。
彼女は色とりどりの鳥の羽を張り付けた、毛皮の服をまとっていた。見事な白髪が滝のごとく頬や肩におち、顔は皺に覆われていた。また、皺のひだのひとつひとつにまで、日焼けした皮膚がもぐりこんでいた。
老婆はいつもそうするように冷厳として、杖を地面に突き、両頭の蛇をじっと見つめていた。
鹿彦は夢の中で、老婆の声を聞いていた。
映像の伴わない夢だった。
はじめて聞くその声は、繰り返し、繰り返し、同じようなことを語った。
『
ふと目をあけた鹿彦を迎えたのは、壁の隙間から射しこんでくる朝日であった。
まばゆい白光にさらされながら、長いあいだ鹿彦は呆然としていた。
よほど深い眠りについていたようで、視界にはいる様々なものが目新しく見えた。
天井から吊るされた土瓶の黒も。棚に載ったひびだらけの器や茶碗も。たがの曲がった水桶も。土間におかれた釜や薪も。
あらゆるものがその朝に産まれ、はじめの光をあびているようにすら思われた。
そればかりか鹿彦にとっては、十五年あまり付き合ってきた自身の体が、もっともなじみのない、奇妙なものに思われた。
とはいえ――雀の声だけはどことなく、耳慣れたものに感じられた。
村の中でもことさら朝が早いと評判の隣家では、戸を開け閉めする音についで、鍬でも引き摺っているかのような音がした。
鹿彦は布団から身をおこし、村の他の少年たちと同様に、簡素な麻の着物に茶色の帯を巻いた。
ふいに不安を覚えて母の姿を探したのだが、屋内にはいなかった。と、そこへちょうど、母が水桶を携えて帰ってきた。
母はいくらかよい仕立ての麻の着物に、前掛けをしていた。小柄な体格に肌は浅黒く、髪は若くして白くなっていた。
浅黒い肌に白髪――それは、鹿彦たち親子の特徴だ。
これらの特徴のせいで母親ともども、近隣から白い目で見られることもあった。
この母は、奈津という名前だった。とはいえ鹿彦はどことなく、奈津、という名前に違和感をもっていた。たとえば村人に『なつさん』などと呼ばれたときの母は、(そういえば、そんな名前もあったねえ)といった様子で、芝居でも演じているように見えることもあった。――気のせいといえばそれまでだが、鹿彦はつねに漠然とした違和感を、母の名前に抱いていたのだ。
奈津は水桶を土間に運び、かまどの銅鍋に傾けながら、あきれるような声をだした。褐色の小顔に八重歯を白く輝かせて、人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「水桶の重いこと。いつもならあんたの仕事だってのに、いつまでも寝てるもんだから。――ああ、井戸がもうちょっとでも、近かったらねえ。どれ、よほどいい夢でも見てたんじゃないの? そうだろうねえ、きっと。なにせ、あんなにぐっすり眠っていたんだから……」
そう茶化す奈津へ、鹿彦は不機嫌にいい返した。
「なんだかさ、おれ、おかしな夢を見て」
「え? なんだって?」
「だからさ、今朝方、おかしな夢を見たんだよ。いや、見たってよりも、聞いた、っていうべきかな。おばあさんの声がして、よく分からないことをいうんだ。たしか、汕舵? が、どうのって。蛇が気づいたから、早くこいって。……いや、たいしたことじゃないよ。こんなの、たかが夢さ」
奈津は、米びつに伸ばしかけた手をとめ、思案を巡らせるようなそぶりを見せた。梁へ視線を泳がせ、鼠でも追うように眼球を動かしてから、なにかを呑みこむように口を結んだ。浅黒い肌に際だった白目が、なにごとかを語っていた。しかし、言葉は裏腹だった。
「おおかた、寝ぼけていたんだねぇ。――さあ、飯を炊いてるうちに、田んぼの世話でもしてきなさいな! さっき見たら、そりゃあ見事な草むらになっていたんだから」
「そうかい。じゃあ、やっつけてくるよ」
外へ飛び出そうとした鹿彦の背中に、待ちなさい、と母の声が聞こえた。
「さっきの、夢の話。――おばあさんが、汕舵にこい、といったんだね……?」
鹿彦は笑いながら答えた。
「なんだよ、しつこいな。あんなものは、くだらない夢だっていったじゃないか。さて、朝飯のまえにひと仕事してくるよ」
鹿彦は鎌を手にして家を出た。井戸へ寄って顔をあらい、田に向かった。
ふくいくたる夏の陽射しをあびた青穂は、いずれもぴんと張って、足元にまつわる雑草をものともせず、天を目指していた。
さっそく田に足を踏みいれた鹿彦ではあったが、ふと、人の気配があったために立ち止まった。
畦道をゆく、ひとりの傘をかむった女人が目にはいったのだ。
その女人は上等な、木綿かなにかの真っ白な着物を身につけ、下には朱色の袴を穿いていた。よく見ると旅の汚れによってくすんでいるようだった。そのすらりとした女人は黒い髪を後ろで束ね、背中に落としていた。頭にかむった平たい笠は、袴と同じ朱色をしていた。整った面長に、狐のように細い目付きをしていた。
そのとき、女人はふらふらと足をよろめかせ、半ば崩れるように座りこんだ。鹿彦は田を飛び出て、女人に駆けよった。
「どうしたんだい?」
女人は眉を寄せて、くやしそうにいった。
「なさけない。やっと用事をすませたってのに。――坊や、本当に申しわけないのだけど、少しばかり、休める場所を教えてもらえないだろうか。それに、水を少しばかり頂けると、いうことはないのだけど……」
坊や、と呼ばれた鹿彦は苛立ちをこらえて、
「だったら、おれの家に案内するよ。まったく、朝とはいえ、この陽射しじゃあ、火矢をかけられながら歩くのと変わらないからね」
といって右手を差し出した。
もちろん、相手がもっと胡散臭い旅人だったら、こうはしなかっただろう。
巫女然としたいでたちの女人に興味をもったこともある。それに、もし仮に悪人だったとしても、弱りきった小鳥みたいな女人になにができるものか、とたかをくくっていたのだ。
女人は鹿彦の腕を無視して、自ら立ち上がるに、衣の土を払った。
じろじろと見つめる少年の視線に気が付いたのか、女人はいった。
「この装束が気になるか。わたしは
この強い語調に鹿彦は戸惑った。どこか気乗りのしない心もちのまま、陽那を家へと導いていった。
鹿彦は母の奈津にいきさつを伝えた。
陽那はあいさつもそこそこに家を出て、井戸で手足の汚れを落とし、再び戻ってきた。雑穀と漬物数きれという簡素な朝飯を一瞬で平らげ、日陰となった奥の方で壁に背をもたれ、呆然と膝をかかえていた。
日がのぼりきるまえに雑草をやっつけようと考えていた鹿彦が、すいと腰をあげたときだった。
ずっとだまっていた陽那は、ちいさな唾の音をたてて、口をひらいた。かたわらで鉈を研いでいた奈津は、その気配に手をとめた。
「奈津さま、今日はまことに、ありがとうございました。用事をすませたばかりで、気が抜けていたのだと思います」
奈津はかむりをふって、静かにこたえた。
「わたしのようなものには、あなたさまのご用事がいかなるものか、とんとしれませんが、助けになれたのならば、なによりです」
陽那は一礼してから、こんどはいささか慎重そうな目をしていった。奈津のきれいな白髪をながめているようでもあった。
「ところで、ご出身はどちらで? もしや、汕舵の……。いや、つまらぬことをお聞きしました」
奈津はその話を聞いていなかったかのように、再び鉈を砥石にこすりつけはじめた。しゅうしゅうと耳障りな音がひびいた。
鹿彦は午後の陽射しの中、麻の服に着替えた陽那を奇妙な気持ちで見ていた。
せめてものお礼にと雑草を刈る手伝いを申し出た陽那だったが、手つきはぎこちなく、すぐに音をあげて田のあぜに倒れこむような具合だった。赤い笠は愛用のもので、麻の服は奈津のものだった。
ぐったりと座りこむ陽那へ、鹿彦は呼びかけた。
「無理をしなければよかったんだよ。おれたちの仕事だって、簡単なことじゃないんだから」
「わかっているよ。だからこそ、やらせてもらいたかったのさ」
「できてないよ」
「……すまぬ。なにからなにまで、わたしは、なさけないな」
どういうわけか、陽那は泣きそうな顔をしていた。
気が抜けてしまった鹿彦は、陽那のとなりに腰をおろした。やがて、鹿彦は胸につかえていたものを吐きだした。
「汕舵、とは、なんだろうか」
陽那は笠を上げると、細い目をいっそう小さくして、つぶやいた。
「きみの、お母さまに聞いてみればいいさ。わたしは、今日かぎりの旅人だ。さしでがましいことは、したくない」
その日は遅くなってしまったため、恐縮しきりの陽那を説得し、泊まってもらうことにした。
退屈な村の生活において、珍しい客人の話を聞くというのは、これ以上ない無聊のなぐさめとなった。間をおかず、村のものたちが話を聞きにきた。
異変が起こったのは、夜のことだ。
そのとき、鹿彦、奈津、陽那の三人は囲炉裏をかこんで玄米の茶をすすっていた。そろそろ火を消して寝ようという話がでたあたりで、思いがけず、陽那は鋭い目つきでいった。
「妙なことを申すようですが、この村には、なにか、人ならぬものが住んでいる、ということはありませんか? 古来より、神か、あるいは厄介なものを祀っている、などの」
奈津はおどろいたように、かむりをふった。鹿彦も、そんな話は聞いたこともなかった。たしかに、村の近くに神社があったし、山のふもとには祠があったが、ものものしいいわく話は、ないはずだった。
だとすると、と陽那は声をひそめた。
「この気配は、どうしたことでしょうか。さきほどより、ただならぬ瘴気が、家を囲みつつあるようです。――
陽那は巫女装束の隠しから一枚の札を取り出すと、もう一度いった。
「心あたりは、ないのですね」
奈津は狼狽した様子で、ございません、と答えた。ついで、陽那は手元の札に向かって、長々とした呪を唱えはじめた。
陽那は険しい表情でそれを続けていたのだが、ふと、小さな声でこういった。
「いけない、間に合わぬか」
そのとき、戸口がぎしぎしと軋みはじめた。
奈津はおそるおそる立ちあがり、戸口の方へ近付いた。陽那が、いけません、と止めようとしたが、遅かった。
戸が大きくたわんだとき、いきおい奈津はよろめいて、ころんだ。そこへ、戸板が倒れかかってきた。逃げようとした奈津は右脚を挟まれ、短い悲鳴をあげた。
暗い戸口の向こうから、闇があふれてきた。――と見えたのは、数しれない生き物の群れだった。囲炉裏のわずかな炎にも、それらの皮膚はぬめるように黒光りした。
――それらは、蜥蜴だった。
おびただしい量の真っ黒な蜥蜴が、雪崩のように入り込んできたのだ。
奈津はまたたくまに、黒い濁流に呑みこまれた。
かろうじて蜥蜴の群れの中から顔をのぞかせた奈津は、眉をゆがめて、断末魔の叫び声をあげた。
その顔が黒い波涛に呑まれる直前に、奈津はふと、正気に戻った様子でいった。
「どうか! どうか、二人とも、お逃げなさい!」
蜥蜴たちは奈津の体をむさぼっていった。
鹿彦はふいに、陽那の方を見た。
すでに数匹の蜥蜴が、陽那と鹿彦を目掛けてきているというのに、陽那は手元の札に向かって呪をとなえているのみだった。
鹿彦は自身の脚先に違和感を覚え、即座に視線をおとした。すると、四、五匹の蜥蜴が脚にしがみついて、ちいさな赤い口をひろげたところだった。
手ではらおうにも、どれから打ってよいかわからなかった。
ついで刺すような痛みが、続けざまに脚をおそった。
思わず転倒した鹿彦は、奈津とおなじく、おびただしい蜥蜴たちの波に呑まれることとなった。
最後に見えたのは、体じゅうに蜥蜴をまとってなお、呪をとなえ続ける陽那の姿だった。
そのときだった。
全身にのしかかってきていた蜥蜴たちが、突如力をうしなったように、体からころげおちていったのだ。
ついで、鹿彦はあまりのまばゆさに両手で目をおさえ、光源から顔をそむけた。
陽那のいる方から鮮烈な白光がおしよせてきていた。
「逃げなさい。いますぐ」
すこしばかり、光の強さがゆるんだかのように思われた。
そこでやっと、直視はできぬものの、陽那の姿を見ることができた。
陽那は札らしきものをもった右手を高くかかげ、左手で戸口をさしていた。
蜥蜴どもは、ぎいぎい、と不機嫌そうなうめき声をあげつつ、土間や調度品の陰に向かって逃げていった。
そこで鹿彦が目にしたものは、生涯忘れることのないものだった。
陽那の照らす光のもと、厳然として、それがあった。
「見るな、もう戻らぬ!」
そんな陽那の声すら遠く感じながら、鹿彦は玄関先に落ちた、母の骸骨を見た。
頭の肉は多少ばかり残っており、白くつややかな毛髪が光沢を放っていた。
そこで鹿彦は、陽那に頬を張られた。四度ほど殴られてもまだ悄然としない状態で、外へ引っ張りだされた。
家のまわりには、おびただしい数の蜥蜴たちがひしめいていた。家に入ってきたのは、むしろ小回りの利く、小さなものだったようだ。なにしろ大きなものは、虎のような体格をしていた。
「光はいつまでも、もたぬ! こうなれば、宮へ行くがいい!」
そういって、陽那は右手の札を差しだしてきた。わけの分からぬまま、鹿彦は白光する札を受けとった。
「あと、三刻とはいわぬが、二刻は光を放つだろう。これを掲げて、白ノ宮を目指すがいい。場所はわかるか?」
鹿彦はうなずいた。わらじと米を売りにいくために、四度ほど村の男たちと訪れたことがあった。
「陽那さんは、どうするんだ。まだ蜥蜴がいるぞ」
「一宿一飯の恩義という言葉があるな。多少は時間をかせいでやろう」
「おれだけが、逃げるってことかい?」
「ふん。あなどるんじゃない。足手まといになられちゃ、困るんだよ。さあ、やつらがくるよ。いそいで! 宮についたら、
そこで、半ば突き飛ばされる格好で、鹿彦は押しやられた。
鹿彦は走り続けた。
札は手の汗によってしおれていき、それと共に光も減じていった。
宮へは何度か行ったことがあるものの、夜ともなれば景色も異なり、はたして正しい道をいっているのかも分からなかった。
普段ならば、草鞋を一足をつぶさなければ辿りつけない距離だった。ましてや急いで家を飛びでた鹿彦は、裸足だった。すぐに足の皮がむけ、血がしたたった。それでも蜥蜴たちが背後から迫りくる中、ひたすらに駆け続けた。
いくらか蜥蜴たちを引き離した辺りで、ついに札の光が完全に消えた。
心細くなった鹿彦が振り返ると、ほのかな月灯りのもと、蜥蜴たちがたゆまず追ってきているのが見えた。遠目には、山道が波うっているようにも見えた。
二十匹か三十匹か。家を取り囲んでいた数を思えばさほどでもないが、瞬時にして鹿彦の骸骨を造り上げるのには、ことかかない数だろうと思われた。
蜥蜴たちはいよいよ歩速をあげて、止めを刺さんと迫ってきていた。
鹿彦は役に立たなくなった札を未練がましく握りしめ、先を急ごうとした。
しかし、札ばかりか、足腰も役に立たなくなっていたようで、山道に転んでしまった。
鹿彦は涙と涎を垂らして、脚を引き摺りながら、這ってでも逃げようとした。
黒い波はすぐそこまで迫ってきた。
そこで、灯が消えるように、鹿彦は意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます