第17話 われわれ④
Nのアパートのエントランスに着くと、不思議なことにオートロックの自動ドアが開いていた。
誰かが先に入ったのだろうか?
人影は無かったが、わざわざ開いているのにインターホンを押すのも面倒だったので、私はそのままNの住む三階へ向かうことにした。
ドアの前に立ちインターホンを押すが応答が無い。
しかし窓からは明かりが漏れていたので、私はもう一度インターホンを押し、ドアをノックしてNの名を呼んだ。
「N!? 深川や。おらんのか?」
すると中で人の動く気配がした。
しばらくするとNがドアを薄くあけ、顔を出した。
やはりドアにはチェーンが掛けられている。
「ねえ? 周りに誰もいない? Y子は?」
開口一番、Nはそう言って廊下を見渡した。
「おらんよ。Y子と別れたんやろ? しかも何でまたチェーンしてんねん?」
「うん。Y子のストーカーがヤバくてさ。合鍵も持ってるでしょ? われわれの大事な研究をさ、狙われたら危ないじゃん?」
引っかかる物言いだった。
しかしその時は深くは考えなかった。
「われわれちゃうわ。勝手に俺のことも入れんなや」
私がそう言うと、Nは手を合わせてすきっ歯を覗かせながら「ごめんごめん」と笑って見せた。
Nは安心したのか、チェーンを外して私を中に招き入れた。
リビングは綺麗に片付いている。
イメージと違い几帳面な性格だったので、いつもNの部屋は片付いていた。
荒れた様子がないのを見て、私は少し安心した。
「なあ? なんでY子と別れたんよ? めっちゃ仲良かったやんか?」
私はさっそく本題を切り出した。
するとNはほんの少し顔を引きつらせて言う。
「Y子の束縛がキツくてさ。われわれの研究に割く時間がとられちゃうんだよね。めちゃくちゃ大事な研究じゃんか? 深川ちゃんなら分かるでしょ?」
「いやいや、だから俺が入ってるみたいに言うなって。研究室忙しいん?」
Nは満面の笑みを浮かべて首を振った。
「研究室はどうでもいいよ。われわれの研究じゃんか!? もうすぐなんだよ!! もうすぐ幽霊が見れそうなんだよ!!」
気味が悪かった。
見開いた目と満面の笑み。
それなのに酷く切羽詰まったような気配を放っている。
その時、背筋に悪寒が走った。
咄嗟に私は気配の元凶と思しき方に顔を向ける。
寝室へ続く閉まった襖。
その隙間から漏れ出す、尋常ではないヤバい気配……
「まだアレ持ってるんか……?」
襖から目が離せず、そちらを見たまま私は尋ねた。
「アレ? ああアレ……。もうないよ」
「ほんまか……?」
「ホントだって!」
「ほんだらそっちの部屋、見せてや……?」
短い沈黙の後、私は意を決してそう言った。
Nは強張ったような満面の笑みのまま黙っていたが、やがて何も言わずに立ち上がり、襖の方へと歩いていった。
「どうぞ」
そう言って襖を開け、暗い寝室に入っていく。
パキパキと何かを踏み潰す音がした。
中からはあの饐えた臭いが漏れてくる。
それは前にも増して強烈な臭いだった。
バクバクと心臓が暴れ、アドレナリンが血管の中を駆け回る。
警告を全開で鳴らす身体とは裏腹に、心は静かで、凪いでいた。
怪異に出逢う前の静けさ。
Nは天井から下がった電気の紐を引いた。
明かりが点くと同時に、息が止まりそうになる。
われわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来るわれわれが来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来る来るわれわれ、本当にありがとうありがとうありがとう本当に本当に本当にありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう有難う御座いました有難う御座いました有難う御座いました有難う御座いました有難う御座いました
壁一面にマジックで殴り書きされた『われわれ』の文字。
それはいつしか感謝の言葉に変わっている。
荒れ果てた部屋には、腐ったゴミが散乱し、足の踏み場も無かった。
異様な部屋の真ん中に立って、満面の笑みで笑うN。
「われわれの研究はさ、もう少しなんだよ。彼の願いもさ、もう少しで叶うんだよ。君はわれわれの邪魔をしないよね?」
私はその言葉を無視して言った。
「N。アレどこにあるねん? 俺に寄越せや」
Nは俯き肩を震わせた。
泣いているように見えたが、顔を上げたNはやはり満面の笑みを浮かべていた。
「アレはさ、もうないんだって」
「嘘つけや。アレの臭いするやんけ……」
「ああ……臭う? 深川ちゃん鼻がいいんだね。アレね……アレかぁ……」
「食べちゃったんだよね」
Nはそう言って、ニタァ……と嗤った。
もう無理だと思った。
自分の手には負えないと悟った。
一歩後退りすると、Nが一歩近付いてくる。
「誰にも言わないでね? Y子にはもう無理って言っておいてね?」
私はゆっくり後ろ歩きで玄関へと向かった。
やはりNは近付いてくる。
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい
ドアとNに挟まれるような格好になりながら、私は後ろ手にチェーンを外した。
その時だった。
「それとさ、われわれの邪魔したらさ、怒るからね?」
Nはそう言って、玄関のドアノブを捻った。
開いたドアから、私は転がるようにして外に出た。
満面のNが手を振って私を見送った。
Nは何かに飲まれてしまったのだと思った。
しかしそれは違った。
Nが飲んだのだった。
自ら受け入れたのだ。
助けなど、はなから求めていなかった。
後日、私はY子にNは他に好きな子が出来たらしいと嘘をついた。
もう関わらないほうが良いとおもったからだ。
その後何度かNをキャンパス内で見かけたが、N自身は変わった様子もなく普通にキャンパスライフを送っていた。
しかし彼を取り巻く人間の種類が変わったことに、私は気づいていた。
Nから連絡が来ることもなく、われわれは疎遠になった。
その後のNがどうなったのかを、私は知らない。
三畳怪談部屋 深川我無@「邪祓師の腹痛さん」書籍化! @mumusha
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