神のよりしろ 後半

 田植えが終わり、田んぼの上を燕が飛び回っています。暑い中何度も畦草を刈る村人たちを横目に、夏風が青々とした稲を撫でて吹き過ぎます。


 稲の間に生えた草を引く村人に混じって、深く菅傘すげがさを被った稲魂イナダマひめもおられました。しかしすっかり丸みのなくなったその姿によそから呼ばれた手伝い女だと思っても、田植えの時の「オイネ」さんだとわかる人は一人もいません。稲がすくすく伸びるのとは裏腹に、稲魂イナダマひめどんどん痩せていかれていたのでした。


 やがて黒雲とともにやって来た稲妻がそっと稲の花を愛でて去りました。黄金色に実った穂が秋の風に頷くようになったころ、また村総出で稲刈りが行われました。組んだ竹でハデを作り刈り取った稲を干す村人を、桜の根元から見下ろす稲魂イナダマひめはすっかり痩せておられました。


 『―――いつにもましてしぼまれましたな 』


骨が浮き出るように細くなられた稲魂イナダマひめの手を取って桜の老人が言いました。その声は少し物悲しく響きました。


『―――まぁ、田の神に対してなんということ 』


稲魂イナダマひめは木の実が転がるような軽やかな笑い声を上げられました。しばらくして、稲魂イナダマひめは急に声の調子を変えて口を開かれました。


『―――今年の冬はことのほか厳しくなるでしょう

  雪も、より深くなりましょう 

 ―――桜神オウカ… 』


 視線を落とし言いよどまれる稲魂イナダマひめに老人が言いました。

 

『―――稲魂イナダマひめ

 山へお戻りになられる前にお話しがございます

 この老木わたしは、おそらくこの冬を越せますまい 』


 その言葉を聞くと稲魂イナダマひめはきゅっと瞳を閉じられました。


『―――媛様をお迎えできるのも、これが最後になりましょう

 どうか、山にお戻りになるまでに次の「憑代サクラ」をお決めになられませ

 さすればこの老木わたしも安心して冬の眠りにつくとことができます 』


 稲魂イナダマひめは瞳を開くと、痩せた我が手に重なる老人の節くれだちカサついた手を見つめられました。二重写しのように若木であった頃の桜神オウカの瑞々しく小さな手が見えたような気がしました。


 『―――わかりました 

 考えておきましょう 』


 稲魂イナダマひめは手から老人の瞳へと視線を移して言われました。目じりに深く刻まれた皴とは裏腹に、その瞳は若木の頃と変わらず稲魂イナダマひめだけを真っ直ぐに見つめておりました。


 村では「田の神」様を山にお戻しするための祭りが盛大に行われました。「田の神」様を乗せた神輿みこしが里から山へと向った翌日のこと。山からやって来たカラスが


 「神、かえる」 


と鳴きましたが、稲魂イナダマひめは老人の用意した美しく赤く染まったに乗ろうとはなさいません。


 空は日に日に低くなり、日差しも傾いてきました。木々は美しく装ったその葉を風にのせ始めます。桜の古木も赤く染めた葉を散らし始めました。そろそろ木枯らしが吹き始めます。


 『―――媛様、もうお戻りになりませんと 』


老人は心配そうに何度か声をかけますが、稲魂イナダマひめはお笑いになるばかり。


 『―――良いのです

 今回はお前が冬の眠りにつくのを見届けてから戻ります

 なに、カラスにでも連れて帰ってもらうので気にすることはありません 』


 やがて木枯らしの吠える声を聞きながら、桜の老人は冬の眠りにつきました。稲魂イナダマひめはそのごつごつとした幹にもたれ優しい手つきで撫でながら、大きく広げた枝を見上げました。


 『―――ああ、こんなに美しく育ったのに 』


稲魂イナダマひめは、つぅと一筋の涙を流されました。ぽつりと落ちた涙は、古木の根元できらりと光ると桜の根にすっと吸い込まれていきました。


 『―――桜神オウカ

 冬の終わり、おまえが目覚める前

 春を呼ぶ雷神が、この大きな幹を割る事になりましょう

 されど三百年あまり我が「憑代サクラ」を勤め上げた礼に、ひと枝生き長らえる事を約束します

 次代の「憑代サクラ」が育つまでは、その残ったうでわれを迎えなさい 』


 そして稲魂イナダマひめは川面に向かって差し招く様に伸びていた一本の枝に、胸元の錦の 紕帯そえひもを解いてくるりと結び付けられました。稲に全てを渡して痩せてしまわれた稲魂イナダマひめの衣は、新緑の色から色も移り変わり見事な紅葉の錦となっておりました。



 桜の下を通るわらわがたまにその煌めく紕帯そえひもを目に止めて、


「ととさん、桜の枝にキラキラした布がかかっているよ。」


と指差しましたが、大人たちでその美しい帯を見るとこが出来た者はいませんでした。


 ◇ ◇ ◇ ◇


 数年後。


 最後の枝もついに枯れた桜の古木の根元に、まるで交代でもするかように一本の桜の若木が川に向かって枝を伸ばしておりました。


 その年の春。

桜の若木の少年のもとに、万葉いにしえの衣をまとったまるまると肥えた美しい女性が訪れました。にこりと笑った女性は少年に声をかけました。


『ー―おまえ、名は? 』


『―――え?

 オレ?桜神オウカ

 アンタは? 』


『―――イナダマという 』


『―――いなだま?

 誰? 』


『―――そうですね

 長い長い話になります

  おいおいと語ることにいたしましょう 』


 稲魂イナダマひめは老木の枝に残る紕帯そえひもをそっと手にとると、若木の少年の首にかけてやりました。




     花散らしの風 ~神のよりしろ~ 



*********************


花散らしの風(はなちらしのかぜ)

 桜を散らす風

 隠語として、花見の後の男女の交わり


山の神

 春に山から下りてきて田の神となり豊穣をもたらす


サクラ(桜)

 「サ」は耕作を意味し、同時に山の神、田の神を意味する。

 「クラ」は神の憑代よりしろ

 神は春になると里に降りて木に宿るため、この木をサ(神の)クラ(座)『さくら』と呼んだと言われている


浮線桜(ふせんさくら)

 浮線綾(ふせんりょう)と呼ばれる線を浮かして織り上げる織り方の一つ。

 唐花を円形の中に四方八方に割りつけたような図柄。


旅早乙女(たびそうとめ)

集団的な田植女の出稼ぎ。

田植時期の異なる地方の間で集団で出稼ぎに行くことが多くおこわれた。


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花散らしの風 小烏 つむぎ @9875hh564

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