花散らしの風
小烏 つむぎ
神のよりしろ 前半
村の中ほどを流れる川が緩やかに曲がったあたりには小さな丘がありました。その丘には村を見渡すように、それは大きく見事な枝振りの桜の木が一本立っていました。
古い古い桜の木で、村の長老が
桜の木はその花をもって毎年村人に春を訪れを告げ、野良仕事の始まりを教えていたのです。今年も枝いっぱいに蕾をつけ、春風がもうひと吹きすれば花も綻び始める風情です。村人は丘の下の道を通りながらその様子を眺めて、道具の手入れを始めるのでした。
この桜の根元には程よく平らな岩が一つあって、その昔平家の誰それが都から落ち延びるときに座ったとか、高名な僧がここで一休みされたとか、そんな言い伝えがありました。今はその岩にひとりの痩せた老人が腰かけています。
老人は白髪に
桜の下に老人の姿を見かけて数日がたった頃、暖かい風に誘われるように桜の花が一輪、また一輪と咲き始めました。さぁ、田植えの季節の到来です。冬の間雪に閉ざされ静かだった村に活気が戻ってきました。
そんな早春の吉日。
山に住まう「田の神」様を里へとお迎えする祭りが村総出で行われました。賑やかなお
山から
「神、
と告げました。
それを聞き取れたのは桜の下に座る老人だけでしたが、カラスはその老人が深く頷くのを見ると満足そうに山へと戻っていきました。
『 ―――さぁ、今年もお迎えすることにいたしますかな 』
老人は岩からゆっくりと立ち上がると、細い杖をついて桜の木へと消えていきました。
翌日のこと。
朝日とともに川上から小さな笹舟が流れに乗って下ってきました。笹舟は途中の渓流を軽々と越え、桜の立っている丘の川岸にスイと流れ着きました。
岸辺で迎える桜の老人が笹舟に向かって恭しく手を差し伸ばすと、小さな笹舟の上に
『―――
出迎え感謝します 』
その声は木々を渡る風のようでした。
『―――
今年もよくおいでくださいました 』
老人に促されて霧色の薄衣を頭から外すと、その下から艶やかな黒髪が現れました。
頭上に
『―――
今年もまあ、丸くおなりで 』
老人はいたずらな笑みを浮かべました。
『―――
去年は杖などついておらなんだものを 』
『―――弱々しい若木であったものを
300年余りの間に、ほんに大きく美しくなった 』
『―――そうですな
大きくなりすぎまして、村人が丸太で支えてくれなんだら、雪の重みでずいぶんと枝を折るところでした 』
『―――それはそれは、人に感謝せねばな 』
村では冬の間に壊れた畝が手直しされ、田は牛で
苗が青々と育ったら、田植えです。お囃子衆と
「あれま、オイネさん。一年ぶりだね。」
「まあ、あんたは先代の早乙女だったお母さんによぉ似てきたことぉ。」
『―――よぉ言われますわ。
母ちゃんに瓜二つやって 』
「今年もまた丸々と肥えてぇ、ええ働きをしてくれそうだことぉ。」
『―――それはもう。
なんといっても田んぼに福を運ばんといけんからねぇ 』
「頼もしいのぉ。
オイネさんが来てくれてからこっち、この辺りは豊作続きだもんで。
ありがたいわ。」
遅くまで灯りの消えない祝いの宴を、桜の老人はいつもの岩に腰かけて満足そうに眺めていました。
花散らしの風 ~神のよりしろ~ 後半に続く
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花散らしの風(はなちらしのかぜ)
桜を散らす風
隠語として、花見の後の男女の交わり
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