4.鏡に映るもの

 テーブルの脚へ強かに打ち付けてしまった踵の鈍痛に飛び上がりながら、こめかみまで響くような心臓の音をどうにか鎮めようと深呼吸を試みる。しかし頭から足まで慌ただしい体のコントロールなどまともにできるはずもなく、深呼吸のつもりが「ほーっ、ほーっ」とどこかの部族のような雄叫びが出るばかりだった。


「あの、大丈夫ですかっ!?」

「ええい、頼むから君は一旦喋るな! 処理しなきゃいけない情報が多すぎるんだ!」

「あ、はい……すみません」


 どうして怒られているのかわからないだろう少年は、しゅんと肩を丸めて俯いた。

 その仕草さえも頭と心をかき乱してきて、合歓はいっそ背を向けて、痛みとの取っ組み合いに集中することにした。


「ふう、ふう……ああ、疲れた。まったく冗談じゃないぞ」


 踵から離した手で髪を掻きむしり、駄目押しの深呼吸をして、手のひらに人という字を三回書いて飲み込んだ。


「……で、だ。君は一体何なんだ?」

「何と言われましても、僕も何が何だか。ええと……あれっ?」


 わずかに肩が斜めになり、首の断面がたわんだ。おそらく首を傾げているのだろう。


「ど、どうした!?」


 合歓は思わずテーブルの上の雑誌を手に取って丸め、Gやゲジゲジと相対するように、いつでも飛びかかれる構えをとった。

 しかし少年はそんな合歓をよそに、じっと自分の両の手のひらを見つめると、浅くも強めの呼吸を繰り返している。


「すみません、僕、自分の名前も思い出せなくて」

「はあ?」

「あなたは、僕の知り合いの方なんですか?」

「それは私が聞きたいよ」


 合歓は力なく雑誌を放り捨て、ソファの手すりに腰を下ろした。

 どっと疲れた一方で、ひとまず未知数のまま終わったことに安堵する。大丈夫。彼は『彼』だと決まったわけじゃない。


 しかし、一体自分はどうして安堵しているのだろう。

 彼が『彼』なら、それは夢にまでみたことじゃないか。そうであれば、むしろ記憶がないらしいことを嘆くべきではないだろうか。

 合わせる顔がないから? 何と言葉をかければいいかわからないから? それとも、弔ったはずの『彼』が未だ現世を彷徨っていることなどあってはいけないから?

 そうだ。それだ。私欲を抱くな。『彼』のためにも、この少年がことを探さなければいけない。


 顰めた表情で忙しなく顔を上げては目を逸らす合歓を怪訝に思ったか、少年はおずおずと訊ねてくる。


「あのう、僕の顔に何か付いてますか?」

「冗談なら笑えないぞー。というか、君はその辺りの自覚もないのかい?」

「えっ、顔に何か付いてるんですか!?」


 驚いたように体を起こした少年は、辺りを見回すように体を揺らしている。顔どころか頭も付いていないだろうというツッコミはするべきだろうか。


「洗面所をお借りしてもよろしいでしょうか」

「ああ、そこを出て右の突き当り一個手前だよ」

「ありがとうございます!」


 礼儀正しくぺこりと体をくの字に曲げてから、彼は部屋を出て行った。


「そういえば、右近くんがアトリエに来るのは初めてか」


 なんとなしに見送りながら独り言ちた合歓は、そこではたと我に返った。あまりに自然なやり取りで受け入れてしまったが、彼が鏡を見るのは拙いのではないだろうか。


「っとに、声が同じってのは紛らわしいな!」


 小走りで部屋を飛び出し、廊下の壁はぶつかるままにバウンドしながら洗面所へと向かう。


「あのー、変なところがあるのってどの辺りですかー?」


 呼びかけの内容が予想外のもので、合歓は危うく足をもつれさせるところだった。

 つんのめりながら洗面所へ滑り込む。肩で息をしながら顔を上げると、やはりそこには、さっき見た通りに首のない彼がいるし、鏡に映っている背中も同様だ。


「わざわざ来てもらってすみません。自分の顔じゃないみたいな違和感はありましたが、変なところはありませんでしたよ」

「どの辺りも何も、見たまんまだろう!?」


 もう一度見てみろと、少年の肩を掴んで鏡の方を向くように回す。

 その瞬間だった。


「えっ……あ、頭が!? なんで、僕は……えっ? ああ、あああ……っ!」

「私から見た君はずっとそうだよ。一体誰の顔を見て――」

「やめろ、合歓にだけは手を出すな! うわあああああああああああっ!!!」


 断末魔のような絶叫を上げたかと思うと、彼はそのまま後ろへ倒れ込んでしまった。


「ちょっ、おい! しっかりするんだ!」


 再び意識を失ってしまっている少年の体を抱え上げたまま、合歓は呆然と動けずにいた。


 呼吸が乱れ、息が上手く吸えなくなる。横隔膜がひくひくと痙攣を始めたのがわかる。

 合歓は手探りで這い上がり、洗面ボウルに顔を翳してえずいた。小一時間前に食べたシリアルは体の奥にまで行ってくれたのか、吐き戻すことはなく、ただ喉がひっくり返るような感覚に襲われるだけで済んだ。


 蛇口をめいっぱい捻り、直接口を付けて水を貪る。


「……私、名乗ってないよね?」


 鏡に映る自分の顔は、どちらが死人なのか判ったものじゃないくらいに青白かった。

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遺顔絵師~はじめての花束を、君に~ 雨愁軒経 @h_hihumi

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