3.面影
合歓は運転免許を持っていない。しかし販売仲介のエージェントを含めて来客の都合を考え、一階部分をぶち抜いて駐車場と物置部屋にしていた。
出不精だから重い荷物を運ぶこともないし、何かあれば業者に搬入を頼めばいい。『居住空間が二階』というのも仕事人らしい響きがあって気に入っていた。
それがどうだ。まさか二階建てにしたことを悔やむ日が来るとは思わなかった。そんな弱音を食いしばった歯の内側に押し止め、合歓は玄関の扉を開けて少年を中へ引きずり込んだ。
「これじゃまるで殺人犯の死体運びだね」
彼に首がないということも、言い知れない感情に拍車をかけていた。
近隣住民に霊感がないことを切に願う。いや、視えていないならいないで、謎のパントマイムを行っている不審者と思われるかもしれない。
……今さらか。合歓は肩を竦めて靴を脱いだ。
廊下に散らかし放題となっているキャンバスや道具を壁に押し付けるように立てかけ、郵便受けを開けた時には日付が過ぎていたため出しそびれた新聞や雑誌の束を足でついと押し退けながら、どこに彼を寝かせようかと考える。
さすがにベッドを使わせるのは乙女としての抵抗があるし、かといって床に転がしておくのは忍びない。やかんを火にかけながら室内を睨んで唸っていた合歓は、仕方なくソファの上の雑多なものたちを片付けることにした。
「別に私は片付けられない女なわけじゃない。座るスペースはあったさ。人が寝ることを考慮していないだけ。むしろ寝るときはベッドに行くという健全な生活をしている証左だろう?」
言い訳するように語り掛けながら、少年をソファに横たえさせた。
彼の胸は規則正しく、静かに上下している。何か熱に浮かされているとか、呪いのようなものに苦しめられているだとかいうことはないらしい。頭部がないことさえ目を瞑れば、ただ寝ているだけのようにさえ見える。
「ふむ……」
暫しの逡巡の後で、合歓はソファの下に並んで横になってみた。横を向けば、自分の目線の高さがちょうど彼の首の付け根あたりと同じ位置にくる。
女子の平均身長よりやや低いところをさまよっている自分より少し高いくらいとすれば、彼はそこまで背が高いというわけじゃないようだ。案外年下かもしれない。
「右近くんもこのくらいだったな」
ふとついて出た言葉に、合歓は慌てて下唇を噛み、口を噤んだ。
彼という存在は唯一無二だと信じていながら、少年に面影を重ねてしまった自分が嫌だ。並んで寝転がったことを思い出せたことで、自分が冷めた女じゃないと安堵してしまっていることにも嫌気が差す。
「……もう、一年だぞ」
いつまで引きずっているんだ。どうしようもなかったじゃないか。
まったく、と嘆息して天井を見上げる。最後に見た君の姿がああだったから悪いんだぞ。
まさか、人生で二度も首のない人を視ることになるなんて思わないじゃないか。
「許してくれ、右近くん」
傍にいてあげることができなかった私を。
「……む」
不意に、ソファの上から寝言のようなうめき声が聞こえて、合歓は飛び起きた。
「おい、目が覚めたのかい? なあ、なあって!」
揺さぶってみても、少年からの反応は返ってこない。
肩透かしを食らった気分で立ち尽くしてから、合歓は、すぐに襲ってきた自己嫌悪に駆られて手のひらを額に押し付けた。
また重ねてしまった。
一瞬聞こえたうめき声の『む』の音が、彼が名前を呼んでくれた時の声に重なった。
そんなわけがあるかと頭を振る。自意識過剰にも程がある。きっとこのアッパラパーな女は次に、少年が打った寝返りがそっくりだと思うに違いない。彼は寝相が良かったから、そんな仕草は見たこともないのに。
けたたましく鳴ったやかんの音で我に返り、合歓はキッチンスペースへ向かった。
洗い桶とタオルを持ってきて、シンクに置く。
「ええと、どっちだっけ……水にお湯? お湯に水?」
スマホで禁忌の検索をして、お湯に水が正解かと頷いてから、ハッと顔を上げて、そうか彼は死者だから水にお湯の方が正解かと思い直す。
まったく非日常というのは面倒だ。この思案の経験が尾を引いて、いつかまた混乱するのだろう。もっとも身近で葬儀をすることになるだろう関係者は両親くらいしかいないから、いっそ適当にかましてやるのも一興かもしれない。
洗い桶に水を張り、やかんからお湯を注いで作ったぬるま湯を抱えて部屋に戻った合歓は、ちょこんとソファの脇に正座をして、わざとらしいしかめっ面を作って見せた。
「上半身だけだからね。勘違いするんじゃないよ?」
シャツの内側から絞ったタオルを突っ込み、清拭を試みる。丁寧に行うのはなんだか意識してしまって癪だったので、ごっしごっしとやや乱暴に手を動かした。
服の上から見ても感じていたけれど、少年の見なりは随分と綺麗だった。今際の汚れも、道路に倒れていた気配もない。
胴体の拭き上げを終え、腕に移る。そのまま手首、手の甲へと流れ、手のひらを拭こうと彼の指を開いたところで、合歓ははたと手を止めた。
少年の指先に、わずかな火傷の痕がある。
『手のひらに小さな火傷の跡があるでしょう。きっと彼は取り返してくれたんだと思います』
嘘だろう。目を疑った。しかし『彼』の方は、あの忌々しい父親につけられた痛々しい傷があったはずだ。
どうか別人であってくれと祈りながら、再び少年のシャツを捲り、腹部の皮膚を確認する。やはり綺麗なものだった。
ああ良かった。別人だ。そうほうっと息を吐いて顔を上げようとした時、頭上から声がかけられた。
「あのう、あなたは……?」
こちらを覗き込むようにぱっくり開いた首の断面に、合歓はひゃあと声を上げて飛び退いた。
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