Revenge Fox Ⅲ

 不意にデスクの端に紙コップが置かれた。

 目を向けると黒い液体が入っている。


「ブラックで良かったっけ」


 振り返ると再び佐々木さんがいて、パソコンの画面を覗き込んでいた。


「あ、はい。大丈夫っす。ありがとうございます」


 ちょっと意外だった。


「あの、こんなに遅くまで。めずらしいですね」

「そうだねえ。私、この企画課のコンパニオンだもんねえ。残業とか似合わないよねえ」


 間延びした声でそう自虐した佐々木さんは俺の肩口でクスクス笑った。


「いやいやいや、そんなことないっすよ」


 俺は彼女の体を避けるようにデスクに身をのけぞらせて両手を大袈裟に振る。


「自分、入社時から佐々木さんにいろいろ教えてもらってるし、いつもフォローしてもらってめちゃくちゃ助かってますし……」


 けれど心の隅でそれも仕方がないことかもしれないとつい思ってしまった。

 容姿端麗とは佐々木さんのためにあるような四字熟語だ。

 モデルのようなスタイルで小顔で目鼻立ちもスッキリしていて、つまり誰もが認める美人である。

 けれど仕事の面に関してはあまり良いお手本とはいえない。聞くところによると、これまでに彼女が立案した企画が採用されたことは一度もないようだし、会議で発言することも稀だった。新入社員の指導やプレゼンのフォローなどを快く引き受けてくれる面倒見の良さはあるけれど、どう贔屓目に見ても企画立案してそれを推し進める実力はないように思える。またその容姿へのやっかみ混じりにコンパニオンと陰口を叩く企画課の女子社員も少なからずいるらしい。

 とはいえ俺には彼女を蔑む気などさらさらなかった。

 自分たちは企画課というチームで仕事をしている。

 そしてチームにはこういう潤滑剤のような人材も必要なのだと割り切っていた。


「医療系メタバースかあ。いいね、面白そう」

「まあ具体的な話に持っていくにはかなりハードルがキツそうですけどね」


 答えながら凝った首を左右にもたげるとポキポキ音がした。

 すると佐々木さんのしなやかな手指が俺の肩に載せられる。


「あ、いやいや。そんな、いいっすよ」


 揉まれた肩をすくめると彼女の声が耳のすぐ近くで響いた。


「これもフォローのうちだから」

「いや、でも……」


 社内とはいえ深夜、佐々木さんと二人きり、しかもフローラルな香水が漂ってくる。このままではちょっと妙な気分になりそうで、俺は適当なところで切りを付けるように振り返った。


「あ、もう本当にこれぐらいで」

「そう? 遠慮しなくてもいいのに」

「いやあ、十分楽になりましたし」


 そう答えて大袈裟に肩を回すとようやく佐々木さんは身を引いて微笑んだ。


「ねえ、その企画って誰かと共同でやってるの」

「いえ、いまのところ自分だけです。だからプレゼンまではこれでお願いしますね」


 口にチャックをすると彼女もうなずき同じ仕草を返してきた。


「了解。じゃあ私、そろそろ帰るね。岡部くんもあんまり根を詰めすぎないように。終電までには帰るのよ」

「はい、ありがとうございます。佐々木さんも気をつけて」


 俺は軽く頭を下げ、ドアを出ていく彼女を見送った。

 そのときはこれが罠であることなど知る由もなかった。

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