Revenge Fox Ⅴ

「おい、交代だ。休憩入れよ」


 野太い声に振り返るともっさりした男が立っていた。

 名前は覚えていないけれど、この現場では五十代と思しき彼がバイトリーダーだ。体つきは絵に描いたような中年太りで上の前歯が一本足りない剽軽な顔つきをしている。


「あ、どうも。あの、ちょっとコンビニ行ってきてもいいですか」

「おう、けどそのまんまの格好で行くなよ。ずぶ濡れで店入ると会社に苦情が入ることがあるからな」

「了解です」


 俺は現場の隅に停めてあるハイエースに乗り込むと濡れたレインコートを脱ぎ、リュックに押し込んでいた私服を引っ張り出した。そして着替え、備品の黒傘を広げて車外に降り立ち、通りの反対側にあるコンビニへと足を向ける。

 なにか温かい飲み物が欲しかった。

 小腹も空いていたのでついでに温まる食べ物を買おうと思った。

 もうすぐ六月だ。多分、おでんはないだろうな。

 じゃあ肉まん、もないか。

 まあ、普通にカップラーメンでいいか。

 俺はそんな他愛のないことを考えながら信号待ちをしていた。


「ほお、ずいぶんと底意地の悪い女にやられたもんだな」


 甲高い声が傘を打つ雨音に紛れ込んだ。

 けれどあたりを見回してみても誰もいない。

 空耳だったかと歩行者用信号に目を戻すと再び鼓膜がその声をとらえた。


「なあ、あんた。なんならやってみるかい。協力するぜ」


 顔を強ばらせ、もう一度あたりに目を配った。

 するとくたびれたスニーカーのすぐ傍にその声の主をようやく見つけた。

 頭の高さが俺の膝丈ぐらいの動物である。


「……犬」

「犬じゃねえよ。狐だ」


 不服そうな声。

 言われてみればそいつはたしかに狐の姿をしていた。

 犬にしては尖った鼻先。

 鋭く上を向いた三角の耳先。

 書き初め用の筆のようにふさふさとボリュームのあるしっぽ。

 そして一点の汚れもない真っ白な体毛に血のように紅い瞳。

 俺は目を瞑り、ぐるりと首を回してみる。

 疲れているのかもしれない。

 そう思った。



 会社を首になった後、職を転々と変えた。

 最初は目をかけてくれていた上司にこっそり紹介してもらった下請け企業に再就職したが、すぐに良くない噂が立って辞めざるを得なくなった。

 仕方なく地元に帰り、伝手つてを頼って小さな広告代理店に入ったものの数ヶ月が経った頃、そこでも俺が暴漢の罪を犯したと噂が広がり、ついには両親の耳にまでそれが届いてしまった。

 心機一転、何もかも忘れてやり直そうとようやく前向きになりかけたところだった。再び針の筵のような生活が始まった。都会と違い、田舎は噂が駆け巡るのも速い。

 あの女が密告したに違いなかった。

 そして居場所はどこにもなくなった。

 仕方なく俺はまた都会に戻り、現在はアルバイトでなんとか食いつなぐ日々を送っている。

 最近は夜の交通誘導が主な仕事だ。

 時給はそこそこ良いし、顔見知りと鉢合わせることもない。

 事件以来、対人恐怖症気味の自分には打ってつけのバイトだが、さすがに昼夜逆転の不規則な生活にじわじわと疲労が蓄積しているのが分かる。

 やはり昼間の仕事を探すか。

 二、三度頭を振って、いつのまにか青に変わっていた信号にあわてて足を進めようとするとさっきの声がまた聞こえてきた。


「まあ、そう難しいもんじゃねえよ。復讐なんてのはさ」


 その言葉に俺は思わずその足を止めた。


 復讐……。


 そして足下を見遣ると狐は細長い鼻先を震わせて不敵に笑っていた。

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