Strolling with Chiro 4
三宮で女の子と一緒に下り、彼女がホームの階段を降りていくのを見送ってから、改めて各停に乗り換えると、ひと駅で元町。
それから十分ほど歩いて、無事アタシ達はオヤジの事務所にたどり着いた。裏通りだけれども、まあまあおしゃれなビルの三階。二階にも物件を持っていて、そちらはバーだ。雪丘輝一が顔を見せるバーということで、知る人ぞ知るSMの名所になっている。チロはアタシに何も言わないまま、途中の二階でバーの扉をくぐっていった。
時刻は昼過ぎと言っても通るぐらいで、まだ開店には時間があるけれど、鷺坂さんなり誰かなりが遅い昼食を出してくれるだろうし、別の意味でも色々構ってくれるはずだから、多分このままずっとバーに居着くんだろう。
アタシはさっそくオヤジと仕事の話。軽いものを口に運びながら、お母さんが内職みたいにして仕上げている、新作ビデオのぼかし入れの確認と、映像とか音声の細かい仕上げのチェックにかかる。全部ネット経由でメールを使ってやれる仕事ではあるけれど、こういう段階になったら顔を突き合わせて言葉でやり取りする方がいいということで、数ヶ月に一度、直接打ち合わせをしているのだ。もちろんアタシ自身はほとんど関知していない仕事の中身だ。それでも、オヤジの注文を細かいニュアンス込みで母親に伝える手伝いぐらいはできる。
それが済んだら、文章原稿のチェック。うちのプロダクションのネットコンテンツに載せる、エッセイのチェックである。はっきり言ってエロさはあんまりない日常系エッセイなんだけど、そこそこ評判がいいようで、数ヶ月に一度の不定期連載で、その都度アタシはなけなしの稿料を小遣いとして受け取っている。
「相変わらず、とぼけたエッセイやなあ」
一通り原稿に目を通してからオヤジが言った。
「まあ、こういう生活感のあるSMっちゅうのも、悪うないけどな」
ダメ出しじゃないようなんで、アタシは別の話を振った。
「なあ、見上げ入道って何?」
「なんの話や、そら」
そこでアタシはさっきの電車の中でのチロの〝武勇伝〟を語った。オヤジはひとしきり大笑いしてから、
「なるほど、そらあ逃げるわ。その男も可哀想に。トラウマになったんちゃうか。もう二度と痴漢できへんかもな」
「いや、それはええから、見上げ入道って」
「ネットで調べや、そんなもんぐらい」
「えー」
「それにしても、なんでチロはそんな格好してたんや?」
「知らんがな! オヤジがアホな命令出してたんとちゃうんかいな」
「俺は何も言うてへんで」
「え、じゃああのプレイもほんまにただのトイレやったん?」
「そらまた何の話や」
そこでアタシは朝の自動車の中での出来事を語った。
また笑い転げるのかと思ったら、オヤジはしばらく何も返さず、じーっと何事かを考え込んでいる。
だいぶんあってから、何となく説教モードみたいな顔でオヤジが言った。
「なあ。女は三十になったら自分のカラダに責任持て、いう言葉知ってるか?」
「知らんわっ! オヤジが言うてるだけちゃうんか」
「うん、今作った」
「なんなん。チロってそんなに年いってたん?」
「ちゃう。お前のことや」
「は? なんでアタシの話になんねんな」
正面からにらみつけると、妙に歯切れ悪そうにオヤジは言葉を切る。どうも話が微妙に噛み合ってない感じがする。チロといい、オヤジといい、アタシにいったい何の含みがあるというのか。
「だいたいアタシ、まだ二十八なんやけど」
「うん、ほんで、中身は二十歳前後のまんまやろ」
「え、それってアタシってば未成年に見えるぐらいピチピチしてるってこと?」
喜色満面で訊き返したアタシを、オヤジは完スルーした。のみならず、いきなり爆弾を放り投げてきた。
「お前、自分を何者や思うてんねん。Sか、Mか」
「な、何の話!?」
「そやから、女は三十になる前に自分のカラダを知っとかんとあかんねん」
「そっちの意味やったんかいな!」
「お前にMは務まらん思うてた。あんまりにも相手に合わせ過ぎる。マゾは自分の快楽にどこまでも欲深ぁないとあかん。そう言う意味では、イルミは臆病やねん。思春期前のガキと変わらんぐらい」
「な、そ……」
娘に向かってなんちゅうことを、と抗議したかったけれど、言葉が出てこない。ってか、話の方向性が見えない。チロの話やなかったん?
「実は何回か、お前をS役で使わへんか、いう話はあってん。Mよりはそっちの方やろなと俺も思った。けど、全部断った。なんでかわかるか?」
「え、え? 娘をこんな世界に引っ張り込むのは忍びない……んやなくて?」
「こんな世界とは何や、こんな世界とは。いやそら、お前がはっきりこの業界毛嫌いしてるんやったら、無理は言わんとこうと思うてたけど、どっぷり浸かっとるやんか、自分から」
「ええ? まあ、そう、かな」
「見たところ、俺よりかよっぽどSMの世界面白がっとる。これは教えてできることとちゃう。素質、言うてもええやろ。やけど、イルミには徹底的に欠けてることがある。分かるか?」
「…………いえ」
「お前は自分を知らな過ぎる。なんちゅうても、自分のカラダが分かってへん」
「か、カラダって何!?」
「えー、父親にそれを言わせるんかあ〜?」
なんか、新人のM女志願者をじっとり品定めする時みたいないやらしい視線を実の娘に向ける雪丘輝一、五十九歳。でもそれはまた、身内ならではの照れとかためらいの裏返しだったかも知れない。アタシが渋面で次の言葉を待っていると、オヤジはふっと思いついたように、さらさらと何かの文を数行、メモに書いた。
「なあ、イルミよ」
便箋サイズのメモ用紙に目を落としながら、ちょっとしみじみした声で言う。
「マニアが熱狂するようなすんごい演出の予告編出しといて、肝心のビデオが全然売り出されへんかったら、お客は怒るやろ」
「当たり前やん」
「お前でもそれはけしからんって思うわな」
「まあ、そら」
「じゃあ」
ニヤッと笑った父が、メモをアタシに突きつけて、言った。
「ちゃんと責任取らんと」
オヤジが二階に降りたのは、五時前だった。土曜日の開店は一応七時なんだけど、緩い店なんで、気の早いメンバーがぼちぼち顔を出している。でも、営業時間外だから、今はプライベートだと言って言い張れないことはない。
で、そういう時間帯に、よくこの男は遊びの延長のような感じで、調教中の女の子のご機嫌取りをするのだった。
「おお、元気そうやな、チロ」
我らがペットは、今は首輪も縄化粧も全部取っ払った姿で、だぼっとしたニットのワンピースに身を包んでいた。素肌に直接着ているようだけれども、暖房の効いた部屋の中だし、すっかりリラックスしている様子だ。その格好で顔なじみの女の子や、プロダクションの人たちと輪になって、うだうだと土曜の午後を過ごしつつ、旧交を温めていたらしい。
「どれ、体重は増えたんか」
「ええ、やだあ」
その人垣の真ん中へ、オヤジはボス猿のように割り込むと、チロを膝に乗せ、猫のようにあやし始めた。
「チロはいつまで丹波に引っ込んでんねん」
「んー、まだもう少し」
「ええかげん仕事せいや。お前」
「だって、あんなことあったら、期待するじゃん。もっとすごいことしてくれるのかなって」
「え、なになに、何の話?」
お店の手伝いに来てる、元SMクラブ務めの娘が目を輝かせた。カウンターの鷺坂さんが、すかさず説明を入れる。
「チロちゃん、すごい調教受けたのよねー。もう人生ひっくり返っちゃうぐらいの」
ちなみにこの人は、ひところゲイの典型みたいになってた、知性派オネエっぽいタイプの女装者である。
「ビデオの撮影済んで、もうこれで引退かもって言いながらキーちゃんのお家へ保養に行ったのに、そこで天才肌のSのお姉さまに遭遇して」
「えー、何されたのー!?」
「……やだ、恥ずかしくて言えない」
マジで赤らんでる様子のチロに、女の子が目を丸くしていた。チロの出演ビデオの内容も知ってるその子からすると、プロが恥ずかしいと公言する内容の見当がつかなかったのか。
「あれは、まあ、AVでやるとしたら相当なハード路線やな。うまく映像にできるかどうか」
唸るようにオヤジが言う。監督自らの話の裏付けで、プロダクションの若いのが色めき立った。
「いやあ、それはぜひ挑戦すべきっしょ! やりましょうよ、ドキュメンタリー路線とかで」
「うーん、でもなー」
言いながらオヤジは縄をしごきつつ、チロのワンピースを脱がし、膝の上に伏せさせて、手先だけはてきぱきと後ろ手に縛っていく。
「まあ、撮影の話は置いといて、チロ」
「なあに」
「お前、あいつがいつまでもその気にならんかったどうすんねん。正月のあれかて、ほとんど事故みたいなもんやったんやろ」
「え、事故って?」
また女の子が鷺坂さんに訊く。
「うーんとね、そのSのお姉さまってば、ほんと気まぐれで。契約とかプレイとか関係なしに、いきなり虐待始めちゃうから」
「は、マズくない、それ? その人、ヤバイ人じゃ」
「でもほら、結果的にエクスタシーに持っていかれたら、もう離れられないでしょ?」
「えええ、なんか小説みたい」
二人のおかげで背景説明はその場のみんなに行き渡っていた。初めて話を聞いた人たちは、ほおおと好奇の表情を隠さない。
AVにしろ、クラブにしろ、この業界は現実には徹底した安全管理とコンプライアンスの遵守で成り立っている。無理なことはしないし、できない。
だから、根っからのマゾは憧れるのだ。リアルとファンタジーのギリギリまで、蹂躙してほしい。されてみたい。
それを可能にしてくれる、手練のSがいるのなら、ぜひ、と。
「お前の気持ちも分かるけど、ロマンチックな偶然をいつまでも待ってたらあかん」
チロの膝を折り、足首と太ももの付け根を片足ずつ縛り付けて、膝立ちにさせてから、オヤジはチロに顔を寄せた。顔を曇らせて、チロが視線を逸らそうとする。
「だから、そう思って今日はがんばったのに……空振りだったし」
「うん、ほんでチロもええかげん、マゾらしい駆け引きを覚えんとな」
そう言ってボールギャグをチロの口の中に押し込み、さらに全頭マスクをかぶせて後頭部のホックを留めていく。口元だけが開いている、頭部をすっぽり包み込んでしまう革製品で、要するに目出し帽の目の穴がない形態の拘束具である。目隠しよりも厳重な閉塞感に落とし込まれて、戸惑ったようにチロがうめき声を出す。
人相がすっかりわからなくなった娘を、オヤジはそっと床に横たえた。見かけだけは無造作に転がされたような姿勢で、チロが少しだけ身をよじった。何が始まるんだろうなとみんなが期待した顔を見合わせていると、オヤジは不意に声を張り上げた。
「『なんや、イルミやないか。寝とったんちゃうんか』」
シナリオの始まりの一行に応えて、アタシはぎこちなく立ち上がった。ずっと隠れていた、従業員口の手前にある物陰から。
足が震えているのが分かった。それでも、なんとかセリフは自然に出せた。
「『んー、ちょっと寝たらすぐ覚めて。あれ、なにやってんの、それ』」
「『おー、ちょうどええわ。ちょっと行き詰まってる調教中の子がおんねん』」
たぶん息を詰めて様子を窺っていたんであろうチロが、急にダダをこねるように蠢き出した。どういう話なのか、ようやく理解したんだろう。
それは、アタシも同様だった。
ここまで聞いた話の中身が、信じられない。チロが家に居着いていたのは、アタシに責めてほしかったから? んで、アタシが天才肌のS?
なんのドッキリですか、と、その辺のスタッフの肩を揺さぶって問い質したい。
でも、それと背中合わせで、何もかも納得できた気もする。
そう、アタシは知っていた。あの日、チロが喜悦の叫び声を上げていたことを。自分が、この娘に、二度と消えないであろう刻印を押してしまったことを。
「『この子も相当なマゾや。んで色んなプレイに手を出して、逆に飽きが来てしもうたところやねん。でも、こいつはまだまだこんなもんやないと思う』」
あえてチロと別人を装ったのは、アタシに配慮したからだろう。見慣れた同居人ではない、新鮮な相手だと錯覚できるように。あるいは、アタシがそう錯覚すると、チロに思い込ませるため? いずれにしても、おかげでアタシは、そこに転がっている娘を、冷静に観察することができた。素材として、Mの生人形として。
「『ああ、そうでしょうね』」
微かに鼻で笑うような響きが入ってしまう。びくっとチロがおののいたように背中を震わせた。でも、これは本心だ。そう、チロの潜在性はこんなものではない。まだまだ、この程度では。
「『お前やったら、この子、どう責める?』」
オヤジが挑みかかるように、アタシを見た。分かっている。これは分岐点だ。踵を返すのなら、今。逃げられるのは、これで最後。
でももう、いやでも自覚してしまう。アタシは今、飢えたケダモノみたいに目をギラギラさせて、チロの全身を舐め回してる。分かるのだ。理屈じゃなくて分かる。どこをどう刺激すれば、チロの体に火がつくか。どんな責めを組み合わせれば、チロの神経が限界まで狂っていくか。
あの時、チロを逆さ吊りにして弄んだ時と同じく。
「そうねえ。あ、鷺坂さん、アイスピックある?」
「え? あ、あるけど」
ちょっとびびったように差し出してくるそれを受け取って、氷の入ったバケットごと受け取り、ざくざく音を立てる。得体の知れない恐怖でチロがパニックになったように体を揺らせた。潰れたカエルみたいな無様な格好でジダバタしているチロの背中に、とん、と片足を載せる。
それだけで、チロが軽くイッたのが足裏越しに伝わってきた。
「くれぐれも飛ばし過ぎんなや。お前、最初からツボのど真ん中を押さえてまうんが玉に瑕や」
小声でオヤジがアタシに囁いた。一応、神妙に「分かってる」と答えたつもりだったのに、オヤジはアタシの顔をもう一度見て、嗤った。
「イルミ……口が裂けとるやないか」
ええ? と生真面目に眉根を寄せたつもりが、全然形になってない。もう自分でも止められない。なんだか、世界のてっぺんで絶叫したい気分。
ああ、今アタシ達は岸辺から、一つのめくるめくファンタジーへ、その果てしなく深い淵へと、真っ逆さまに飛び込んでいる。抱き合いながら。歓喜とともに。
<了>
チロを連れて 湾多珠巳 @wonder_tamami
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