Strolling with Chiro 3


 実を言うと、チロとアタシの間には、なかなかに強烈な思い出がある。あれは今年の正月、兄夫婦や付き合いのある悪い人たちが丹波の家にいっぱい集まった時のこと。

 新年会、と言えば聞こえはいいけど、関係者以外をシャットアウトして、夜通しの乱痴気騒ぎをやりたかっただけなんで、状況は早々に罰当たりな場面のオンパレードになった。ついていけなくなったアタシは自分の部屋にこもって、一人で飲んでた。

 確か夜が明けて朝日が高くなってた時分だから、もう半日以上過ぎた頃だ。階下に降りてみたら誰もおらず、どうやら都心に帰るお客人を家族総出で見送りに出ているらしかった。アルコールの抜けない頭を抱えながら客間に入ると、そこにはチロが一人でいた。

 真性マゾの女の子だという紹介は受けたあとだった。だから、チロが下着姿の緊縛姿でぶっとい柱に結わえつけられていても、アタシは別段驚かなかった。客間は暖房がまだ効いていて、薄着でも大丈夫なようだったけれど、それにしては落ち着かなげに体を揺らめかせていた。口に白い布を噛ませられていたチロは、アタシを見ると、弱々しくうめき声を上げて、何かのアピールをした。

 状況はひと目でわかった。でも、今もそうだけど、その時点でアタシがチロに優しく接してあげなきゃならない理由はなかった。オヤジの連れてきた得体の知れない女である。実の娘はどうすべきか? もちろん虐待すべきである! なんてことを、酔った頭で考えてた記憶がある。

 だいたいそういう格好で放置されてるってことは、オヤジか誰かが(どこまで真面目かはともかく)何かの目的で調教してるってことだから、アタシが縄を解いたりしたら、後で色々とうるさいかも知れない――そういう言い訳も手伝って、アタシは〝次善の策〟を取ったのだった。

 チロを逆さ吊りにしたのだ。

 正確には、そんな大層なものではない。ぶら下がり健康器(もちろん健康目的で使ってなどいない)の横棒の両端にチロの両膝を縛り、変則Y字型にぶら下げてやったのだ。あるいはこういうのも「門前の小僧、習わぬなんとやら」なのか、後で考えると結構すごいなと思うんだけど、部屋にあった滑車とかウインチとか即興で組み合わせて、アタシは驚くほどスムーズに〝初めての吊りプレイ〟を成功させていたんである。

「これで少しはおしっこ我慢できるよね〜?」

 何かそんなことを口走ってたような気がする。

 膝を折っているので、完全な逆さ吊りよりは頭に上る血が少ない――とは言え、長時間放置はできない。何よりも、落下の危険があるから、吊りプレイの時は絶対に相手から目を離してはいけない、とかなんとか、安全対策の心得をぶつぶつつぶやきながら、アタシはチロがどんどん切羽詰まっていくのをひたすら目の前で観察し続けていた。

 で、待ってても誰も帰ってこないし、そろそろ限界かな、と予想した、そのちょっと前に、チロは決壊してしまったのだ。頭を下にしたままの姿で。

 正直、さすがに慌てた。えらいことをしてしまったと思った。でもプレイの体裁は整えないといけないと思ったから、思いっきり不機嫌そうになじってやった。

「あーっ、漏らすなって言ったのにっ!」

 かつ、詰った以上は罰を与えないといけないと思ったので、チロの上半身を床に下ろして安全確保してから、お仕置きよ、と言って部屋にあった(多分プレイ道具の)洗濯バサミをチロのおっぱいとか太ももとかに二十個ぐらい挟み付けて、部屋を出た。後ろ手に縛られたまま尿溜まりに浸からせられて痛いことまでいっぱいされた上に放置され、チロはなんだか号泣してたみたいだけど、様式美なんだから仕方ない。

 放置と見せかけて、ちゃんとアタシはお風呂を沸かしていたのだ。それからチロを解放してやって風呂場に連れて行って汚れた床なんかの後始末をしてから、一応謝っておかないとな、などと考えていた矢先、家族が帰ってきた。

 もの問いたげなオヤジには、「あの子、漏らしちゃったみたい」とだけ答えた。その後、チロと飼い主の間にどんな対話があったかは知らない。別に全部報告してもよかったんだけど、なんとなく二人のどちらとも会話はなく、その場はそれで収まったみたいで、結果的にそれっきりその出来事は忘れていて――


 うーん、忘れてたんよねー、アタシ。

 車窓の外を流れていく景色を眺めながら、しばしぼうっとする。神戸線の特別快速電車、腰まで下りている大きなドア窓のガラス越しに。

 おしっこ騒ぎからそろそろ二時間経つ。あれからアタシたちは乗るべきJR駅にたどり着き、近くでオーバーナイトの駐車場を確保し、列車に乗り込んだ。

 以来大阪駅で乗り継いでここまでは驚くほど何もなく、スムーズに進んだ。依然チロとは会話はないままだけど(どうせ口が聞けないままだと思う)、アタシが買った切符を受け取って改札を通って大人しい乗客を演じる、というミッションを、チロは難なくこなしている。

 さすがに裸コートのままだと冷えすぎるという判断も働いたようで、アタシが何も言わないのに、自動車を降りる時にニットのセーターとスカートを身に着けたりもしていた。でも、縄ブラと股縄と首輪はそのまんまだ。ギュウギュウの混雑の中だと、分かる相手にはバレバレじゃないかと心配したけど、今のところトラブルはない。

 まあ、異様な薄着とムダに巻き付けすぎてるマフラーと覆面みたいなマスクで、ははあと勘づいた趣味人のご同輩は絶対いらっしゃったことだろう。どこで、どの方向から、とは明言できないけれど、確かにチロやうちのオヤジと同じ匂いの存在からの、物言いたげな視線のようなものを、何度か感じた。変な絡み方をしてこないのなら結構だ。アタシの方をペット連れのS女性と判断されるのは、ちょっと面映くはあるものの。

 大阪から先は座れなかったとは言え、車内はそれほどひどい混み方ではなかった。ドアの両隅で向かい合う形になってるチロは、こうしてみるとまるっきり普通の若い女性に見える。間違っても、我が身を嬉々としてセルフ拘束して悦ぶような変態には見えない。

 そもそも、アタシはチロのことを何一つ知らない。

 知らないのに、逆さ吊りにして強制排尿プレイなどというウルトラCを、会って間もない時期にやらかしてしまった。ろくな経験もないくせに、見聞きしてきた内容だけはべらぼうな量なんで、アタシのエロ感覚はどこかバグってるんだろう。そもそもスカトロ系のプレイは許容度の個人差が大きいんである。相手のキャラすらつかまないまま責めまくるなんて、本来ならご法度もいいところだ。

 思い出せば思い出すほど胸の底が冷たくなってくる。それにしても、あれだけヒドイことをしてたのに、なんで印象に残らなかったのか。

 って言うか、なんでチロはうちに愛想つかさなかったの? こんだけの目にあったら、普通逃げるよね? 

 もとより、今日のこれって何なわけ? 結局朝のあれは、計算外に体が冷えたことによるただのアクシデントだったのか。コートの下の自縛は、ただオヤジあたりがそう言う格好で来いって命令でもしたから言うこと聞いてるだけなのか……いやいや、ちょっと待って。何かを見落としている気がする。

 何か肝心なピースが抜けたままになっている。そういえば今日は最初からそんな感じがする。朝、チロを目の前にした時――いや、もしかしたらチロを元町に連れていくよう言われた時にすでに、アタシは何かを意識の真ん中へ繰り入れ損ねたって感触が――何だっけ? まるで、髪に差したままのアクセサリを、その着用感をずっと意識しているのに、意地になって探し回ってるような、このまどろっこしさは――一体――。

 とかなんとか、心の裡でがっつり自己省察をやってるうちに、電車は芦屋を過ぎ、短い旅も終わりに近づいてきた。

 ま、無事にたどり着いたんならいいか。

 と、何の気なしに反対側の窓を見たアタシは。

 そこで一瞬思考を飛ばした。

 スーツ姿の端正な中年男性が、学生服姿の、たぶん女子高生に、痴漢をはたらいていやがったんである。

 電車の中はみんなマスク姿ばかりで、表情がわかりにくいぶん、男性の顔つきも、横顔だけ見える女の子の様子も、違和感と呼べるほどのものは読み取れない。けど、女の肌を這い回る手の映像なんかも、浴びるほど観てきたアタシには分かった。男性は新聞を盾にする形で、手を女子高生のおしりの丸みに伸ばし、ものすごく微妙な動きでさわさわと撫で回していた。

 場所は車両の最後尾、進行方向に向けた二人席の列が途切れて、ドアだけがある空間で、立ち客ばかり十数人詰め込んだらいっぱいいっぱいな広さ。山側のドアにアタシとチロ、中程にでかいリュックサックを背負った初老のおっさんたちがたむろって声高に話をしていて、海側のドアに男と女の子が立っている、という位置関係。

 ハイキング帰りらしいおっさん共が邪魔をしていて、アタシ達はそこに女の子がいたことすら、ろくに気づいてなかった。四人ほどでその空間のほとんどを占領して会話に夢中だったおっさんらはおっさんらで、アタシたちにも女の子にも注意なんて払ってなかったんだろう。

 これで女の子が、声を上げたりしなさそうなタイプだったら、痴漢としては絶好の獲物、絶好の機会だ。

 なんで好きにさせてんのっ、と思わずアクションを起こしかけて、アタシは踏みとどまった。車両の隅へ消え入るように後ろ向きになっている女の子の膝下に、少し大きめのボストンバッグがあった。学生カバンじゃない。今は三月、受験生なのかも知れない。もしかしたら、これから午後の入試会場へ急いでいる身とか。

 騒ぎを起こして遅刻するわけにいかないから、受験生の女子中高生はほぼ必ず泣き寝入りする、ゆえに、その手の少女を狙ったら安全に痴漢できる――あまりにもよく知れ渡っている、この時期ならではの胸が悪くなる電車あるあるだ。

 どれだけAV業界に長く関わって社会的禁忌の枠がおかしくなってるアタシでも、これは許せない。アタシの周りの人間だって、同じように怒ってくれるはずだ。なぜ? 決まってる。これはビデオの中ではないからだ。

 ビデオの中はファンタジーだ。どれだけリアリティを出して、真に迫った演技を女優に求めようとも、あくまで幻想の世界だと、みんな了解している。そのあたりは、たとえば華やかなガンアクションに憧れるとしても、現実の撃ち合いの中に身を置きたくて本物の傭兵になりたがる者などはめったにいない、なんて話と同様だ。

 これは止めさせなきゃ……と、改めて動きかけて、でも途端にアタシは行き詰まる。

 現実とファンタジーの区別がついてなさそうなペットがここにいる!

 いや、チロの常識感覚は信用していいかも知れない。朝だって衆人環視の道路の真ん中でおしっこしたりはしなかったし、電車の中でストリップもやらなかった。したくてたまらない、というふうにも見えない。だからこそ、今日は何のために裸コートでやってきたのかわからないんだけど、それはともかく。

 今、目の前の痴漢を取り押さえるとする。駅で公安官がやってきて、アタシたちも多分同行を求められる。そこで、妙な格好のチロに気づかないまま、なんてことがあるだろうか? 担当者としては、尋ねないわけにいかないだろう。で、何と返事すればいい? 「いえいえ、この人はただの露出趣味で、こちらの痴漢さんとは偶然居合わせただけで、あははは」なんて言って、説得力があるか? 痴漢とグルだったのが、仲間割れを起こしたんでは、なんて勘ぐられるのかオチでは?

 と言うか、仮に痴漢が抵抗して暴れたりしたら、チロのあられもない格好が――いやいや、それはマズイっ。なんか、痴漢以上に非難の視線を浴びそうっ。

 ちょっと困った。もしかして、今日最大のピンチなんじゃ? ああ、どうしたら……。

 と、打算と倫理観のせめぎ合いでアタシが硬直してしまった、その時。

 チロが動いた。さりげなく、ほんとうに自然に窓辺から離れ、談笑中のおっさんの背後を通り、痴漢の前に立った。

 貪るように片手を動かしていた男性は、すっと動きを止めた。なかなかの手練らしいし、痴漢行為も、アタシがぎりぎり気がついたような微妙な動作だったし、やってた、やってなかった、の言い合いになっても逃げ切れると思ってたのかも知れない。一瞬、「何ですか?」というように、薄ら笑いが男性の目元に浮かびかける。

 チロはいきなりその手をつかむと。

 何のためらいもなく、自分の下半身に導いた。

 コートの前がはだけていた。ニットのセーターもスカートも半ばまくれ上げてたんだろう。男性が、もんのすごくびっくりした顔で腕を引っ込め、チロの首から下を凝視する。なにか粘ついたものでも指先についたのか、ヒス気味に手先をぐしゃぐしゃと動かしている。おそらくはマスクの下でぽっかり開けているであろう口から、今にも恐怖の叫び声が聞こえてきそうだ。

 気配を感じて振り返った女子学生が、男性の様子をひと目見、チロの姿を認める。こちらも目ン玉が飛び出しそうな顔で、唖然と立ち尽くした。

 一歩、チロが男性ににじり寄った。ちょうど通過駅の構内に入って、暗くなった窓にチロの顔が映る。

 嗤っていた。

 マスクの上の目だけで、チロは男性を、その卑小なセクシュアリティを、徹底的に蔑み、挑発していた。ねえ、アンタ、そんなことで満足できるんだ? 私ならもっといいことしてやれんのに。ほら、触んなさいよ。すごいこといっぱい教えてあげる。快楽の奥の奥へ、引きずり込んであげるから――

 駅を通過し終えて、チロの影が消える。その時になって、ようやくアタシは自分のなすべきことに気づいた。つかつかと女の子の元に並び、スマホを男の前に突きつけて、パシャッとシャッターを切る。男性は少しだけ我に返ったようだったけれども、言い逃れできるできない以前に、なおもチロの醸す非現実感に堪えられなかったようだ。視線がアタシとチロの間を何度かせわしなく往復したかと思うと、ほとんど泣きそうな表情のまま、脱兎のごとく逃げ出した。座席の真ん中の通路を突っ切って、そのまま何両か縦断していくつもりらしい。リュックのおっさんどもが、なんじゃい、と訝しげな顔を男性に投げかけ、アタシたちを見、また男性を見た。

 つい後を追おうとしたアタシを、女の子が引き止めた。

「あ、あの……ありがとうございます。でもいいんです。このままで」

「……受験生?」

「はい。その、これからすぐ新幹線に乗らないと」

 旅の途中だったようだ。今すぐ試験を受ける身じゃないようだけど、確かに被害届を出してる余裕はなさそうだ。

「あなた、大丈夫?」

 痴漢に遭った直後、それも様子からして生まれて初めてじゃないかと思う。ショックで倒れたりしても不思議じゃない。実際、マスク越しの女の子の顔は、全体的に青ざめていた。

「怖くなかった? 気をしっかり持ってね。悪いのは百パーセント、あのやろーだから」

「あ、はい、すごく怖かった……ですけど、なんか、大丈夫かなって」

「ほんとに?」

「はい。何か、あの人の姿見たら、急に……その……」

 ちょっと可笑しそうに女の子が言いよどむ。ん? とアタシが首を傾げると、不意にチロが言葉を挟んだ。

「見越したんでしょ」

 まさかチロが喋ると思ってなかったんで、アタシは呆然とした。てか、いつの間に口のテープ、取ったの!?

「見上げ入道と一緒。男とか痴漢とか、そういうもんだから」

「あ、見上げ入道、それです! ほんと、ぴったり」

 それからチロと女の子は三宮につくまでの少しの間、楽しげに談笑していた。女の子の角度からは、少なくともさっきの縄化粧は丸見えだったろうし、ゆるんだマフラーの合間に首輪も見えてたはずだけど、秀才っぽいルックスのその子は、ごくごく自然にチロという存在を受け入れているようだった。

 なんだかシュールだ。ただ、それ以上にアタシはその時、別の理由でクラクラしていた。急にチロが、現実的な女性として目の前に現れたような気がしたから。現実的な、普通に理解もできて、話もできそうな人間に。少なくとも、そんな期待が抱けそうな。そう、有り体に言えば、チロをちょっと尊敬する気分になっていたのだ。この人、もしかしてアタシよりずっと世慣れてて大人だったりする?

 話の合間にチロがちらりとアタシを見る。それは、いいところを見せてしまった人特有の、決まり悪そうな表情にも見えたけれど。

 どこか、ひどく不満げな空気を抱えているようにも見えた。



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