Strolling with Chiro 2


 自分の父親が、世間的にとんでもない立場の人だということを知ったのは、中一の時だったろうか。何か映像関係の仕事だとは聞いていたけれど、小学生の頃は深く尋ねないままでいた。ただ、やたらとケバいお姉ちゃんとかカメラマンとかメイクさんが、結構普通に家にやってきては(当時アタシたちは阪神間で暮らしていた)ワイワイ騒いでいたので、お芝居とか映画とか、そういう業界の周辺にいるんだろうとは思っていた。

 今から思えば、子供が見ちゃいけないものも日常的に見てたような気もするけれど、それがAV業界のあれやこれだとは知るべくもない。もっとも、そういうを早くから知り、そういう常識の空気に触れたせいで、免疫は早々についてしまい、オヤジの撮っているものがAVなんだと知っても、それほどショックはなかった。ああやっぱりね、という気持ちのほうが強かっただろうか。

 まがりなりにも監督の娘だからなのか、アタシ自身が素材的に今一つだったせいなのか、アタシをAVの現場に引っ張り込もうという動きはなかった。親しくなった元風俗嬢は、高校時代ですでに両手に余るほどいたものの、ほどよい距離の話し相手でいるだけでみんな満足してくれて、それ以上を求められたりはしなかった。だから、アタシはSMそのものには未だに素人のままだし、全部耳学問だ(兄の昌寛は〝ひととおり〟経験したらしく、堅気の職に就いた後も、たまにヘルプで現場入りすることがあるとのこと)。

 まあそう言う意味では、アタシはこの世界とうまく付き合ってきた。素性を暴かれてネットやなんやのイケニエにされるという憂き目にも遭わずに済んでるし、常人の知らない世界を特等席で見物してるようなもんだった。

 でもそんなことでいいのかな、と思い始めたのは、大学に上がってからだ。深く考えずに法学部に入り、ゼミやレポート書きが本格的に面白くなってきたある時、ゼミでMeToo運動がテーマになって女性への性暴力問題を考えることになり、それまでの色んな感覚がひっくり返される経験をした。

 結論から言えば、アタシはそっちの方向に深入りすることはなかった。なんとなく、自分は語ることができない立場にいるんではないかと思ったのだ。あけすけな言い方をすれば、アタシと兄は女の子たちのハダカのおかげで何不自由ない生活を送り、大学まで行かせてもらってるのだ。いわば、搾取する側であって、でも改めて自らの罪深さを悔い改める、というのは何かが違う気がして、まあレポートは書いたんだけど、こんな経緯で単位をもらうことすら間違ってるんじゃないかと思いだしたら、そこから一歩も動けなくなってしまった。

 ゼミの友達の中には、絵に描いたようなフェミニストの闘士になった子もいて(以来彼女はフェミちゃんと呼ばれている)、そのつながりで「AVビデオ出演強要問題を考える会」みたいなのに引っ張り込まれたこともある。成り行きでデモ行進までやっちゃったけど、知ってる人が見たらほとんど爆笑コントのワンシーンでしかなかっただろう。アタシはちょうどその頃、オヤジのプロダクションでちょいちょい事務のアルバイトをやっており、出演希望の女性に案内メールを出したり面談したりとかの仕事までやってたんである。

 オヤジがごくノーマルなAV監督だったら、話は結構単純だったかも知れない。でも、雪丘輝一はキング・オブ・マニアであって、集まってくる出演者もビデオを買うお客も、基本は「そっちの人」だ。望んでもいなかったことを無理やりカメラの前で演技させられて――なんてトラブルとは微妙に違う世界で(そんなことをしても全然「いい絵」にならなくて客の不興を買うだけだ、とオヤジは言った)、アタシとしても、楽しそうに新作の浣腸シーンを語り合っているスタッフたち(女優及び女性スタッフを含む)なんかと日々過ごしていると、フェミちゃんたちの議論は、何か決定的なところですれ違っているようでならなかった。

 大学を出てもう五年。実家筋の家の相続の関係で丹波に住まいを移し、今のアタシは一応この地でノーマルな仕事を得てノーマルに生活しているけれども、家族ともども、依然として女の子の体でお金儲けを企む側の人間でいる。

 時々、考え込む。アタシは間違ってるんだろうか? 女体調教は性暴力でしかないんだろうか? 拘束プレイは非人道的な洗脳行為だと声を上げるべきだったんだろうか? 今からでも、フェミちゃんに協力してもらって、オヤジの周りの人全員に〝醜業〟から足を洗うよう説得すべきなんだろうか?

 それとも――


 そう言えばフェミちゃん元気かな〜とぼんやり考えごとをしていて、ふと気づいた。なんでこんなに暇なんだ、アタシ。ああそうか。渋滞してるからだ。お天気がよくて、いくらかポカポカしてきたから、家族連れとかが出かける気分になって一斉にクルマを出したんだろう。

 まあ多少の足止めは想定内だけどね、とちらりとルームミラーを見て、アタシは眉をひそめた。

 チロはおとなしく後部シートに収まっている。けど……なんだかちょっと、落ち着きがない。ずっと後ろ手のポーズがつらいからか――だとしたら演技を解除すればいいだけだからほっとけばいい。でも、あんなに太ももを締め付けるような動きって、なんだかまるで……え、まさか?

 がばっと後ろを振り返って、気遣わしげな視線をチロに向ける。途端に、ビタッとチロの動きが止まった。あれ、外したのかな、と思ったら、やたら大儀そうに肩で息をついて、マスク越しの荒い鼻息を何度か。それも不規則に。

 アタシが振り向いたことで、却って尿意が高まったらしい。微かに「んっ」と息を詰めて、弱々しく頭を振りながらバタバタっと小さく足踏みをする。あ、なんかこれってオヤジが喜びそうな反応……じゃなくて。

 んな寒い格好してるからだ、と糾弾したいのはやまやまながら、とりあえず目の前の事態が事態だ。

 事故った時に裸コートじゃ具合が悪いんで、母は一応ニットの衣類が詰まったカバンを差し入れていた。って言うか、多分これ、本人が用意したもんだろう。そういうところは、プロ(?)だけに抜かりはない。

 あれ? ってことは、ここでこういう事態になるってことぐらい、充分計算の範囲だったはずなんだけど。もしかしてこれも全部シナリオ通りだったりする?

 演技にのせられるのは癪だ。あるいはここで、心配したアタシから色々赤ちゃんみたいにお世話してもらうことになったらいいなと思っているのか(そういう趣味のMもいる)。

 冗談じゃない、と、つい強い視線をチロに送る。なんとなく心が通じたのか、可哀想なペットは、なんだかヘビに睨まれたカエルみたいな表情。誤解です、と言いたいのか、理不尽な目に遭っているお嬢様を演じているのか。

 ふう、と息を吐いて、落ち着けと自分に言い聞かせる。この娘が何を目論んでいたにしろ、催しているのは事実だ。いずれ対処は迫られるだろう。

 ならば、今なすべきことは?

 一本道の渋滞はなかなか解消しそうになかった。むしろ、だんだんひどくなってるような。道路は片側がヤブ、片側が低い土手になっていて、その下は田んぼになっている。トイレどころか、民家一軒見当たらない。そんな田舎道が、五百メートル先までみっしり自動車で詰まっていて、あと十分ぐらいは動きそうにもない。誰か事故ったりしたんだろうか? これはもう、決断するしかない。

「あー、もう、しょうがないなー」

 声に出してから、アタシはウィンカーを出して、なるたけ車を左に寄せた。対向車はゼロに近かったんで、もし車列が動き出したらみんな追い越していってくれればいい。

 運転席から出て、車体を半周して、後部ドアを開ける。何をするの、という顔のチロに、首から毛布を巻きつけ直して、引っ張り出す。

 そう体格の変わらない女の子だ。お姫様抱っこに持っていくのは相当骨が折れたけど、肩に乗っける形だと膀胱を圧迫する。むろん、本人が自分の足で歩いてくれるのなら、それに越したことはない。でも、見たところ相当際どい状況らしいし、会話が成り立つかどうか分からない。第一、こんなことでいちいちベリベリ口のテープなんて剥がしてられない。アタシには理解できないけれど、そういう拘束解除にすら抵抗を見せるかも知れない。

 よたつきながら歩道を歩く。周囲の自動車から、好奇の視線が刺さってくるのが痛い。アタシはそこから数台分前に歩き、土手のたもとに出、そこから下の田んぼに向かって下りているスロープへ足を踏み入れた。

 田んぼの位置まで下りると、土手の高さは目隠しにちょうどよかった。誰も上から覗き込んでいないのを確認して、アタシはチロを下ろし、毛布を外して、田んぼの縁にある側溝を顎で指した。

 チロが、太ももをもじつかせながら、え、という目をした。

 アタシはもう一回、溝を指した。いくらなんでも、話は通じてるはずだ。あるいは、一部始終を目の前で見届けてほしいと思ってるのか(そういうMもいる)。まあ、その手の性癖の映像も散々見てきたし、どうしてもと頼むのなら聞いてやらないでもないけれど、それでこの子の思い通りというのなら、やっぱり癪だ。

 あたしはごく普通の常識人として、毛布を手にして、礼儀正しくその場を離れ、チロの方は顧みなかった。だから、その後で彼女がどんな表情をしていたのかは分からない。って言うか、義理は果たしたのだ。これ以上はもう知るか。

 ――土手の上で待っていたのは、二分だったか、三分だったか。チロが上がってきたのを目の隅に見、コートの前ボタンとマフラーの巻き付け具合を確認して、アタシは愛車へと足を戻した。静まり返った印象の自動車の群れは、やはり常識人としてスルーするのが適切と考えたドライバー達の態度の反映だったのか。車内では多分あけすけな会話が飛び交っていたんだろうけど。

 極力しれっとした顔で、アタシ達は堂々と車に滑り込んだ。車列の位置に変化はない。

 ふと気がついて、アタシはもう少しでチロに大声で尋ねるところだった。ねえ、ティッシュ持ってた? そう訊きたかったけれど、ノーと返事されたらどう反応すればいいのか。股縄をしたままでもおしっこは出来ると聞いたことはある。でも縄にいくらかは染みるし、縄ごと外していたにしては手に何も持っていなかったし、下着もはいてないってことはコート越しに……とあれこれ妄想してると、急に車列が動き出した。チロは、もう今は両手を膝の上に置いたまま、普通に行儀よく座った姿勢で軽く目をつむっている。

 ま、いいか、と強引に頭を切り替える。

 少しだけ楽観したい気分になった。もしかしたら、と。

 もしかしたら、チロは合わせる気になってくれたのかな? アタシの望むノーマルな行動規範に。これ以上気を遣わせたら悪いと思って、この場は常識人に戻ってあげるって言ってくれてんのかな?

 とは言え、油断は禁物だ。マゾという人種はどんなことでもやる。自分の快楽のためならば。

 徹底的に堅物になったつもりでなおも気を張り詰めていると、なぜだか急に邪念が脳裏に湧き出してくる。

 せっかく催してたんだから、もっとオモロイ命令とかしてやってたら、案外この子ノッてきたんだろうか?

 うん、それはそれで――とさらに空想しかけて、慌てて想念を蹴散らす。なぜだ。なぜこんなことを考えてしまうのか。

 そうやって心の中でボケツッコミをやっているうちに、アタシは突然思い至った。自分がなぜこうも、このペットを遠巻きにしてしまっているのか、その理由に。


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