フェアリー・カービング

鐘古こよみ

妖精工房


 木彫りの妖精を生業なりわいとして十数年が経つ。

 他人の目には趣味の延長線上にある気楽な商売と映るようだが、これでなかなか下拵したごしらえの多い難儀な仕事である。むしろその下拵えこそが本業であると、誤解する向きも多い。


「妖精を捕まえて、幸運をもたらしてくださるのだとか……」

 アトリエを訪れた客は半信半疑の表情だった。ラベンダー色の細いスーツに身を包んだ上品な女性だ。ダークブラウンの髪を巻貝風に結い上げ、顔の両脇に涙の形をした真珠のイヤリングを揺らしている。真珠よりもなお白い耳たぶが、蛍光灯の光を弾く。

「少し誤解があるようです。結果だけを云々するなら、まあ、そうとも言えますが」

 僕はカービング用のナイフを作業台に置き、腰掛けていた木椅子から立ち上がった。魚屋めいた黒い前掛けの縁が足首を叩き、カールした木屑がくるくると床に散らばる。

「僕が造るのは休憩所です。罠ではなく、妖精の休憩所。憩いの場を提供し、代わりに少しの幸運を頂く。妖精によって持っている幸運が違いますから、お客様の希望する幸運に添った妖精を招く必要があります。妖精が好む休憩所の形は、それぞれに異なります」

 僕は壁際を指し示した。床から天井まで一面に渡された何段もの棚の上に、ずらりと木彫りの容れ物が並んでいる。形や大きさは様々だが、これは全て妖精の休憩所だ。

「一番多いのは花ですが、あちらにあるのは人の手をすぼめた形ですね。形は自然物を模したものでなければなりません。卵の殻、鳥の巣、ペリカンの嘴なんてものもある。一つの休憩所に対して、適合する妖精は一匹だけです。妖精は一度休んだ場所へは二度と現れません。だからあれらは、一度きり使うために造られたもので」

「あのう、わたくしまだ、よくわからないのですが……」

 女性は所在なげに立ち尽くしながら、こわごわ、といった様子で室内を見回した。

「つまりその、妖精というのは、本当にいるのですか?」

「いますとも。掃いて捨てるほど」

 僕は作業用の革手袋を外し、深く頷いた。

「ただし見えるのは、休憩中の妖精だけです。妖精たちは決まった条件の場所でしか休めません。たとえば人の睫毛の上とか、空から舞い降りる途中の雪の上とか……それ以外の場所で翅を止めると、泡のように消えてしまうのです」

「泡のように……」

 女性の表情が揺れ動くのを見て、僕は水を向けた。

「どのような幸運をお望みで?」

 一瞬迷うような素振りを見せたものの、彼女はすぐ、瞳に決意を込めた。

「ある人物を消してほしいのです。泡のように」


     *


 妖精とは不思議なものだ。ある日突然、その存在を知る。数秒前までは影も形も知らなかったのに、知ったが最後、すんなりと世界の一部に組み込まれてしまう。もっとも、大抵の知識や教養というやつは、そんなものなのかもしれないが。


「それで君は、依頼を受けたのかね」

 本の合間から湯気が立つ。積み上げられた本の塔、隙間なく並べられた本の城壁。その隙間にあたかも一枚の挿絵のごとく、優雅に紅茶を飲む本たちの君主が鎮座している。

 日系ドイツ人を祖父に持つという銀髪のこの男を、僕は単にドクと呼んでいた。本業の傍ら、妖精の生態を研究している学者だ。本人が趣味とする妖精研究に縁あって携わり、僕は数年前に彼と知り合ったのだが、本業が何かは今でも知らない。

「夫を消す役目を請け負ったのかね。いつから暗殺業者になったんだ」

「僕が消すわけじゃない。万一、そんな幸運をもたらす妖精がいたとして」

 僕は途中で押し黙った。そんな妖精が見つかったとして、果たして依頼を受けるべきかどうかは、まだわからずにいる。

「因果屋に尋ねるつもりか」

 ドクの質問に答えなかったのは、その態度こそが答えになるからだ。ドクは因果屋をあまりよく思っていない。自分で決断すべき事柄をしばしば因果律に頼る僕の精神を、軟弱だと呆れているのだろう。

 彼は軽く溜め息をつき、いつの間にか湯気の消えたティーカップを、削り出したばかりのパイン材のような白い指先でつまんで、こちらへ差し出した。

「とりあえず、紅茶をもう一杯」

 紅茶の所望はこの場合、僕への協力が一応は約束されたということを意味している。そんな文言が契約書か何かに取り交わされているわけではないが、慣習的にそうなのだ。僕は頷いてカップを受け取り、入れ違いのようにドクが立ち上がった。

 壁面を埋め尽くす本棚の一角に立ち、無数に並ぶ背表紙の中から迷うことなく、一冊を取り出す。それは緑の革で装丁された分厚い大判の本で、この部屋に保管されている多くの書物がそうであるように、羊皮紙と植物性のインクからなる彼のお手製だった。

「妖精とは厄介な生き物でね。パソコンや工業製品のボールペン、それに紙では、彼らの情報の一片たりとも記録できない」

 まだ出会って間もない頃、手の込んだ作業に驚く僕に向かって、ドクはそう説明した。

「記録してみたところで、その内容は書いたそばから事実と異なっていく。なるたけ自然に近いものを用いて、気の遠くなるような努力をしなければ、捕まえられないのだよ」

 そんなことに熱中しているから、いかにも女性にもてそうな容貌なのに、まだ独り身なのだ。僕は自分を棚に上げて、余計なことを大いに納得したものだった。

 ドクが緑革の装丁本を、机に積まれた本の上で開いた。

「人を消す幸運……あった。うわばみの顎だ。せいぜい恐ろしげに造れよ」


 僕はその翌日からさっそく作業に取りかかった。朝まで待ったのは、そうする必要があったからだ。妖精の休憩所を彫るナイフは、朝露に濡れたクローバーの葉で拭かなくてはならない。どうしてもクローバーが見つからなければ代わりの方法もあるが、そちらの方が厄介で暗い作業になるから、僕は本式の方を好む。

 それに夜のうちは、うわばみについて調べるのに時間を費やしていた。姿や形だけではない。世界中に残る逸話、伝説、ことわざなど、全てのことについてだ。うわばみが出て来る有名な童話にも目を通した。自分の中にうわばみをすっかり呑み込む必要があった。僕が今から造るのは単なる巨大な蛇の顎でなく、うわばみの顎でなくてはならない。

 あらかじめ厳選して取り寄せておいた木片から、さらに厳選して素材を見つける。クローバーの朝露でナイフの刃を磨き終える頃には、頭の中に造るべきものの像がはっきりと見えていた。こうなったら後は一心不乱に彫るだけだ。くるくると可憐にカールする木屑を、カエデの実か小鳥の羽のように周囲に撒き散らして。

 とはいえこれは禅僧の修業ではないから、一心不乱のうちにも何事かは脳裏に浮かんでいる。たとえば依頼人の耳に輝いていた涙形の真珠の色や、行ったこともない北の大地のラベンダー畑、ドクの部屋から帰る途中に寄った因果屋との問答など。


「まあ、いいんじゃないかね」

 人目につかない路地裏の一角で、みかん箱を前にじっと背を丸めている男とも女ともつかない老人は、僕の話を聞くなり顔も上げずにそう言った。

「悪い因果でもなさそうだよ。あんたにとっては」

「けど、人が消えるのに……」

「あんたには関係のないことだ。そうだろう?」

 そこで因果屋は初めて顔を上げ、歯の欠けた口元でにやりと笑った。

「あんたが受けなくてもその女はいずれ、もっと違う方法で誰かを消すさ」


 完成したうわばみの顎は、我ながらほれぼれする出来映えだった。

 牙は尖り、鱗の一枚一枚がぬめり、見え隠れする薄い舌が実にいやらしい。かといって単に醜悪なのではなく、醜悪美とでも言うのか、思わず触れて確かめたくなる質感、そして引力に満ちている。僕はうわばみの顎をアトリエの窓辺に置き、月の光に当てた。

 滑らかに削られた木肌が、銀の光になまめかしく蠢いている。次の瞬間、蓮の花が開くような音がした。続いて微かな溜め息、シナモンを思わせる仄かな香り。

 妖精が訪れたのだ。


     *


 依頼人の女性は連絡を取るや、すぐさまやってきた。先日と寸分違わない恰好をしている。髪の襟足とブラウスの胸元だけが若干、乱れている。

「妖精が捕まったとか……」

 どうやらまだ、罠と勘違いしている。けれども僕は、余計な訂正を差し挟まなかった。

「ええ。本人はもう帰りましたがね。幸運を置いて行きましたよ」

 言いながらうわばみの顎を差し出すと、女性は僅かに身を引いた。

「なんです?」

「中を見てください。あなたの望んだ幸運です」

 うわばみの顎は、左右に大きく開いた杯の形をしている。底の方に、きらきら輝く銀の砂粒のようなものが溜まっていた。二枚に裂けたいやらしい舌の、付け根の辺りだ。

 それは陽光を反射する水面のようにも、ゆっくりと流れる水銀のようにも見えた。ただし水銀よりはずっと軽やかだし、水よりはずっと重く、粒状の形がある。

 不安げな眼差しで覗き込んだ女性は、その輝きにしばし陶然と見入った。

 やがて、これまで僕のアトリエを訪れた他の客人たちと同じように、全て悟ったかのような声を出した。

「これを飲むのですね」

 僕が何か言うより先に、彼女はうわばみの杯を受け取っていた。

 鋭く並んだ牙の間に唇をつけ、白い喉を仰け反らせて、妖精の幸運を飲み干していく。

 乱れたブラウスの胸元から、ちらりと青黒い、痣のようなものが見えた。

「ああ」

 杯を降ろした彼女は溜め息をついた。昨晩の妖精のものとよく似ていた。

「なんて、あまい」

 そう呟いた直後、彼女は蓮の花が開くような音と共に、忽然と姿を消した。

 涙形の真珠が一粒、仄かなシナモンの香りを漂わせて、床に転がっていた。


     *


 妖精に形を与える。僕の本業は、そういうことだ。

 妖精の幸運は次の妖精を生む。妖精の幸運を飲み干した人は、必ず何か、自分の一部をアトリエに残していく。髪留めであったり、キーホルダーであったり、イヤリングであったり。何も手を加えなければ、それらは一晩経つ頃には、跡形もなく消え去っている。

 妖精として生まれ変わるのだ。

 生まれたばかりの妖精は、まだ形を持っていないし、上手に飛ぶこともできない。けれども自分の形というものに憧れて、自分の容れ物を探している。うまく容れ物を見つけることのできなかった妖精は、次の朝には死んでしまう。だから僕は形を与える。

 妖精研究者が夢中になって追い求めるような、それ以外の人間にも美しい夢や希望を与えるような、存在を認められ求められるような、なるたけ綺麗で望ましい姿を。

 彼女のために用意したのは、うわばみの顎から生える一輪の花だった。

 そしてその花弁の中から伸び上がるようにして生まれる、清らかな妖精の体だった。

 花はうわばみの顎から逃れるのみならず、その栄養を吸い取って、美しく咲いたかのように見える。妖精は花の美しさを凝縮し、その化身として立ち現れたばかりのように。うわばみの醜悪さが花に浄化され、可憐な少女へと変貌を遂げたかのように。

 僕は最後の仕上げとして、涙形の真珠を少女の掌に置いた。

 真珠はみるみるうちに溶け、その色を木彫りの妖精の指先に移したかと思うと、たちまち広がりを見せて彼女の肌を全て覆う。透けるほど薄い背中の翅も包んでいく。

 妖精は身震いをし、アトリエの窓から差し込む朝日のシャワーを浴びた。

 瞼を開き、ラベンダー色の瞳を見せるとにっこり笑い――研究者の中には、妖精は微笑まないと主張する者もいるけれど――翅を震わせて飛び立った。

 窓を開ける必要はない。妖精は空気の隙間を縫い、水よりも細かくどこへでも流れることができるから。普段の姿は風なのだと言う研究者もいる。ドクは別の次元に存在している、との説を取っているけれど、どちらにしても、見えないことに変わりはない。

 彼女は別の世界へ飛び立ち、自分の前から夫を消したのだ。


「不幸な犯罪者を一人減らしたわけだな、君は」

 事の顛末を話すと、ドクは短くそう言った。読書に熱中して僕の話なんか聞いていないかと思いきや、一応は耳を傾けていてくれたらしい。

「本当に良かったのか、わからないよ。結局は彼女自身を殺したようなものだし……」

「ふん、そんなものは誰にもわからないさ。ただ、因果屋の物言いを鑑みるに、彼女は君が依頼を受けなければ恐らく、自らの手で夫を殺していただろう。それか自殺だ」

 きっとそうだろう。僕にもそれはわかっていたけれど、罪悪感からそう思い込んでいる気もしていた。だからドクに言われて、気持ちが少し楽になった。

「それより」

 音を立てて本を閉じ、ドクは眼鏡の奥から緑がかった銀色の目で僕を見る。

「問題は、君がまたもや、私をないがしろにしたということだ」

 僕は思わず首をすくめる。そう来ると思っていたのだ。ドクはいつでも妖精の誕生を見たがる。研究者として当然の態度だし、僕もできれば協力したいのだけれど。

「妖精が生まれるのはカービングを終えた直後なんだ。僕は仕事上がりで興奮状態だし、早く形を与えなければ妖精は死んでしまう。君を呼び出す頭なんてないよ。仕事中は誰かにいてほしくないし、アトリエの外で夜通し待てと言うのも……」

「それでも構わないがね、私は。とにかく次は、連絡を寄越すことだ」

 遮るように言い、珍しく露骨な不機嫌顔をして、彼は空のティーカップを突き出した。

「せめてもの罪滅ぼしに、美味しい紅茶を淹れたまえ」

 はいはい、と腰を上げ、僕は作業に取りかかる。理不尽だのとなんだのと、彼には訴えるだけ無駄なのだ。それに僕は、紅茶を淹れるという行為がそれほど嫌ではない。

 湯気の立つカップを渡すと、英字新聞を眺めていたドクは、不意に顔をしかめた。

「なんだ、これは。シナモンを入れ過ぎだぞ。こんなに香りは必要ない」

「シナモン?」

 そんなもの入れていない。反論しようとする僕の鼻先を、天女の羽衣めいた柔らかな何かが行き過ぎた。次いで仄かなシナモンの香り。

 真珠色のきらめきが睫毛の先で、微かに笑った気がした。



〈了〉

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フェアリー・カービング 鐘古こよみ @kanekoyomi

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