マラケシュの猫

鐘古こよみ

「炎・かけら・偏愛」×「モロッコ・異世界召喚・ケモノ耳」


 黒い尻尾を追いかけて日干し煉瓦の角を曲がり、ラナは褐色の目を見開いた。

「え?」

 髪を隠したヒジャブの縁を、胸の前で思わず握り締める。


 乾いた風が、脚にまとわりつくジュラバの裾を煽った。歩みはいつの間にか止まっている。角を曲がれば路地裏の細い道が現れると思っていたのに、目の前に広がった光景は、見覚えのない賑やかな市場スークだったのだ。


(おかしいわね。この辺りに市場なんてないはずなのに……)


 今まで知らなかっただけで、ジャマ・エル・フナ広場への近道があったのか。

 一瞬そんな考えが浮かんだのは、行き交う人々が変わった格好をしているからだった。獣の着ぐるみを着たり、三角形の耳や長い尻尾をつけていたり、芸人としか思えない風体をしている。


 マラケシュの街で、いや、モロッコ全体を見渡したって、そんな芸人たちが視界いっぱいに集まっている場所など、観光地として有名なフナ広場しか思いつかない。

 だが、フナ広場にしては変だった。見当たるのは芸人ばかりで、肝心の観光客の姿がないのだ。それに、同じような芸風の者がこんなにいるのもおかしい。


 一度家に戻ろう。そう思って踵を返したラナは、鋭く息を吸い込み、ヒュッと喉を鳴らした。来たはずの道がなくなり、代わりに薔薇色の漆喰壁が聳えていたのだ。


「どうなってるの?」

 ますます目を大きくして、ラナは素早く左右を見回した。


 よく見ればそこは、フナ広場とは似ても似つかなかった。

 まず狭い。薔薇色の背の高い建物が左右にずっと連なっていて、その合間の通路の壁にへばりつくように、多くの露店が並んでいる。


 フナ広場でよく目にする緑のパラソルはどこにもなく、薄汚れた帆布や色褪せたジュラバを開いたものなどが屋根代わりに使われている。並ぶ商品もフナ広場ほど色鮮やかで豊富ではなく、果実やスパイスらしきものは色味が悪く品数が少ないし、辺りは妙に生臭い。


 近くに魚の骨やアラばかり売っている屋台を見つけ、ラナは慌ててその場を離れた。奇妙な風体の人々が品物を覗きながらそぞろ歩くのに合わせて、仕方なく流れに乗る。なんとなくヒジャブで顔を隠し、こっそり彼らの様子を観察しているうちに、ラナはあることに気付いた。


 獣の耳や尻尾を身に着け、時には頭部全体を着ぐるみで覆っている彼らだが、モチーフになっている獣は全てが猫だ。全員例外なく、毛色や毛並みにそれぞれ個性があるものの、とにかく猫の形を真似しているのだ。

 猫といえば、ラナの脳裏に浮かぶ姿は一つだった。


「……アルファン」

 馴染みの黒猫の名を呟き、人々の足元に注意深く目をやる。

「どこ行っちゃったの……?」


 飼っているわけではない。ひどい傷を負っているのを見つけ、傷口を洗ったり薬を塗ってやったりしたのをきっかけに、なんとなく顔見知りになった程度の関係だ。


 人懐こい猫ではないし、艶やかな黒の毛皮を触らせてくれることも全くなかったけれど、どうやらラナの部屋の窓辺にできる日溜まりが、彼の昼寝にはちょうど良かったらしい。ラナが刺繍や籠編みをしていると部屋にひょっこり現れ、寛いでいくことが増えた。最近では、友達と言えるくらいになれたと思っていたのに。

 その関係がこじれてしまったのは、数週間ほど前のことで――


(あれ以来、姿を見せないんだもの。さっき見かけたときは、ホッとしたのに)


 じわりと涙が目元に浮かんだ。

 わけのわからない今の状況と、姿を見せないアルファンを心配する気持ちが重なって、どうしようもなく不安が膨れる。


 あの黒い尻尾は、確かにアルファンだった。だから思わず後を追いかけ、曲がったことのない建物の角を曲がったのだ。それがまさか、こんな結果を呼ぶなんて。

 行けども行けども、奇妙な市場スークは景色を変えない。


「アルファン……どこ?」


 ぐす、と鼻を鳴らし、目元を拭ってラナは、黒猫の姿を追い求めた。

 現実で追いかけていたあの子を見つければ、この悪夢も醒めるのではないか。

 そう思えてきて、とにかくアルファンの姿を見つけようと、名を叫んだ。


「アルファン!」


 脇から突然、むんずと腕を掴まれた。


「きゃあ!」


 悲鳴を上げて振り向くと、すぐ背後に巨大な猫が立っていた。


 目を疑うが、そうとしか考えようがない。縞の入った薄茶の毛皮が、目や口元の動きに合わせて滑らかに動いている。頬にはピンと張った乳白色のヒゲがある。


「これはこれは、人間臭いお嬢さんだにゃああ」


 男性用のジュラバを纏ったそれは、間近からラナを見下ろして、生臭い息を吹きかけてきた。緑の眼球がギラギラと獣じみた光を放ち、黒い瞳孔が一瞬膨らむ。

 ぞっとして、ラナは腕を振り払おうとしたが、やけに力が強くて敵わない。


「放して! 人を呼ぶわよ!」

「うふふ、呼べばいいさァ。ここにヒトなんてもの、いると思ってるのかにゃん」


 どういう意味かと質すより先に、いつの間にか囲まれていることに気付いた。二足歩行の巨大な猫が四体、人の流れからラナを押し出すようにして、巧みに壁際に追い詰めてくる。助けを呼ぶ間もなく、分厚い肉球が呼吸を遮断した。


「へっへ、今日はついてるなァ。軟らかな若い女のヒト鍋にありつけるぜ」


 息が苦しい。毛皮に爪を立てながら不穏な言葉を聞き、気を失いかけた時だ。


 ギャアアッ!

 頭上で複数の濁った悲鳴が響いた。突然、胸いっぱいに空気が入り込む。

 錆臭さと焦げ臭さが鼻の奥を衝き、反射的にひどくむせる。


 よろめいたラナの体を、誰かの腕が受け止めた。

 目を開けると、薄曇りの空を背景に、知らない青年の顔があった。

 黒髪の合間から大きな琥珀色の目が、心配そうにこちらを覗き込む。

 どきりとした次の瞬間、自分の足で立たされ、腕を強く引っ張られていた。


「走れ!」

 鋭く命じられ、弾かれたように走り出す。


 何があったのか、巨大な猫たちは炎に巻かれ、恐ろしい絶叫を上げて地面に転がっていた。その間を駆け抜ける時、一人の背中に大きな引っ掻き傷が見えた。赤い血が噴き出す生々しい傷口は、着ぐるみでは絶対にあり得ない。


(化け猫……!)

 恐怖に駆られて足を速め、ラナは前を行く青年の後ろ姿を見た。そこで気付いた。

 彼の黒髪の間からも、黒い三角形の耳が生えている。それに、暗色のジュラバの裾がひらめくたびに覗いているのは、黒い尻尾ではないか。


 ぎょっとしたものの、さっき感じたような恐怖はなかった。あの化け猫達に比べると、この青年はずっと人間ぽく見える。浅黒い肌は滑らかで、毛むくじゃらでもない。黒と琥珀の組み合わせは、ラナに猫の友人を思い出させるものだ。


 ――アルファン?


 ちらりと浮かんだ思い付きは、あまりに馬鹿馬鹿しいものだった。

(あの子はただの猫よ。そんなわけがない)


 そもそも、こんな状況が現実とは思えない。ラナはきっと部屋で転寝うたたねをしていて、悪い夢を見ているのだろう。そうでなくては困る。


 気付けば周囲は薄暗く、道は狭くなっていた。人影のあまりない路地裏に入ったのだ。青年は走るのをやめ、ラナの腕を引いたまま、無言でずんずん足を進める。


「あの、助けてくれてありがとうございます。私、この辺りで……」

 恐る恐る声を掛けてみるが、返事はない。

「あの……!」


 少し怖くなって声を大きくすると、青年が振り向いた。

 ラナをまじまじと見て、ハッとしたように腕から手を離す。

 何か言いかけたように見えたが、彼はすぐに唇を引き結び、肉付きの薄い顎を軽く振って、自分の前方を示した。

 視線を向けると、モザイクガラスの吊りランプに照らされる、緑の木扉が見えた。


 両脇の大きな建物に今にも押し潰されそうな、古ぼけた日干し煉瓦の家だ。扉の表面やその周囲の壁に、キラキラしたものがいくつも輝いている。

 近付いてみると、それは丹念に磨かれた色とりどりのガラス片や、繊細なマーブル模様が浮き出た貝殻の破片や、絵付けされた陶器の一部など、様々な材質でできた何かのかけら達だった。


 普通なら捨てられてもおかしくない破損物が、恐らくは職人の手によって丁寧に磨き直され、木扉に貼られたり、壁に埋め込まれたりして、小さな家の玄関を飾っているのだ。夜に輝く猫の目のように。


「わあ、きれい……!」

 思わぬ光景に心を奪われているラナの手を、青年はそっと掴み直した。

 それから扉を開けて、家の中へと足を踏み入れた。


 少し迷ったが、ラナは、手を引かれるまま彼の後に続くことにした。

 きっと夢だし、それに、この美しい扉の中を見てみたい。


 一歩足を踏み入れると、そこは工房であることがわかった。加工前のガラス瓶や陶器や貝が床に積み上げられ、低い天井まで伸びている。もちろん、どれもが破損した状態だ。ガラクタにしか見えない品々に囲まれて、小柄な男が木製の椅子に腰掛け、黙々と何かの作業をしていた。


 他に人の気配はないから、彼が工房主なのだろう。こちらに視線をくれたが、分厚い作業用の眼鏡に阻まれて顔の上半分は見えない。頭頂部に乗せた丸い帽子の下には、灰色の折れ耳が覗いている。


「……もう来たのか。注文の品ならじきにできる。ちょっと待ってろ」

 その言葉はラナではなく、青年に向けられていた。


「先に扉を貸してくれ」

 青年はそう断ると、ラナの手を引いて工房の奥へ向かおうとした。


「待って、どこへ行くんですか? 困ります、私……」

 知らない工房の奥へ黙ってついて行くのは、いくら夢の中でも危険過ぎる。

 慌てたラナが身を引くと、ふいに工房主がくつくつと笑い声を立てた。


「心配しなさんな、お嬢さん。そいつはヒトを偏愛してんのさ。あんたに悪さなんかしないよ」


 驚いて視線を向けると、工房主はヒゲを震わせてニヤリと笑った。


「ヒトを喰う奴はな、ヒトの形に拒否されるから、すぐわかる。そいつを見なよ。そろそろ完全なヒトに化けそうじゃあないか」

「喋り過ぎだ猫目屋」

 青年が喉元で低く唸って、急かすようにラナの手を引いた。


 不意を突かれて足が進んでしまう。工房の奥には布で仕切られた出入り口があり、その先には短い廊下が続いていた。突き当たりに色ガラスの嵌め込まれた緑の木扉がある。


 ちょうど太陽の光が射し込む時間帯らしく、ガラスを透過した光彩が床や壁を様々な色合いに染め上げ、その狭い空間は幻想的な雰囲気に満ちていた。

 思わず感嘆の声を漏らし、扉の前まで進んでしまってから、ラナは我に返った。


 さっき青年は工房主に、扉を貸してくれと頼んでいた。この扉を通って、さらにどこかへ行くつもりなのだろう。でも、これ以上は困る。元来た道へ戻るにはどうしたらいいか、本当にわからなくなってしまう。夢だとしてもやっぱり困る。


「待ってください。私、実は猫を探していて!」


 そんな言い訳が口をついた。青年はラナの背を押して自分の前に立たせ、把手を掴んで扉を開けようとしていた。振り返って見上げると、間近で目が合った。


「大事な友達が、さっきの辺りにいるの。私、戻りたい……!」

 すると青年は困ったような、居心地の悪そうな顔をして、口の中で何か呟いた。


「必要ない。そいつもじき、自分で戻るから」

「え?」

「早く行け。……帰せなくなる」


 扉を開ける音と共に、太陽光がより明るく周囲に降り注いだ。

 青年の琥珀色の目が、溢れる光で透明感を増し、眩し気に細められる。

 あの扉の飾りを思い出してつい見惚れると、その目がふいに近付き、唇の端に柔らかな感触がした。

 息を呑むのと同時に、肩を押される。

 踏み止まる間もなく、体が完全に扉の外へ出た。その瞬間、


「――え?」


 ラナは絶句して、その場に立ち尽くした。

 目の前には見慣れた我が家が、午後の柔らかな陽光を浴びて佇んでいた。


     *


(夢だったのかしら……)

 しばらく表で立ち尽くした後、ラナは恐る恐る玄関扉を開け、階段を上って自分の部屋へ戻った。


 色鮮やかなクッションと絨毯、使い込まれた寄せ木細工の丸テーブル。

 そのどれもがいつも通りだった。


 テーブルの上には茶器セットが置かれている。真鍮製の丸い盆と、曲線が優美なティーポット。周囲に並べられたガラス製の小さなティーグラスは、本来は六つがセットになったものだが、数週間前から一つ欠けて、五つになっていた。


 ラナが寝椅子でうとうとしていたとき、部屋の中へ入ってきたアルファンが、何かの拍子に落として割ってしまったのだ。


 この茶器セットは、大好きな祖母が亡くなる前に譲ってくれた、大切な形見だった。表面に強い虹色が出ているティーグラスが、中でもラナのお気に入りで、割れてしまったのは、そのお気に入りのティーグラスだった。


 あの時、自分が何を口走ったのか、ラナは覚えていない。

 とにかく悲しくて、泣いてしまったことだけが記憶にある。それ以来、アルファンは姿を見せなくなった。もしかしたら、猫にわかるほど心ない、ひどい言葉を投げてしまったのかもしれないと思い至ったのは、事件から数日後のこと。


 あれほど取り乱さなければ良かったと、ラナは後悔していた。ティーグラスが割れたのは悲しいけれど、アルファンにだって悪気はなかったはずなのだから。


 仲直りしたいと思って、外へ出るたびに姿を探した。ちっとも見つけられなかったたけれど、今日ついに、それらしき尻尾を捉えた。急いで追いかけて角を曲がり、そうしたら……それから、どうなったのだっけ?

 考えると混乱する。もう寝てしまおうと、ラナは寝椅子に倒れ込んだ。


 それから、どれくらい経っただろう。

 茶器セットを乗せたテーブルに、誰かが何かを置く気配がした。


「……だれ?」

 微睡んでいたラナは目を擦り、ゆっくりと身を起こす。


 真鍮製のティーポットの周囲を囲むように、ぐるりと置かれたティーグラス。

 一つが欠けたその位置に、虹色に輝く宝石のようなものがあった。


 ぼんやりと手を伸ばしてそれを摘まみ上げ、顔の近くでまじまじと見つめる。

 他のグラスとよく似たガラス製だが、少し虹色が濃い。表面も角も丸く削られ、端に一つ穴が開いていることからして、首飾りにするためのものだろう。


 窓から射し込む陽の光を受け、それは夢のように輝いていた。

 どこかで似たようなものを見た気がする……と考え、急速に目が覚める。

 猫目屋。そう青年が呼んでいた、あの工房だ。

 扉や壁いっぱいに飾られた、猫の目のように美しい飾りたち。


「どうして……」

 とっさに周囲を見回し、ラナはもう一つ驚いた。

 花模様の細工を施した木製の格子越しに、暖かな日差しが降り注いでいる。

 その奥行きのある窓辺で、黒猫が体を丸めて昼寝していたのだ。


「アルファン!」

 思わず叫ぶと、黒猫は片耳を動かした。

 大儀そうに首をもたげ、目を薄く開けて琥珀色を見せる。

 ラナは虹を閉じ込めたようなガラス飾りを胸にギュッと抱き寄せた。

 本当に戻ってきた。あの青年が言っていた通りに。


「お帰りなさい!」

 すぐにクッションを掴んで窓の傍に陣取ると、ラナはアルファンのすぐ隣に両肘をついて、掌に頬を乗せた。


「あのね、私、とっても不思議な夢を見ていたの。聞いてくれる?」

 アルファンは尻尾を揺らして目を閉じると、再び体を丸めた。


 寝てしまうのか。相変わらずそっけない。

 そう思っていたら、聞いているよと言わんばかりに、小さな声で短く鳴いた。



<了>

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マラケシュの猫 鐘古こよみ @kanekoyomi

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