第2話 ユッケ
ドアを開けて外に出た
「あなたはここで、あのサイコ野郎をころす細菌兵器を開発しなさい」
これが2か月前の5月の出来事。今やおりこは博士の雇い主だ。就職先も決まらなかった博士にはうれしいことではある。しかも大学院生時代の専門分野であった細菌学の知識を思う存分発揮できる。研究室の隣にはちょっとした居住スペースも含まれており、衣食住に困ることも今のところない。しかし目的の細菌兵器の開発が難題だ。
「危ない病原体は厳重に管理されているからなぁ…」
細菌を手に入れること自体は簡単だ。細菌や細胞を管理している生物資源バンクATCCに連絡して送ってもらえばいい。ただしこれは大学や公的研究機関など、国の認可を受けた研究機関に限られている。こんなただの一軒家に危険な病原細菌を送ってもらえるわけがない。しかもその病原細菌を使って人を殺そうとしているのならなおさらだ。博士はいろいろと方法を考えた結果、食品や環境中に存在する細菌を利用することにした。今日はその細菌を採取しに来た。
「いらっしゃいませ~」
のれんをくぐって店に入る博士。赤身のタンパク質が焼けるにおいがたまらない。
「1名様ですか?」
「はい」と答えた博士を店員はカウンターに案内する。すでに注文は決まっている。
「ユッケを1ついただけますか?」
「かしこまりました」
店員がユッケを準備しにキッチンへ下がる。博士は1か月間毎日焼き肉屋をめぐり、この焼肉屋に目をつけた。店舗自体は古いのだが、昼時や夕食時にはヒトで溢れかえる。店員は多く、毎日ちがう若者がシフトに入っている。トイレは1つしかなく、客と店員が同じトイレを使っている。生肉メニューを扱っている。極めつけは先週ここで焼き肉を食べにきたときある店員がこんなことを言っていた。
「最近冷蔵庫の調子が悪い」
この店にしよう。そう決めた博士は毎日この店に通った。人がごった返している時間を狙ってトイレに入り、ハンドソープを空にした。店の衛生状況を悪くするためだ。さすがに次の日には補充されていたが、そのハンドソープもまた空にする。怪しまれていただろうがそれも今日でおしまいだ。5日連続で夏日を記録した今週。この店の冷蔵庫はちゃんと肉を低温に保てていただろうか?おそらく無理だろう。そうなると肉に付着している、あの細菌が増殖しているはずだ。腸管出血性大腸菌O157が。
「お待たせしました」
O157が含まれているであろうユッケが運ばれてくる。
「さて。このユッケを持ち帰ってO157を分離するか」
そう思ったひろしだったが、彼は重要なことを忘れていた。
「…どうやって持ち帰ろう」
博士は当初、無色透明のポリ袋に入れて持ち帰る予定だったが、そんなことをすれば当然怪しまれる。当たり前だが、素手で持って帰るのはもっと怪しまれるだろう。持ち帰って食べるというのも無理だ。衛生管理の関係で生肉の持ち帰りが許可されないことは、この1週間で確認している。しかし今日を逃したらしばらくチャンスは来ない。明日からは涼しくなる予報だ。ハンドソープを捨てているのが博士であることも最早店員に気づかれているだろう。博士は迷ったあげく、食べることを決めた。
つまりは自分の腹の中にO156を入れて持ち帰ることにしたのだ。
カチャカチャ。
生肉とウズラの卵をよくまぜる。これを食べれば腹痛は必至。血便も出るだろう。しかし食べるしかない。そうするしかこの病原菌を持ち帰る方法はないのだから。
「あむっ…」
当たり前だが、味は非常においしい。初めて食べたときは、子供のころに生肉を食べさせてくれなかった両親を恨んだくらいだ。このおいしさにはリスクがあったからなんだよね。博士が少し涙目なのは、その親の教えをやぶっている自己嫌悪かどうかは彼にしかわからない。
そんなに量のないユッケを食べ終わり席を立ち、伝票を片手にレジへと向かう。ユッケを食べている間、博士は水も飲まないようにした。もちろん付け合わせも何も頼んでいない。少しでもO157の腸管への定着を助けるて、血便を出す確率を上げるためだ。
「ごちそうさまでした」
会計を済ませた博士は店を出た。客が涙目であるかどうかなんて店員からしたらどうでもいい。きっと店員も気がつかなかったことだろう。気がついていたとしても次の瞬間には他のオーダーを取りに行っているはずだ。昼時に行ってよかった。博士はそんなことを考えながらおりこが作ってくれた研究室兼自宅へと戻った。腹の調子はまだ悪くない。
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