第8話 獲得
おりこが下痢便を採取した翌朝、EMB寒天培地とVi EHEC寒天培地の両方にしっかりとコロニーが形成されていた。Vi EHECに形成されたコロニーは無色透明。間違いなくO157だ。本来の検査ではO157であることを確認するためにベロ毒素と呼ばれる腸管出血性大腸菌特有の毒素算出性を調べなければならないが、昨日、すでに
博士はその後数回腹痛におそわれたが、初回ほどの激痛ではなかった。大部分のO157がすでに下痢とともに排出されたのだろう。ヒトの身体はよくできている。とりあえず雇用主に実験結果を知らせなくてはならない。スマートフォンの通話アプリでおりこの名前を見つけて通話を始める。数回のコール音のうち、声が聞こえてきた。
「とれたの?」
「ああ。早ければ今日の午後には使えるぞ」
「さすがO157ね。今日の午前中に菓子折りを準備してくるから…。そうね、3時ごろにラボで会いましょう」
「わかった」
そんないきなり訪問しても大丈夫なものかと博士は心配に思ったが、いきなりだからこそ相手の不意をつくことができるかもしれない。その辺はおりこに任せるべきだと割り切って自分の仕事を始める。
まずはバイオセーフティーキャビネットの電源をつける。博士はその中にO157が増殖したVi EHEC培地と白金耳、試験管をぽぽいと投げ込んでいく。最後にO157を育てるためのルリアーベルタ二(LB)液体培地をバイオセーフティーキャビネット内に入れたら準備は完了。
LB液体培地を滅菌されたプラスチップピペットを使って2ミリリットル試験管に加える。白金耳を取り出し、Vi EHEC寒天培地上の無色透明コロニーをかきとり、試験管内のLB液体培地内に加える。なぜVi EHEC寒天培地上でO157やO26、O111を鑑別できるかは企業側から明らかにされていない。どうやらこれらの出血性大腸菌のみが持っている酵素反応を利用してコロニーを発色させているようだ。O157は無色だが、O26は青色、O111はえんじ色のコロニーを形成する。
試験管のふたを閉めたらバイオセーフティーキャビネットから試験管を持ってインキュベーターに向かう。中に設置された小型振とう機に試験管を差し込み電源を入れる。振とう速度は130rpmもあればいい。インキュベーターを閉めたらあとは待つだけだ。LB培地には酵素エキスとトリプトンが含まれており栄養満点。細菌研究者なら1度は飲んでみようと思ったことがあるはずだ。ちなみに作者は飲んだことはないので、飲んだ方はレビューに味を記載していってくれるととてもうれしい。
使い終わったバイオセーフティーキャビネットを片付けていると、ラボのドアがノックされた。
「コンニチハ。ゴキゲンイカガデスカ?」
「あぁ。タカオさんか」
ラボの入り口にはタカオ・カイセイが立っていた。わきにはいつも通り大量の紙の束を抱えている。すべて研究機器や実験用品のカタログだということを知ったときは博士も最初は驚いたが、今は当然のようにカタログを受け取り挨拶をする。
「ボチボチですね。タカオさんは元気にしてましたか?」
「モチロンデス!コノ前、別ノラボデ、ピペットマンガコワレテ”This pipet sucks!”トイッテイル学生ガ、イマシタ」
「ボクは、PipetがSuckスルノハ、イイコトデスとオシエテアゲマシタ!ハハハハハ!」
「は。はは。」
タカオが何を言っているのか博士にはまったく理解ができなかった。
タカオは博士のラボに出入りする唯一の仲介人だ。博士の実験に必要な物を企業から購入して運んできてくれる。バイオセーフティーキャビネットやインキュベーター、寒天培地や白金耳もタカオが購入して運んできてくれる。白金耳くらいならアマゾンで購入できるがその他の物はなかなか手に入らない。博士のラボで実験ができるのはこの人のおかげだ。
「ナニカ、必要ナモノハ、アリマスカ?」
「今のところは大丈夫そうです」
「ホシカッタ細菌は、トレマシタカ?」
「ぼちぼちですかね」
博士はタカオに腸管出血性大腸菌を分離するためのVi EHEC寒天培地を注文している。腸管出血性大腸菌感染症は厚生労働省による分類上3類感染症にあたる。つまり全数把握の対象だ。感染者を発見した医師には保健所への報告義務がある。博士は医師ではない。タカオがもしこの事実を知っていたとしたら、博士が腸管出血性大腸菌を鑑別するための培地を購入した目的がまったくわからないだろう。
いや。分かっているのかもしれない。分かったうえで後々おどしの材料に使ってくるのではないか。博士はVi EHEC寒天培地を注文してからというもの、タカオに対してそんな不安を抱いている。とはいえ彼に頼まなくては手に入らない品物も多数あるため無下にするわけにはいかない。それに博士はタカオにとって一応客だ。博士がタカオを通して物品を購入することで彼にも利益がある。そのうちは彼も下手な行動には出ないはず。そんな祈りにも似た思いを抱きながら博士はタカオと接している。
「次はサルモネラ鑑別用ノ培地デモ、オ持チシマショウカ?」
タカオの言葉に博士は一瞬ギクリとしたが、タカオの表情から不穏な気配を感じなかった。そのため、素直にタカオの、サルモネラを使うというアイディアに思考をめぐらせた。サルモネラはキャンピロバクターに次いで発生事例の多い細菌感染症だ。鶏肉から分離するのもおそらく容易だろう。問題は、健常者に引き起こす臨床症状が胃腸炎程度だというところだ。つまり、今回腸管出血性大腸菌で教授を殺せなかった場合は、サルモネラを使っても殺せない可能性が高い。
「・・・今はけっこうです。とりあえずカタログに目を通して、必要なものがあったら連絡しますね」
「承知シマシタ。バイオセーフティーキャビネットノ調子ハイカガデスカ?」
「特にエラー音も出てないし、順調に動いているみたいですよ」
この簡易研究室を建てる際にバイオセーフティーキャビネットを手配してくれたのもタカオだ。
「ナニカアッタラ、スグニ修理スルノデ、教エテクダサイネ」
そう言って帰るタカオを敷地の外まで見送ることにした博士はバイオセーフティーキャビネットのサッシを閉めた。
タカオと外に出るとたちまち皮膚が汗ばんだ。O157を分けてくれた焼き肉屋の冷蔵庫は直っただろうか。他に感染者がいればそろそろニュースになっていてもおかしくないな。そのことは、あとでネットニュースをチェックすることにして、博士は口を開いた。
「その…須藤さんからは何か僕の実験について聞いているのですか?」
「ソウデスネ。須藤家ノタメノ、個人的研究ダト、聞イテイマス。個人的研究デ、アノ研究室を任サレルトハ、博士サンハ、トテモ優秀デスネ」
「そう思ってもらえるとありがたいですね」
加えて、はは。と乾いた笑いを返して、就職先が決まらなかった自分の過去を頭の隅に押し込んだ。ラボが入っている建物から敷地の外まではさほど遠くない。入り口を出て建物の裏手に回れば使用人向けの勝手口があるからだ。タカオは、くるときは正面玄関を使うが、帰りはこの勝手口をつかっている。博士はタカオに勝手口を開けてやり、お礼を言って別れた。
どうやらタカオは博士の研究について詳しくは知らされていないらしい。なぜ病原細菌の分離をしているのか聞かれたら、新たな検出法を開発中だとでも言っておけばいいだろう。1つ胸に引っかかっていたことが解決されて博士はほっとした。おりこが菓子折りを準備して研究室に来るまでまだかなり時間がある。博士は外で少し早い昼食をとることにした。もちろん焼肉以外で。
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