第7話 解説

白衣を脱いで実験室から出たおりこはトイレをノックする。


「全部寒天培地に塗っておいたわよ」


返事はない。一瞬意識不明になっている博士ひろしを想像するが、後ろから声をかけられ不安が安堵に変わった。


「ありがとう。すまなかったな」


居室の方から博士が出てきた。パジャマ姿が私服になっている。腹痛がおさまった博士はおりこの作業を覗いてみた。その作業が想像以上に滞りなく進んでいることを確認した博士は実験よりも身なりを整えることを優先した。雇い主の前でいつまでもパジャマ姿でいるわけにもいかない。


「寒天培地はインキュベーターに入れて置いたけどサンプルはどうするの?」


「一応残しておく。冷蔵庫に入れておけばしばらく大腸菌も大丈夫だろうしな」


補足しておくが、実験室内の冷蔵庫である。実験室の冷蔵庫に食品を入れてはいけない理由が伝わっていると嬉しい。


「そういえば、EMBとVi EHECの両方に画線塗抹するのはどうして?」


「EMBにはO157以外の大腸菌も増殖できるが、Vi EHECには胆汁酸が含まれていて、O157、O26、そしてO111といった食中毒を引き起こす腸管出血性大腸菌しか増えないんだ。しかもこの3つの食中毒を引き起こす大腸菌をコロニーの色で鑑別できる」


「じゃあVi EHECだけでいいじゃない」


「それだと選択性が強くてO157が増殖しない可能性が出てくる。大腸菌もオレの腸内で他の細菌や免疫機能と戦ってダメージを受けているからな。だから念のため胆汁酸を含まない、つまり選択性の低いEMB寒天培地をつかって大腸菌の確保も優先したんだ。もうこんな腹痛はこりごりだからな」


ははは。そう笑ってみせようとするが、腹痛を思い出すと博士の額に汗がにじむ。思い出すだけでもつらいようだ。


「そうなのね。他の培地じゃダメなの?たしかDHL寒天培地なんかも大腸菌培養に使われていたわよね?」


「EMB寒天培地の方が大腸菌を区別しやすいんだ。乳糖分解菌である大腸菌がEMB寒天培地上で増殖すると分かりやすい金属光沢を示すからな」


「そうなのね。どちらにせよ明日になればO157が手に入るってわけ?」


「そうだ。細菌自体が手に入れば保存していつでも増殖させられる。あとはこれをどうやってお前の殺したい教授の腹の中に入れるかだな」


「それなら任せておいて。あの教授はいじきたないから、お土産の残りなんかが冷蔵庫にあるとすぐ食べちゃうのよ。今度OGとして研究室訪問したときに、O157を仕込んだお菓子を持っていくわ」


「それだと他の学生も食べちゃうんじゃないか?」


「大丈夫よ。学生が帰った後にこっそりO157入りのお菓子だけ冷蔵庫の中に残しておくから」


そんなにうまくいくのだろうか?博士はそう思ったものの、おりこの顔は自信にあふれている。


「じゃあ、O157を採取できたらまた連絡する。あとはそっちでうまくやってくれ」


「わかったわ」


そう言って研究室を後にしようとするおりこを博士が引き止める。


「ちゃんと手洗いとうがいしろよ。O157の感染拡大の原因はO157に触れた人の手指だ」


そう言われておりこは再びトイレでうずくまっていた博士を想像した。すぐそばの流しにハンドソープが備え付けられていたためそこで手を洗ってから研究室を後にした。


腹痛もおさまり、実験作業もおりこにやってもらえた博士の午後の予定は思わずぽっかり空いた。何かおなかに優しいものでも食べよう。そう思ったのか博士も研究室と居室に施錠をして近くのうどん屋に向かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る