第10話 訪問
おりこは母校に向かうタクシーの中、努めて頭を空っぽにした。これから自分が行うことを深く考えると手足が震える。外気は25℃という比較的暑い日なのに、重ねている手は緊張から完全に冷え切っていた。実はこのタクシーの運転手は、私がO157入りのマフィンを持っていることを知っているんじゃないだろうか。このまま警察に連れていかれるのではないだろうか…。考えすぎると。そんなありえない妄想も浮かんできてしまう。自宅から大学まではタクシーで約20分ほど。学生時代は電車通学だったからか、車窓に映る景色は、おりこにとって比較的新鮮なものであった。
大学には東西南北でそれぞれ入口がある。南口が正門となっており、最寄駅から最も近い。一方で研究室が所属しているビルは北口側にひっそりと建っている。危険な微生物を扱っている研究室もあるため、何かあった時に被害を最小限に抑えられるように、研究室は日の当たらないエリアに建っていると誰かに聞いたことがある。
北口でタクシーをとめてもらい、カードで支払いを済ませて降りる。駅から歩くと15分ほどかかるが、タクシーだとあっという間に、忌々しい研究室棟をその目にすることができた。
建物に入ると涼しい、無機質な空気が肺に流れ込む。誰もいない寂しい玄関は全然変わっていない。特に談笑するためのスペースでもないし当たり前ではある。それに卒業してからまだ半年もたっていない。通いなれたルートでおりこは出身の研究室に向かう。研究室は2階だ。階段を上り終えて右に向かう。廊下を10メートルほど歩くと右側に学生室が見えてくる。学生室の奥には実験を行えるラボがあり、学生室からも廊下からも入れるつくりになっている。そのラボの向かいにはサイコ野郎の部屋、もとい教授室が位置している。ドアのすき間から微かに明かりがもれているということは、サイコ野郎は在室中のようだ。まずは学生室にマフィンをおきに行こう。おりこは1つ深呼吸をして学生室の扉をノックした。
「わぁ!おりこ先輩お久しぶりでーす!」
ガチャリとドアが開いて、廊下とは異次元の明るさに少したじろぐおりこ。ライトも明るいが、雰囲気も非常に明るい。出迎えてくれたのは、おりこが研究室に所属していた頃に最も仲が良かった後輩。研究内容も近く、実験を教えたことも何度もあった。彼女にだけは前もって、今日研究室にくることを伝えていたのだが、彼女以外にも5人ほど学生が残っている。これは好都合だ。
「お仕事お忙しい人ばかりで、研究室に来てくれたのはおりこ先輩が初めてですよー」
「新卒はみんな忙しいわよ。でも私は比較的時間を作りやすいから」
今は父と母の仕事の手伝いをさせられているおりこは、たしかに他の新卒社員よりは時間の融通が利く。社交辞令の挨拶もほどほどに、おりこはマフィンを、学生室の中心に据えられた共用のテーブルに出してやった。
「ありがとうございますー!」
そう言って学生たちが外箱を開けてマフィンを食べ始める姿を見ていると、卒業してからたった3ヶ月なのに、学生時代が恋しくなる。さて…。
「じゃあ私、教授にあいさつしてくるわね。まだ教授室に明かりがついてたみたいだし」
「了解です!今日はあまり機嫌がよくないので気をつけてください」
「何かあったの?」
「アタシがちょっと実験に失敗しちゃいまして…」
「そうなのね…」
この子の実験失敗の理由を説明しに一緒に教授室に行ったこともあったっけ。
「もうOGだし、とやかく言われることもないでしょう。きっと大丈夫だから心配しないで」
そう自分に言い聞かせるだけのつもりが実際に口に出していた。
学生室を後にしてまた暗い廊下に出る。人感センサーでもついていればいいのだが、まだ実装されていない。まるで洞窟の中を冒険しているような気分だ。あの扉の向こうにあるのが宝だったらよかったのに…。おりこは教授室のドアを3回ノックして、返事が来るのを待ったが、返事はない。なるほど。機嫌は相当に悪いようだ。
「失礼します」
ドアのすき間からゆっくりと顔をのぞかせてサイコ野郎の表情をうかがう。アポイントメントは取ってあるため堂々としていればよいのだが、学生時代のクセはなかなかに抜けない。ドアが半分ほど開いたところで、デスクトップからこちらに視線を向けた。
「おぉ。須藤さんか。いらっしゃい」
「お久しぶりです」
はぁ、と長いため息を吐いてからサイコ野郎はデスクを離れ、応接用のソファーに移動した。ため息に怒りを覚えるが、それを隠しつつ、おりこも反対側のソファーに腰かける。
「相変わらずお忙しいようですね」
「そうだね。どいつもこいつもミスばかりだから」
そういいながら、サイコ野郎はおりこの姿に視線をめぐらせた。おりこもその視線を感じるが特に気にはしない。
「須藤さんは素敵な服装で、何かのパーティ帰りかな?」
「いえ。特にそういうわけではありませんが。後輩に久しぶりに会えると思うとはりきっちゃいました。卒業生としてあまり恥ずかしい姿は見せられないので」
「在学中もきみが恥ずかしい格好をしていな記憶はないけどな。いや。一度だけあったか。あのメガネだけはひどかった」
チッ。おりこは心の中で舌打ちをした。このサイコ野郎。まだ言ってるのか。
「先生だけですよ。そんなひどいこと言うの。友達には気に入ってもらえました」
「ずいぶんと変わった友達がいるんだな」
友達までバカにするとは。もういい。O157に殺されてしまえ。
「では、そろそろ失礼しますね。先生もお元気そうでよかったです。お土産にマフィンを持ってきたので、あとで学生室を覗いてみてください」
おりこはスッと立ちあがると、サイコ野郎も立ちあがり、おりこのためにドアを開けた。
「ありがとうございます。また遊びにきますね」
「いつでも来てくれ。きっと学生も喜ぶだろう」
「失礼します」
そう言って教授室を後にした。
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