第11話 殺人マフィン

時刻は5時半。まだ日は高いはずだが、窓のない廊下はさっきよりも一層暗く感じる。光を求めて学生室のドアを開けるものの、学生たちの姿はない。テーブルの上にはマフィンが2つ残されていた。


バッグの中から腸管出血性大腸菌入りのマフィンを取り出し、ジップバッグを開ける。そこからラップを剥がしてマフィンを取り出したいおりこだが、こんな時に限って”端”が見つからない。


マフィンの全体を優しくなぞる。あまり強く握って形が崩れないように注意しなければ。


ようやく見つかった”端”からラップを剥がしていく。取り出したマフィンを箱の中に設置して、残っていたマフィンをラップで包み、ジップバッグに入れる。


次はサイコ野郎のマグカップだ。マフィンをバッグに入れて、代わりにO157入りのアトマイザーを取り出す。


ガチャリ。


学生室の扉が開く音に心臓が止まりそうになる。落ち着け。まだアトマイザーは取り出していない。入ってきた人物には、おりこが帰り支度をしているようにしか見えないだろう。


「おりこ先輩いたー。もう先生とのお話はいいんですかー?」


「ええ。変わってなくて安心したわ」


殺意が鈍らずに済んだ。


研究室に残っているのは彼女だけだろうか?軽く研究室を見回すが、机にバックパックが残っているのは1か所だけ。間違いなくこの後輩のバックパックだ。机の上も片付いているため帰る準備も済んでいるのだろう。この後輩さえ帰してしまえば、あとはマフィンを冷蔵庫に入れるだけなのに…。


「そうなんですよー。全然変わってくれないんですよねー。歳をとったら丸くなるというのはウソなんでしょうか」


そう言っている後輩の視線がテーブルに向かうのが見えた。まずい。


「あ!マフィン1つ残ってた!食べちゃおー」


おりこの横を通り過ぎて、後輩の手がテーブルに伸びる。


どうしたらいい?


時間がない。後輩がマフィンに触ったらアウトだ。その時点でO157が手に付着する。手指からの感染が非常に大きな感染経路となっていると昨日、博士に教えられたばかりだ。しかし、おりこもマフィンを設置する際に腸管出血性大腸菌に触れている。後輩の手をつかめば腸管出血性大腸菌を後輩の手に塗ることになる。これしかない。


おりこは後輩とテーブルの間にぬっと身体を差し込んだ。後輩の腕を左肩で押し上げるように割り込んだため、後輩の腕はじかれて空を切った。


急に割り込んできたおりこに後輩は戸惑いをあらわにする。


「なにするんですかー?」


おりこはにこにこして答える。


「マフィンよりも、いつもの中華屋さんに行かない?」


実験で遅くなった日に通った、研究室から5分ほどの中華。後輩はここの五目御飯が大好きだ。


「いいですね!行きまーす!」


正直、中華に行く格好でもなければ、気分でもない。


「じゃあマフィンは冷蔵庫に入れておくわね」


「はーい」


おりこはマフィンに触れないように気をつけて、箱を冷蔵庫の中に入れた。もちろん学生室のシンクで手を洗ってから。


「わーい!おりこ先輩が卒業してから全然行ってなかったんですよねー。何食べよー」


「そう言いながらいつも五目御飯じゃない」


「バレました?」


そう言って笑いあう2人。乗り気ではなかったおりこも、なつかしい後輩と、なつかしい味を食べに行けることに少しワクワクしてきた。忘れ物がないことを確認して学生室を後にする。きたときよりも、廊下の暗さはさほど気にならない。


~~~~~~~~~~~~~~~


学生が帰った後の学生室は静まり返っていた。時計が秒針を刻む音だけがやけに響いている。室内には、上に何も置かれていない机や、乱雑に実験ノートや教科書、即席めんが置かれた机。目の前の壁にアイドルのポスターが貼ってある机まである。壁側に設置された学生専用の机と、中央に据えられた共用のテーブルのほかに特筆すべきものはシンクだ。水道からは水とお湯が出るようになっている。横には食器を乾燥させるためのラックと乾燥したコップを片付けるための食器棚。実は教授のマグカップはここにはない。おりこの卒業後に、自分の部屋に水道を引いたため、教授室内で事足りるようになったのだ。そんなことにお金を使うなら、廊下の電灯を人感センサーにしてほしいが教授会で誰も提案しなければそんなことは起きない。


バタン。


学生室の外でドアが閉まった音がした。教授が教授室から出てきたのだろう。そして学生室のドアが開く。教授は学生室内に誰も残っていないことを確認してため息をついた。そして共用のテーブルの椅子に腰かけて頬杖をつく。大方、学生が遅くまで残っていないことに腹を立てているのだろう。もしかしたら遅くまで残らせる方法でも考えているのかもしれない。それとも自身の研究について思考をめぐらせているだけだろうか。秒針がうるさいアナログ時計は午後8時を示していた。


5分ほどその姿勢を保ったのち、何かを思い出した教授は立ち上がり冷蔵庫の扉を開ける。冷蔵庫には開封済みの白い箱。中にはマフィン。箱を取り出してテーブルの上に置く。少し考えた後に教授室に戻り、自分のマグカップをとってきた。どうやら飲みかけのコーヒーをマフィンとともに流し込むつもりのようだ。コーヒーを電子レンジに入れて「飲み物」のボタンを押す。表示された時間は1分13秒。その間、腕を組み、片足に体重を乗せる教授のスマートウォッチが着信を知らせる。画面に同期の名前を確認した教授は、嬉しそうに応答ボタンを押してスマートウォッチにむけて声をかける。


「おーう。どうした?」


「おつかれさん。まだ研究室か?」


「そうだけど」


「オレもだ。ちょうど一仕事終えたんだが久しぶりに飲みに行かないか?」


「いいね。こっちもひと段落ついたところだ」


「じゃあ5分後に出口で」


「おっけー」


そういうと教授は通話終了ボタンを押しつつ教授室に向かった。


再び静まり返った学生室では、電子レンジがコーヒーを温めなおしたことを知らせていた。テーブルの上には博士の成果であるO157入りマフィンが寂しそうに置かれている。


バタン。ガチャガチャ。


教授室が閉まる音と部屋の鍵を閉める音が、学生室まで聞こえてくる。


コツ。コツ。コツ。


足音が学生室を通り過ぎて階段に向かっていった。


コツ。コツ。コツ…。…。…。



コツ。コツ。コツ。


足音は一度静止してからコチラに戻ってきているように聞こえる。


学生室の扉があき、教授が戻ってきた。


電子レンジを開けてコーヒーを取り出し、テーブルの上のマフィンを口に放り込む。それをコーヒーで流し込み、外箱をゴミ箱に捨ててから急いで学生室をあとにした。


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メガネをバカにされたので博士に復讐を依頼しました さいぼう @SaiboukunUSA

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