第4話 きた
午前6時。
O157だ。
痛い。
枕元に置いてあるスマホを片手に居室ではなくラボのトイレに向かう。しまった。博士は居室の扉を開けてから、ラボのカギを持っていないことに気がついた。うぅ。腹痛の波だ。やり過ごすため、ドアを片手に硬直した。通常の腹痛の比ではない。腸管を握りつぶされているかのようだ。しかしO157採取キットはラボのトイレにあるため、居室のトイレを使うわけにはいかない。こんなことになるなら居室のトイレにも置いておけばよかった。
腹痛の波をやり過ごした博士は急ぎながら、しかしゆっくりとした動きでラボのカギを探す。おそらく昨日使ったシャツの胸ポケットだ。博士は自分のクセを熟知していた。暗闇の中シャツを探すが昨日着ていたシャツは黒色。闇に紛れて見つからない。電気をつけなくては。そう立ち上がった時に第2波が来た。
はぅぅ!
唇をかみしめてその場に硬直する。最初から電気をつけておけばこんなことにはならなかった。2度とこんなミスはしてはならない。腹痛の波をやり過ごしながらラボのトイレに入るまでの最短経路を博士は考えた。
まず電気をつける。シャツの胸ポケットからラボのカギを取り出す。居室のドアを開けて廊下に出る。ラボの鍵を開けてドアを開ける。スニーカーに履き替えてトイレに駆け込む。
きっと30秒もかからないだろう。スマホもちゃんと持っている。腹痛の波がおさまった。今だ!
~~~~~~~~~
数分後。博士はラボのトイレでスマホとにらみ合っていた。画面にはおりこへの通話画面が開かれている。緑のボタンをタップするだけで通話が始まるのだがそれがなかなかタップできない。
糞便採取の方は良好だ。その後無事にトイレに間に合った博士は下痢をした。真っ赤な血便も含まれていたため間違いなくO157だろう。下痢が出そうになるたびに綿棒を3~4本おしり付近に準備しておく。綿棒でまんべんなく糞便を採取するためだ。下痢がおさまった隙に綿棒を50ミリリットルサイズのコニカルチューブに入れてふたを閉める。この工程をすでに3回ほど繰り返した。しかし腹痛がやむ気配は一向にない。意を決して、博士は通話を開始した。
~~~~~~~~~
午前7時。そろそろベッドから出ようか悩んでいるおりこのスマホが鳴った。画面には「プライド高男」の文字。博士からおりこに電話がかかってくるのはこれが初めてだ。おりこは訝しみながらも通話開始をタップした。
「どうしたの?」
「おりこ。たすけてくれ」
やけに真剣な声が聞こえてくる。声が反響していることから、博士が狭い個室にいることが、おりこには何となく想像がついた。一体どこからかけているのだろうかと考えていると悲痛なうめき声が聞こえてきた。
「うぅ…」
「ちょっと大丈夫?」
「早く来てくれ」
「来てくれってどこに…」
「ラボだ」
「…わかったわ。すぐいく」
通話をきっておりこはすぐに博士のラボへと向かうことにした。とはいえこの広大な敷地だ。どう急いでも10分はかかる。着の身着のまま行くわけにもいかない。化粧もしなくては。使用人にクルマを準備させている間に手早く準備を済ませるおりこ。スカートかパンツか迷った末にパンツを選択した。たしか大学の実習でもラボに入るときはスカートをはいてこないように言われた。上はロングのTシャツ。午前中はそこまで暑くないし、日に焼けたくない。着替えて全身を姿見で確認すると、スラッとした体のラインが際立っている。服装は決まった。クルマの準備ができた使用人は先ほどからおりこの部屋をノックしているが、おりこは「もうちょっと待って」と応えるだけだった。
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シャバー、と水が勢いよく流れていく。おりことの通話をきってからどれくらいたっただろう。相変わらず腹が痛い。下痢も出続けている。最初に採取した下痢にO157が含まれているのはほぼ確定しているが、博士は念のため下痢を採取し続けていた。もし今回採取に失敗したら、またこの痛みを味わうことになる。それはごめんだ。というのが本音だろう。そんなことを考えているとまた腹痛の波が来た。綿棒を肛門付近でかまえる博士。ケチャップの最後の一滴を絞り出すような音を立てて下痢が出る。これ以上出すものはない。それなのに腹痛がおさまらないのが感染症の恐ろしいところだ。赤い粘液のついた綿棒をコニカルチューブにしまおうとふたを開けようとしたが、指が言うことを聞かない。まるで指に強烈な強制バンドをつけられ、指を動かす方向と逆方向に指が引っ張られているような感覚。脱水の初期症状だ。早く水分を摂取しないとこのまま意識を失ってしまう。しかし身体は言うことを聞かず、トイレから出られない。
「まずいな…」
おりこが来るまでは意識を失うわけにはいかない。教授を殺したいといっているさすがのおりこも、博士が倒れていたら救急車を呼ぶだろう。そうなると教授を殺害する計画がばれるかもしれない。腹の痛みだけが、博士に意識がまだあることを強烈に伝えてくる。
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