第5話 ポカリ
おりこは、建物に入ってすぐに異変に気がついた。
「きたわよ」
ラボの入り口から努めて気丈な声を出すおりこ。しかし博士は返事をしない。無視されているのだろうか。それともイヤホンでもつけているのか。おりこと博士の距離は6~7歩ほど。イヤホンさえつけていなければ確実に声が聞こえる距離だ。おりこはさらに2歩進み声をかける。
「ねぇ!こんな時間に呼び出して一体どういうことなの?」
しかし博士は顔をあげない。おりこは顔を覗き込もうと身体をかがめた。口が動いている。その動きがなにかを伝えるものではなく、痙攣であることに気がつくのに時間はかからなかった。
「ちょっと!大丈夫?」
距離をつめて博士の肩をゆするおりこ。不快なにおいが鼻にまとわりつくがそんなことを気にしている場合ではない。
「ねぇ!」
一体どんな実験をしたらこんな事態になるのか?おりこはちらっとトイレの横に並んだコニカルチューブに目をやるが、博士の肩を揺らし声をかけることに意識を戻した。声をかけ続けるとゆっくり首が動きおりこの方を向いた。震えている口元がなにかを訴えている。
「…リ」
「え?」
「ポ…カ…リ」
ポカリ?当然ポカリスエットのことであることはおりこにも想像がついた。しかし、なぜポカリが今必要なのだろうか?ふと疑問に思ったがそんな場合ではない。
「ポカリが欲しい」ということは、おそらく居室の冷蔵庫にポカリが入っているはずだ。おりこは急いで居室に向かう。冷蔵庫にポカリを見つけ、それをもって再度ラボのトイレにもどった。
「ポカリ持ってきたわよ」
おりこがそう言うと博士はゆっくりと手を差し出した。ポカリを受け取った腕をゆっくりと動かして口元にもっていく。なんとか飲み口を口元に届けて、博士はポカリを飲んだ。その姿を見ておりこにも博士が脱水症状に陥っていたことに気がついた。さらに2本、冷蔵庫に入っていたポカリを居室から持ってきて博士に渡してやる。震えは収まったようだがまだ喋る元気はないようだ。なぜこんなことになったのか気になるおりこだが、博士を回復させることに今は専念する。空いたポカリのペットボトルに水を入れて博士に渡してやる。冷蔵庫にポカリは3本しか入っていなかった。
~~~~~~~~~
トイレの中から水を流す音が聞こえてくる。3本の空のペットボトルを水道水で満たしてやったおりこはペットボトルを博士の足元に置き、トイレの扉を閉めて外で待つことにした。脱水症状であったのなら水分を補給すれば治るだろう。案の定、トイレの中の博士には水を流す余裕がもどってきたようだ。がちゃ。という音とともに博士が出てくる。
「ありがとう。たすかった。あと少し遅かったら意識を失っていた」
空になったペットボトルをキッチンに置きながら博士は続ける。
「しかし、もう少し早くこれなかったのか?」
「レディの準備には時間がかかるものなのよ。覚えておきなさい」
レディを上司に持ったせいで1時間も水分無しで下痢を続けることになるとは。博士は口に出さなかった。
「だいたい説明が足りなすぎるのよ。要件しか言えない男は、それ相応の結果を見せない限りモテないわよ」
「モテなくて結構」
それに結果ならある。今日の血便には間違いなくO157が含まれているはずだ。あとは採取した糞便からO157を分離すれば上司のレディも納得してくれるだろう。コニカルチューブをトイレに取りに行こうとしたその時。再度腸管をねじ切られるような痛みが博士を襲った。
「うっ…」
「どうしたの?」
「まだ下痢が治まっていないみたいだ」
うめき声をあげながらトイレへと駆け込む博士。あきれたおりこはペットボトルに水道水をつぎ足しトイレの入り口に置いてこう言った。
「水はドアの外においておくから。私はそろそろ行くわ。お大事に」
かかとをめぐらしラボを後にしようとするおりこにトイレの中から声がかかる。
「待て!」
立ち止まったおりこに博士は続けた。
「1週間以内に助けがいるといったのを覚えているか?」
確かに焼肉代を請求されたときにそんなことを言われた気がする。
「だからポカリ運んできてあげたじゃない」
「それ以上の助けが今から必要だ」
はぁ、と軽いため息を吐いてからおりこが話し出す。
「あんたの回りくどい説明にも飽きたわ。何をしているのか、何をしてほしいのか全部はっきり言いなさい」
「…特に隠していたわけでもないんだが…俺は今…O157に感染している」
「はぁ!?!?」
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