第1話:おわりとはじまり 第4章

 それから更に、3週間が経った。

 夢の世界は相変わらず美しく、呼吸の度に魂が浄化されていくような気さえする。

 お使いに出た町中はいつも通り賑やかで、ルカは今日も、あちこちから掛けられる気さくな挨拶に笑顔で応えながら、漠然とした心許こころもとなさに苛まれていた。

 連なる店先に所狭しと並べられた商品の数々、行き交う人々。「こちらの世界」での日常風景はあくまで平穏そのものだが、「北の魔境」に一番近い村が魔王軍の襲撃にあったことを、知らぬ者は居ない。それに伴って、国からは討伐隊の結成が正式に布告された。

 商談や世間話の輪の中に、時折不安げな表情が垣間見えるのは、決してルカの思い過ごしなどではないだろう。

 幼馴染みであるジェイクの家で購入してきた、希少な薬草の束が、やけに重たく感じられる。

「………………」

 町の目抜き通りを抜け、自宅のある丘までの開けた一本道に入ったところで、ルカは大きく息を吐き出した。何となく、家に戻るのが憂鬱だった。こんなことは、初めて「この世界」に来た3歳の頃から、一度もなかったことだ。

 今日、何とか期末テストの全日程を乗り切った瑠佳るかは、帰宅早々にベッドへ潜り込んだ。日々増していく倦怠感は、もはや誰の目にも明らかなようで、「テスト勉強を頑張ってるからかな」といった言い訳も通用しなくなってきている。

 そして3週間ぶりの爽快感と共に、「こちらの世界」の朝に目覚めたルカは、祖母に打ち明けてみたのだ、「最近すごく疲れやすいんだ」と。優しく賢い祖母なら、適切な助言を与えてくれるものと信じて。

 しかし祖母から返って来たのは、歯切れの悪い言葉だけだった。

『――考え過ぎじゃないかしら』

 その時ルカの胸によぎったのは、明確な失望だった。ベリンダの表情と声音はどこまでも慈愛に満ちているのに、何となく誤魔化されているような気さえする。

 急ぎではないと固辞する祖母を振り切って、自らお使いを買って出たのは、そのまま彼女と顔を突き合わせている自信がなくなったからだ。修業の終わった午後に付き合うとの申し出を断った時のユージーンは、妙に切羽詰まったような顔をしていた……。

 取り敢えずは、何事もない風を装うべきだろうか、と、以前の自分では有り得ない考え事を巡らしながら、ルカはトボトボとポールベリーの大樹を通り過ぎた。

 小さな頃から優しかった、大好きなを疑いたくはない。だが、夢と現実を行き来するこの状況が、不自然であることも間違いない。

 『夢に憑り殺される』――いつかの女子高生の語っていた映画のあらすじが、脳裏をよぎる。

 ――話し声が耳に付いたのは、可憐な鳥達の歌声が、不意に止んだためだろうか。

「あの子の様子がおかしいの」

「!」

 咄嗟に家の影に身を隠したのは無意識だった。建物を取り囲むように茂る植え込みの間、人目を憚るようにして、一組の男女が話し込んでいる。沈痛な表情で吐き出した女性に見覚えはないが、目の覚めるような華やかな美貌の持ち主だ。

 そして、親密な様子で話し込む相手に視線を向けたルカは、思わずドキリと心臓を高鳴らせた。20代後半と思しき美女と話し込んでいるのは、ユージーンだったのだ。

 闖入者ちんにゅうしゃの存在に気付いていないらしい女性は、蒼褪めた額に手を当てながら続ける。

「時折、私を疑うような眼をしている」

 呟くような告解を受けたユージーンは、まるで痛みを分け合うかのように、優しく微笑んだ。

「貴女がどれだけ彼に心を砕いてきたのか、僕は知っていますから」

「――!」

 労わるように、細い肩に手が乗せられるのを見て、ルカはサッと身を翻した。気配を悟られぬよう足音を殺しながらも、小走りで家の中に駆け込む。2階に自室があるのは、ここも現実も同じだった。ユージーンと祖母の私室の前を駆け抜け、後ろ手に閉めたドアに寄り掛かる。

 ――自分はいったい何を目撃してしまったのだろう。混乱する頭で、ルカは考えた。

 確かに、ユージーンは「超」の付く美形だ。恋人が居たっておかしくはない。でも、これまでそんな素振りは少しも見せて来なかったし、いつだってルカのことを優先してくれていたのに。

 まるであの様子は、相手の居る年上の女性との、道ならぬ恋のようにも見えた。

「…………」

 基本的にユージーンは、誰に対しても人当たりはいい。だが、あんなに優しくて切なそうな顔と声を向ける相手が、自分と祖母以外に存在するとは、考えもしなかった。

 自分がショックを受けていることにもショックを受けて、ルカはその場にズルズルとしゃがみこんだ。


                  ●


 祖母とユージーン、最も近しい人達への疑念を深めたことで、瑠佳は「夢の世界」そのものを拒絶するようになった。

 二つの世界を行き来しているだなんて子供じみたことは考えず、夢は夢として割り切り、現実を大事にしていけばいい。そうすれば、夢なんていつかは見なくなる。今の自分に必要なのは、これまで以上に家族や友人を大切にしながら、恋愛や進路についても真剣に考えて、努力していくことだ。

 それで気持ちは少し楽になったような気はするものの、身体の不調については、改善の兆しは見られなかった。期末テスト終了後、ついに病院で検査を受けさせられたが、これといった異常は見付かっていない。ひとまず処方された栄養剤を消費しながら「夏バテのせいじゃないかな」と笑って見せるのは、周囲に心配を掛けまいとする心遣いであると同時に、自分自身を鼓舞する意味もあった。原因もわからないまま、徐々に体力が衰えていく事実を受け入れることは、恐怖以外の何ものでもない。

 不安な日々を送る中で、瑠佳はあの世界の「夢」を見た。あちらの世界に「居る」のではなく、ただの夢のように「見る」というのは初めてのことだった。感覚としては、接続が中途半端というか、世界から弾き出されてしまったような――何にしても、妙に落ち着かない気分にさせられる夢だ。

『――ルカの「夢」に介入できない』

 夢の中で、ベリンダは焦った様子で、シミ一つない両の手を握り締めた。空っぽのままの孫のベッドを見詰める彼女の背後には、当然のように弟子のユージーンが控えている。

『あと、もう少しなのに』

 小さく頭を振って、ベリンダは美しく老いた顔を伏せた。ユージーンは、悲しげな眼差しを師に注いだまま、微動だにしない。

 ――いったい、何が「もう少し」なのだろう。

 それは今の瑠佳にとって、とても不吉な報せのように思われた。それ以上「見ていること」を拒んだのは、恐らく瑠佳の方だったのだろう。不安定な接続は、そこでぷつりと途切れてしまう。

 その後、取れない疲労と共に目覚めた瑠佳は、あの「夢」との距離が遠ざかることは良いことなのだと、必死に自分に言い聞かせた。


                  ●


 意識を失うのとほぼ同時に覚醒が訪れ、瑠佳は激しく瞬きを繰り返した。

「!?」

 ログハウス風の天井は、「夢の世界」のルカの部屋のものに間違いない。状況の把握に手間取ったのは、これまで二つの世界を渡って来た時とは、感覚が懸け離れていたせいだ。まるで寝入った瞬間を叩き起こされたかのような不快感がある。

 ベッドサイドでは、固い表情の祖母・ベリンダが、瑠佳を見下ろしていた。その手に愛用のロッドが握られているところを見ると、何か大掛かりな魔法を使ったらしい――例えば、瑠佳の意識とこの世界を強引に繋ぐような。

 その証拠に、今の瑠佳はこちらの世界の衣服を身に着けていない。そう、制服のままなのは、夏休みを目前にした教室で、意識を失って倒れ込んだところだったためだ。

 前回この世界を訪れてから、1週間が過ぎている。

 ルカ、と、ベリンダは眉間を寄せた。

「あなた一体どうしたの?」

 問い掛けには、微妙な非難が含まれているように感じられる。

 瑠佳は静かに上体を起こした。現実とは違って、とても身が軽い。さすがは「夢」の世界だ、と、反射的に自嘲が口の端に浮かぶ。

「ルカ……」

 後ろに控えていたらしいユージーンが、堪りかねたように近付いて来て、ベッドサイドに膝を着いた。その洗練された所作を視界から引き剥がすように、瑠佳はプイと顔を背ける。今は何となく、彼の碧色の瞳に見詰められたくはなかった。

 何も答えない瑠佳に業を煮やした様子で、ベリンダが首を横に振る。

「あなたをへ呼べないのは、あなたがこの世界を否定しているからよ」

 この言い分からすると、やはり瑠佳をこの世界に呼び寄せていたのは、ベリンダの魔力なのだろう。瑠佳が世界ごと拒絶したことでそれが適わなくなり、より大きな術を用いて、むりやり瑠佳との接触を試みたということらしい。

 ――なぜ、そこまでして。

 瑠佳が二つの世界を行き来することがベリンダの意思であるなら、何か意味があるはずだ。

 幼い頃から、ずっと目を背け続けてきた疑念に、瑠佳はようやく、真正面からぶつかる決意を固める。

「――おばあちゃん、僕に何か隠してるんじゃないの?」

「!」

 真っ直ぐに見上げたベリンダは、わずかに肩を揺らした。質問を質問で返されたというだけではない、それは明らかに、瑠佳の疑惑が彼女の抱えた秘密の核心を突くものであることの証のように思われる。

 ずっと敬愛の念だけを向けてきた祖母の動揺に、瑠佳は勢い付いた。

「僕、このところずっと体調が良くないって言ったよね? この夢から覚めるたびに、どんどん疲れが溜まっていってる。それって全部、この世界が原因なんじゃ――」

「何を言うの!」

 捲し立てる瑠佳に、ベリンダが上げた制止は、まるで悲鳴のようだった。瑠佳がこれまでに一度も耳にしたことのない、恐怖に満ちた声だ。

 瑠佳は思わずブランケットを握り締めた。怖いのは自分の方だ、と。

 現実では日常生活もままならないほど、瑠佳の身体は急激に衰えている。原因の分からない恐怖に囚われた瑠佳にとって、幼い頃からずっと信頼してきた祖母の隠し事はそのまま、重大な裏切りとしか思えなかった。

 瑠佳の生殺与奪を、ベリンダが握っているのだとしたら――?

 いつの時も、常に温和な笑みを浮かべていた祖母の取り乱した様子に、瑠佳はついに激昂した。

「じゃあ何でだよ、おかしいよこんなの!!」

 叫んで、利き手の右拳を思い切りヘッドボードに叩き付ける。行動に意味があった訳ではない。誰かを傷付けたかった訳でもない。ただ、疑念と悲哀を何かにぶつけたかっただけだ。

 ベリンダは凍り付いたように動きを止めた。彼女もまた、これまで可愛いばかりだったルカの激情に、驚愕しているのだろう。

「――やめるんだ」

 咄嗟に動いたのはユージーンだった。ベリンダの前に割り込むようにして、瑠佳の右手首を掴む。振り解こうとしてもびくともしない。非力な瑠佳とは違う、圧倒的な男性の力だ。

 反発を覚えたのは、年頃の少年としての矜持きょうじのためだった。キッと睨み付けたユージーンはしかし、秀麗な顔を悲しみに歪めている。

「君が傷付くのは見たくない」

 言われて始めて、瑠佳は叩き付けた右の拳の皮が擦れて、わずかに流血しているのに気付いた。けれど痛みは感じない。感情が高ぶっているせいもあるだろう、だがそれ以上に、彼の労りが空々しく感じられる。脳裏をよぎるのは、自分の知らない女性に向けられた、あの優しい微笑み。

「嘘だ!」

「ッ、ルカ……!」

 怒りと悲しみに突き動かされるまま、瑠佳は闇雲にユージーンの手を振り払った。衝撃を受けた様子のユージーンが、それでも、手負いの獣のように暴れる華奢な身体を止めるべく、覆い被さってくる。

 ――無言の攻防を封じたのは、ほんのわずかな物音だった。

 ベリンダが、愛用のロッドをコトリと床に置く。覚悟を決めたような表情に、瑠佳は抵抗も忘れて、その挙動を見守った。師の意を汲んだユージーンは、瑠佳を解放して、静かに身を引く。

「………………」

 ベリンダが瑠佳の右手を取った。ふわりと暖かい空気に包まれるのと同時に、祖母の瞳がオレンジ色から金色に変わっていく。大掛かりな魔法を使う時の兆候だ。『黄金のベリンダ』の二つ名も、この事象に由来する。

 おとなしく治癒魔法を施されながら、瑠佳はふと、祖母の輪郭がぼやけていることに気付いた。違和感を覚える間もなく、ベリンダの等身はすっきりと伸び、白髪交じりの頭髪は瑠佳と同じ、艶のある明るいブラウンに染め上げられていく。

「え、お、おばあちゃん……!?」

 驚愕に両の瞳を見開いた瑠佳の前で、品のある老齢期の女性は、20代後半の華やかな美女に変わっていた。それだけでも充分衝撃なのに、瑠佳はその美貌に見覚えがある。

 瑠佳の狼狽を、形通り「老婆が若返ったこと」であるとのみ考えているらしいベリンダは、皺一つない顔を申し訳なさそうに歪めて、「隠していてごめんなさいね」と微笑んだ。

「あなたと初めて会った時は、おばあちゃんだったでしょ? 驚かせてしまうと思ってずっと同じ姿で居たけれど、力が満ちている時はこの姿なの」

「……ッ……」

 あまりのことに、瑠佳は喘ぐように息を継いだ。どうやら祖母の魔法力は、「老い」という生物の摂理さえ寄せ付けないほどに、強力であるらしい。小さかった瑠佳が、祖母を祖母として認識できるよう、配慮してくれていたという訳だ。

 ――まあ、それはいい。驚きはしたが、あくまで自分を思ってくれてのことなのだから、これを責めるほど、瑠佳も狭量きょうりょうではない――だが。

「……え、じゃあ、この前ユージーンと一緒に居たのって……」

 綺麗に傷の治った右手首を左手で握り締めて、恐る恐る瑠佳は問うた。その反応が思っていたのと違ったらしい魔法使い師弟は、まったく似ていないがそれぞれに美しい瞳を瞬かせる。きょとんとしていても、美形というのは絵になるものだ。

 やがてゆるゆると頬を緩ませたのは、ユージーンの方だ。

 ベリンダは常に、瑠佳の前では歳相応の姿でいようと気を配ってきた。にも関わらず、ルカは目の前の美しい女性を見知っているという。それが祖母の本来の姿とは気付かずに、だ。ベリンダが瑠佳の滞在中に化身を解いたのは、ルカから向けられる疑惑の視線に耐えかねて、弱音を吐いただけ――そしてルカは、自分を気遣うユージーンを拒絶するような素振りを見せた――まさか。

「え、も、もしかして、ルカ、妬いてくれていたのかい?」

「ち、違うよ!」

 頬を薔薇色に染めるユージーンの思考が手に取るように感じられて、瑠佳は被せ気味に否定した。違う、断じて妬いたりなどしていない。ただちょっと、幼馴染みが自分の知らない誰かと付き合っているのではないかと思って、疎外感を感じただけだ。頬が熱いのは、早とちりしていたことが恥ずかしいだけで、ホッとしたりなんかしていない。

 ――そう、あの優しい笑顔を向けて貰えるのは、やはり自分と祖母だけなのだ。

 瑠佳の否定をものともしないユージーンの笑み崩れた顔から視線を背けると、祖母もまた瑠佳の百面相を愛おしげに見詰めている。こうして間近に顔を合わせてみれば、確かに目の前の美女には、しっかりと祖母の面影があるようだ。

 気持ちを落ち着けるように、瑠佳は大きく息を吐いた。それを合図にしたかのように、ベリンダもユージーンも、表情を引き締める。

「どういうことなのか、ちゃんと説明してよ」

 瑠佳の懇願に、ベリンダはわずかに瞳を伏せた。そして意を決したように立ち上がり、瑠佳のベッドに腰を落とす。

「……あなたは本来、こちらの世界に生まれるはずだったの」

 祖母の告白に、瑠佳は瞳を見開いた。

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