第3部

 ケネスと三日間一緒にいて知ったこと。


・彼は二十三歳である。

・妹がいたが既に亡くなっており、恐らくその死が彼の人生に大きな影響を与えた。

・ケネスは首都のはずれにあるコンパウンド(未開発地域、早い話がスラム)在住。

・彼は金を持っているので近隣住民はコンパウンドに住むのを不思議に思っている。

・彼は近隣住民から恐れられている。

・同時に尊敬もされている。

・俺の事を日本から問題を解決する為に来たブローカー、もしくはヤクザだと周囲の人間は誤解している。

・彼の所属している犯罪組織はかなり小規模で二十人前後の構成員しかいない。

・彼らの殆どは農村部、もしくはスラム出身であり、話すと気のいい奴らが多い。

・未明にコンパウンドを発ち、早朝に記念公園に着く。目的地の水飲み場はゾウ達のホットスポットであり、いつも早朝には群れが水を飲みに来る。



 翌日に密猟を備えた俺とケネスはクラブで踊っていた。ここまでの運転はケネディがしてくれた。更にボディガードとして大柄なパトソンが付いてきた。二人とも犯罪組織Aの構成員でケネスの部下だ。

 ケネディは陽気な男で俺に日本がどんなところかよく聞いてきた。


「日本ってよ、発展してんだろ、豊かな国なんだってな、行ってみたいな」

「そんなに良いところではないよ」

「それはあんたが日本で育ったからだよ、なあ、日本人ってみんなあんたみたいな感じ?」

「どういう感じ?」

「なんと言うかさ、クールで静かなのかな? って、俺は話しまくっちゃうから、日本に行ったとき、浮いちゃうかも知れないだろ、そしたらマズイじゃん」

「大丈夫、俺が暗いだけだから、アフリカ人だって、みんなケネディみたいにおしゃべりなわけじゃないだろ?」

「確かにそうだな、なるほど、頭いいな」


 いつもこんな会話をする。明るいケネディと話すと心が和んだ。パトソンは身体が大きく、腹はビール樽のように膨らんでいて、体重は俺の二倍はありそうだった。パトソンは身体は大きいが、心は繊細でいつも俺に相談してきた。俺は大柄な男の悩みをカウンセラーのように聞いてやるのだった。


 「お前とケネスで密猟に行くんだよな」

 「そのつもりだ」

 「ケネスが行けば俺たちはまた密猟に行かなくてはならない。ボスが勇気を見せたなら、俺たちはそれに応えなければならない。俺はもう密猟には行きたくない、ゾウは大きくて怖いし、俺たちを狙っている奴らも怖い」

 「嫌なら組織を抜ければいいじゃないか」

 「それは死ぬよりも怖い」

 「なぜ?」

 パトソンは答えず、ただ首を振るばかりだった。



 柄にもなく、フロアで身体を揺らした後、カウンターで冷たいビールを飲んだ。

 「おかしくないですか?」

 京子が横で頬杖をついてつまらなさそうにバーテンの後ろの酒の瓶を眺めながら言った。

 「なにが?」

 「だって、無理して密猟させるとか、超馬鹿じゃないですか。ケネス達のAを襲っている組織をBとしたら、Bを止めさせるのが先でしょ、目先の利益のために自分も仲間も危険に晒すとか、やばすぎません?」

 「ケネスは何か企みがあるんだろうな」

 「お前が殺されることはない、安心しろ」

 京子は声を低くし、数日前のケネスのモノマネをした。

 「無理あるだろ」

 「十中八九裏がありますね」

 「殺されるかな?俺」

 「さあ、とにかく、説明してくれるなら今日でしょうね」

 おい、何してる、こっちに来いよ、ケネディが手招きしている。ケネスもパトソンもいる。最後になるかもしれない夜を彼らと満喫する。もしかすると俺は明日の今頃、生きていないかも知れない。


 夜が深まる前にケネディの運転でケネスの家まで送ってもらった。彼の家は打ちっぱなしのコンクリートで出来ていた。ここで仮眠の後、深夜に出発する。ソファに腰を下ろす。ケネスは隣のベッドに腰かける。京子は俺の隣にちょこんと座りこんだ。

表にはバンが止まっている。中にはライフルとチェーンソーが入っている。ライフルでゾウの頭を打ちぬいた後、チェーンソーで頭を切り落とすのだ。俺たちに殺されるゾウは今頃何をしているのだろうか、眠っているのか、それとも俺たちのようにまだ起きているのだろうか。


 「楽しかったな」

 「ああ」

 「お前が俺の仲間達と仲良くなってくれたのは嬉しい」

 「みんないい奴らだ」

 「あいつら全員殺すがな」

 「ほら、やっぱり」

 京子が興味なさそうに呟く。

 「裏切者はお前だろ」

 「よくわかったな」

 「理由は?」

 「別の組織の方が高い金を出してくれる。それに俺の組織とあっちじゃ規模が違う。Aの全滅は遅いか早いかの違いだ。なら移籍は早い方がいいだろ」

 「仲間も一緒に連れて行ってやれよ、集団雇用の方がいいだろ」

 「駄目だ、M&Aは派閥を作る。それは先方の望むところではない」

 「それにしても、部下達に密猟に行かせて少しずつ殺すなんて非効率だ。やるんなら、もっと一気に殺せよ」

 「そっちの方がリスクが高い。ジワジワと消していき、気が付いた時には対抗する力がないという方が理想的だ」

 「誰かに疑われるだろ」

 「いや、それはない。あいつらは組織に依存している。組織の言うことは嫌々でも従う。従わざるを得ない」

 「俺たちはこれから密猟に行く、誰も襲ってこない。ゾウを殺しておしまい。そういうことか?」

 「気をつけろよ、ゾウはデカい。襲撃がなくとも危険であることには変わりない」

 「なぜ俺なんだ?」

 「現地人はどこで誰と繋がっているか分からない、仲間も同じだ」

 「俺は殺されるのか?」

 「その可能性は非常に高そうですね、可哀そうな先輩」

 京子はそう言ってまるで陽炎のように消え失せた。

 「今からそれを決めようと思う」

 そう言うと、ケネスは俺の向かいのソファに座り、懐から拳銃を出した。初めて見る拳銃はどこまでも現実味がなく、まるでおもちゃみたいだった。という凡庸な考えがよぎる。銃身が俺に向けられた。ケネスがほんの少しだけ指先に力を入れれば、俺は簡単に死ぬ。でも、なぜだろうか、俺は怖くない。


 「ぶっちゃけ、一人でも密猟は出来ないことはない、かなり骨は折れるがな。もしくは、銃で脅して手伝わせるだけ手伝わせてから殺す。恐らく後者だな。うん、そっちの方がいい」


―どうにも腑に落ちない。

―どうしてですか?

―合理性を求めるのなら、もっといい方法があるだろ。それこそ、ケネスの言う通りなら、最初から一人で密猟をしに行った方がいい。俺みたいな外部の人間を引き入れるなど、リスク以外のなにものでもない。それに、仮に俺に手伝わせるにしても、もっといい使い方があるだろ。

―例えば?

―敵対組織と繋がっていることなんて暴露せず、上手く俺を騙して、密猟の手伝いをさせたところで仕事から外せばいい。

―つまり、ケネスの行動は合理性を超えた、彼にとってとても重要なこと?


 「この国の人間はお前にはどう見えた?」

 彼らは真新しい原色のシャツを着てその長い足で踊るように地面を踏みしめて歩く。


 ―気持ちわる。京子が顔を顰める。


 俺は何も見ていなかった。この国のことを知ろうともしなかった。近代化が進みつつあるアフリカ。ネットの下らない記事で知った気になっていた。

 「この国は発展しているように見えただろ。でも違う、違うんだよ。農村部では人が面白いくらい、すぐに死ぬ。下らない病気で死ぬ。ちょっと怪我しただけでそこから菌が入って死ぬ。都市部でもこのコンパウンドでは同じように人がすぐ死ぬ。ゴミ山で暮らす少年達は面白半分でリンチにあって殺される。年端も行かない女の子が売春させられて変態に殺される。生き残った奴らもエイズで死ぬ。なんで俺がここに住んでいるか分かるか、見てみろ、窓の外を」


 窓の外、コンパウンドの掘っ立て小屋の奥には煌めく真新しい摩天楼。都市部のビル群が見えた。遠くでキラキラと光っているが、明るいのはその一角だけで、今いるコンパウンドを含めて、殆どの建物には光が灯っていない。その無機質さ、無関心な様は、まるで異世界からやってきたバケモノのように見えた。


 「あれだ、あのデカい巨人達がここからハッキリと見える。だから俺はここに住んでいる。巨人達は俺たちのことが見えていない。あいつらは俺たちのことを見下している。それが我慢できないんだよ。俺は巨人を殺す。そして、そこでニーチェを読む。それが俺の人生の目的なんだ。そうするためにはなんだってするよ。仲間だって殺す。いや、俺はあいつらのことを仲間だなんて思ったことはない。ムカついてるんだよ、あいつらは何も考えていない。ただ、安心していたいだけなんだ。何かに縋っていたいだけなんだ。それじゃ駄目なんだ。それじゃ搾取され続けるだけだ。俺たちは巨人を殺さなきゃだめなんだ。中心地に向かい続けなければならないんだ。お前なら分かるよな?」


 「分からねえよ」

 「おい、銃、見えてないのか? 正直に言えよ。お前のことは前々から知ってたぜ。ツーリストでもビジネスマンでもない、ホテルに籠り続ける日本人。俺のところには情報が集まってくるんだ。お前は巨人から逃げてきた。そうだろ? 俺はお前のことを気に入っているんだぜ、巨人達の手から逃げる方法は『全てを手に入れる』か『全てを捨てる』かだ。お前は全てを捨ててきたんだろ、だから日本人なのに堂々とこんなスラムに足を踏み入れられる。お前が何か持っている人間なら、初日で殺されるか、全て奪われていた。でも、お前は何もされていない。それはお前が何も持っていないからだ。分かるだろ? 分からなかったらこの場で殺す。答えてくれよ、お前に何があった。なぜアフリカにやってきた」


 ケネスが銃を俺の額に押し付けてくる。本当に撃つのだろうか。撃ったら周りの人間が気が付くだろ。いや、気が付いたからなんだというのだ。この地区で人が一人死んだって、それがなんだというのだ。俺はなんでここに来たんだ。ケネスの顔を見る。興奮している。目は充血して潤んでいる。合理性を超えた重要なことなのだ。どうにもずっと余計なことを考えている気がする。なあ、どうしたらいい、京子? あ、そうか、糞、京子はもう弾き飛ばされちまったんだった。また忘れていた。糞、糞、糞、マジで最悪。なんで俺はこんなところにいるんだ。京子、京子に会いたい。でも会えない。彼女はサークルの外に飛ばされ、水素原子すら存在しない宇宙を推進し続けているのだ。俺はなんでこんなところにいるんだ。なぜ、俺は黒人の青年に殺されかけているんだ。思考が乱れる。苦しい。くそ、マジで、なんなんだよ。

 

 「女が死んだ。大切だった人が死んだ。日本にもういたくなかったんだ。だからアフリカに来た。彼女が来たがっていた場所だったから。でも、アフリカにもいたくない。もう、どこにも行きたくない。俺は自分がどうしたらいいかが分からないんだ」

 俺の声は震えていた。怖かったからじゃない。心の底から絶望していたからだ。惑星を失った衛星はただ宇宙を彷徨うしかない。でも、どこに? いつまで? 泣きたくない。でも涙が出てくる。最悪だ。頭が動いていない。なぜ、恐怖から? 違う。多分、きっと。

 「愛するものの死はすべてを変えてしまう」

 ケネスは銃を下ろした。その目から涙がこぼれていた。

 「そうじゃないかと思っていた。お前はガラスの瞳をしている。そんな目をする人間 は死ぬ前の人間か、愛する人を失った人間かの、どちらかだ。お前もそうだったんだな。ありがとう、話してくれて。聞いてくれ、俺もそうなんだ。俺の妹はエイズで死んだ。俺の可愛い妹はな、親父が作った借金の形で売春宿に入れられて、糞みたいに安い値段で、クズの相手をさせられ、エイズになったらゴミのように捨てられて、病院とは名ばかりの肥溜めに入れられた。妹はまともな治療を受けられず、全身によくわかんねえ斑点が出来て糞を漏らしながら死んでいった。妹と俺は神を信じていた。俺は神を愛していた。優しくて美しくて敬虔な妹を必ず神は助けてくれると信じていた。妹も神を信じていた。それが唯一の救いだった。妹は自分が天国に行くと信じて疑わずに死んで行けたからな。でも、俺はもう信じられない。仮に神がいたとして、俺の妹をボロ雑巾のように犯しぬいて最後はぶち殺したこの世界に、裁きの一つも下さない神なんて信じてやる価値がない。この世には弱者と強者しかいない。弱者は徹底的に破壊される。全てを奪われる。強者は全てを手に入れる。たまに金や権力が全てではないなんて言う偽善者がいるが、あんなのは弱者の言い訳に過ぎない。俺は違う。俺は巨人を倒すんだ。俺はあの町の中心に行くんだ。そのためならなんだってする。友達だって殺す。俺は俺の妹の死を絶対に無駄にしない。絶対に無駄にはしないんだ」


 ケネスは言った後、顔を手で覆って号泣した。声を上げ、涙と涎と鼻水を垂れ流して泣いた。

「ゾウを殺そう」

 俺はそう言ってケネスの肩に手を置いた。



 俺とケネスを乗せたバンは数時間走ったあと、夜明け前に記念公園にたどり着いた。バンの二十メートルほど先に小さな池があり、そこがゾウ達のホットスポットなのだ。ここにゾウの群れは毎朝水を飲みに来る。俺たちはそのうちの一頭を殺す。

 車内で俺とケネスは特に言葉を交わさなかった。俺はなんとなく、もうあの町にはいられないだろうと考えていた。次に行くならどこにしようか、特に行くあてはない。この大きなアフリカ大陸において、俺は孤独だった。いや、よく考えれば生まれた時からずっと孤独だった。親や友人は時として優しい声をかけてくれる。京子のように通じ合える女性と出会える。だが、突き詰めて考えた時、人は恐ろしいほど一人なのだと気が付く。一人で生きて一人で死んでいく。誰かが助けてくれることはない。円の中心に向い続け、その過程で誰かを弾き飛ばし続けなければならない。なんと残酷で不毛な世界なのだろう。子供の頃習った道徳が糞の役にも立たない世界なのだ。


 なら、なぜ俺はこの世界で生きている。残酷で汚い世界を、孤独に推進し続け、他人を弾き飛ばすことが生きるといことなら、なぜ俺は生きている。

 空が白みだす。薄い闇が世界を支配する。見渡す限り障害物のない世界。遠くまで見渡せる。この世界こそが真実なのだ。弱いインパラは産まれて数時間で走り始めなければ肉食獣に食い殺される。強いライオンは更に強いライオンに負ければ群れを追われ、息子と娘は皆殺しにされる。この世はシンプルなのだ。勝ったものが生き、負ければ死ぬ。残酷だが、これこそが世界なのだ。


 「来たな」

 ケネスが小声でそう言う。地平線の彼方で灰色の点がざわついている。ゾウの群れがやってきたのだ。

 ゾウの群れはものの数分で水飲み場にたどり着いた。全部で二十頭くらいいる。彼らの後ろで太陽がいつもと同じように顔を出す。世界はゾウが殺されること、ゾウを殺すこと、その両方に関して一切興味がないのだろう。


 ケネスはライフルを抱え、車から白い大地の上に降り立った。ライフルを担ぎ、スコープ越しに群れを見つめる。

 「早く、撃てよ」

 俺はチェーンソーを後部座席から取り出しながらケネスに言う。

 「ゾウは頭が良い。群れが襲われていると気が付くと襲い掛かってくる可能性もある。二十頭のゾウがバンに向かって来たら俺たちが死ぬ。だから獲物は慎重に選ばないと」


 俺もチェーンソーを持ってバンの外に出た。とにかく、早くここから立ち去りたかった。もう、俺はどこにもいたくないのだ。ならば、なぜ生きている。

 ゾウの群れを見ていると、一匹だけ群れから離れた場所にいる個体を見つけた。彼は群れのゾウ達が水を飲んでいるのを恨めしそうに遠くから見つめている。数頭が水を飲み終えてその場を離れた隙にそのゾウは恐る恐る池に近づく。しかし、近づいてきたゾウを数頭のゾウは通せんぼしたり、頭突きをしたりして拒む。仕方なくゾウはまた少し離れた場所で待たざるを得なくなる。きっとあのゾウが水を飲めるのは全てのゾウが水を飲み終え、群れが池を発つ瞬間なのだろう。あのゾウは円の外側に追いやられてしまったのだ。なぜかは分からない。老いたからか? それとも変わりモノだったからか? 裏切ったからか? その全てだからか? それは分からない。しかし、ひとつ言えることは、だからこそ、このゾウは今からケネスによって殺される。群れをはぐれたゾウは殺されるのだ。


 ケネスを見る。彼の銃身は群れをはぐれたゾウに向けられている。銃身が黒い男性器に見える。この世に悲劇と死を生み出す黒い性器。やめろ、と叫びたくなる。なぜだろうか、もしかすると、このゾウにとって死は救いかも知れない。みじめに虐められながら生きる方がよっぽど辛いかも知れない。それでも俺はケネスを止めたかった。そのゾウを殺すな。そう叫びかけた時、ケネスは引き金を引いた。そして、ゾウの頭から血しぶきが上がり、巨体は倒れこんだ。こうしてまた円の中からひとつの魂が弾き出された。


 ゾウ達は死を目撃すると一目散に走りだした。彼らはゾウの死に対して何か感じているのだろうか。ふいに俺はケネスからライフルを奪い取って逃げ惑うゾウ達を皆殺しにしたくなる。全員の頭を撃ちぬいて牙を引っこ抜いてやりたくなった。

 ケネスの肩から力が抜けていき、彼は銃を下ろした。

「残念だ。普通は仲間が撃たれたら何頭かはその場に残るんだよ。ゾウは頭がいいから仲間を置いていけないんだ。その仲間思いのゾウもゆっくり殺していくのがゾウ狩りのセオリーなのだが、みんな逃げてしまった。これじゃ、二本しか象牙が取れない」


 ケネスは顎で来いと合図し、俺はチェーンソーを持ってゾウの死体に向かって歩く。さっきまでゾウ達が水を飲んでいた池。ホットスポット。群れ。ゾウ達と人間と、池とアフリカと日本とどう違う。この世はホットスポット。円の中心に向かって推進する。外れれば死ぬ。きっと明日もゾウ達は仲間の死に興味を持つことなく、この池にやってきて水を飲むだろう。残酷だろうか。違う。それが普通なのだ。俺たちは人の死にすら興味を失くしてしまっている。京子が死んでもこの世界は当たり前のように回り続ける。会社は彼女の穴を即座に埋め、彼女など最初から居なかったかのように回り続ける。ケネスの妹はまともな治療を受けられずに死んだ。きっと苦しんだだろう。でも、そんなことお構いなしで世界は回る。アフリカの女の子が死んだからなんだと言うのだ。円の外の話だ。女の子が地獄の苦しみで死んでいくのは無視されるが、アメリカのハリウッドスターが骨折すれば大騒ぎするのが世界なのだ。そういうものだ。そういうものなんだ。つまり、世の中は糞。生れ落ちてしまったのが不幸の始まり。この世は地獄で身体は牢獄。真っ黒な性器で撃ち込まれる生死。


 「ならなぜ生きているんですか」

 目の前に血まみれの京子が立っている。おい、どうしたんだよ。怪我したのかよ。心配するじゃん。大丈夫かよ。先輩、答は先輩の中にあります。問に対する答を思い出して。おい、どうした。ぼーっとして、早くゾウの顔をえぐれ。こんなところにいたくない。京子、俺はどうすればいい。どうすればいいって頭を切るんだよ。なんで、可哀そうじゃん。先輩、頭を切らないと生きていけませんよ。嘘だろ。残酷すぎるだろ。それがこの世界です。早くしてくれ。おい、どうしちまった。頭おかしくなったのか。先輩、落ち着いて。考えるまでもないことです。

アームストロングは月でなぜ死ななかったのか。


 ケネスの黒い頭が吹き飛んだ。こめかみの両側から血しぶきが上がる。彼の身体を支えていた筋肉は瞬時に弛緩し、ケネスの身体は地面に崩れ落ちた。その黒いライフルも落ちる。ケネスとほぼ同じタイミングで地面に伏せる。なぜそうしたのかは自分でもわからなかったが、本能が這いつくばれと言っていた。


 ケネスは死んだ。あんまりにも呆気なく死んだ。しかし、感傷に浸りはしない。それどころではない。ケネスの死体を盾のように身体に覆い被せて辺りを見回す。地平線の彼方。黒い点が三つこちらに歩いてくる。人だ。


 それはこの公園を守っているレンジャーなのか、それとも裏切りに気が付いたAが送り込んだ殺し屋なのか、それともなんらかの理由で用無しになったケネスを殺しに来たBの連中なのか、それとも考えてすらいなかった第三の勢力なのか。分からないし、今は関係ない。迫りくる敵は三人。彼らを退けなければ俺はまず間違いなく死ぬ。つまり、俺は三体殺さなければならない。ライフルだ。近くのライフルに手を伸ばして手繰り寄せる。敵は撃ってこない。恐らく地面に伏せた俺に照準を合わせずらいのだろう。確実に殺せる距離まで近づいてから殺すつもりだと推測する。ならば、まだこちらに分がある。今から三人殺せば俺は生き残れる。やってやる。血が湧きたつ。絶望的な状況だが高揚している。冷や汗が全身から漏れる。死が近づいてくる。俺は死を退けなければならない。大地は俺の命を欲している。でも俺は退けなければならない。京子の声が聞こえる。


 重力なんです。私たちを縛っている鎖の名前です。月は地球のそれから逃れられず、地球も太陽系の周りを回るビー玉に過ぎないでしょ?そんな太陽系も銀河系を回り続ける蜘蛛の巣なんです。宇宙に存在するものは重力によりサークルを作り続ける運命なんです。私たちはサークルの中でしか生きていけません。そこに密集して生きているんです。

アームストロングは月でなぜ死ななかったのか。

ようやく俺は答にたどり着く。


 答は単純だ。生きたかったからだ。それ以上の理由がいるか。絶望しようと、残酷さに打ちひしがれようと、俺は生きたい。この世がゾウが死んだ糞ホットスポットと同じ糞みたいな世界であっても俺は死にたくない。円の外に出たくない。円の中心に向かって推進し続けたい。


これまで、俺はずっとサークルの中で流されてきた。そして気がついたら地球の裏側まで流されていた。俺は考えていなかった。生きていなかった。でも、今は違う。生きる為なら他人の靴だって舐めるし、俺が生きる為なら、三人くらい余裕でぶち殺す。単純だ。それだけなんだ。ケネス、お前は正しいよ。でも、死んだお前は弾き出された。それが結果だ。京子、お前はもう死んでいる。本当はお前と二人で世界に居場所を作りたかった。それだけが俺の望みだった。京子は死んだ。今更それが無性に悲しい。彼女が少しだけ輝いて見えると言った世界を俺はなんとしてでも見たい。ならば、生き続けなければならない。生きる為には自分の頭で考えて、自分の手で戦わなければならない。


 感情が溢れてくる。そうだ、俺はずっと怒っていたのだ。生きたかったのだ。京子のことを愛していた。

でも、もう、夢は見ない。ケネスと言う存在も京子と言う存在もこの世にはいない。いるのは狂おしいほどの俺だけ。そして、俺はあと数秒で死ぬ。死んでたまるか馬鹿野郎。俺はずっと生きたかったんだ。そんな単純なことにこんな土壇場まで気が付かないなんて俺は馬鹿だ。でもまだ遅くない。 


 今度こそ、撃ちぬいてやる。枠線の中を。

 正確に枠からはみ出ないように、向きを間違えないように、傾けないように、滲まないようにしっかり押す。

 俺はスコープで男に狙いをつけて、引き金を引いた。            

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