第2部

 小泉京子です。女優のキョンキョンとは字が違うので気を付けてください。

 彼女がそう言ってオフィスにほんのりと笑いが広がったのを覚えている。

 京子は俺の三つ下の後輩だった。営業課に配属、成績は優秀、しかし優秀さを鼻にはかけず、親しみやすい性格で愛嬌があり、誰からも愛されていたが俺は嫌いだった。怖かったと言ってもいいだろう。


 彼女に人間味を感じなかった。彼女は自分の個性を巧妙かつ丁寧に脱臭し、その上から愛されやすい人格を覆い被しているように見えた。度合いは人にもよるが、社会を生きる人間ならば少なからずやっていることだ。ただ、俺が怖いと思ったのは、彼女が完璧過ぎたことだ。どれだけ取り繕っても個性は隠しきれない。それはふとした拍子に顔を出すものだ。京子もどれだけ完璧な人間を演じていようがフっと感情が表情に出る時はあった。例えば無責任な上司にワッと言葉を投げかけられた時、彼女は一瞬ムっとした顔をする。それを見て、周囲の人間は、京子という女性の人間性を垣間見えた気がして安心したり、共感したりする。言葉を投げかけている上司自身ですら安心しているかも知れない。しかし、俺にはそれすら作られた表情に見えて仕方がなかった。体臭を全て排除し、その上から、かすかに匂うくらいの香水を振りかけているのだ。素顔を絶対に見せない彼女を俺は不気味だと思っていたし、そんな彼女のことが我慢ならなかった。



 彼女と親しくなったのは、彼女が入社して二年目の冬だった。

 小さな会社だったから経理関係の業務については俺がほとんど一人で担っていたし、京子はその優秀さから様々な業務を一手に引き受けていた。そのため彼女と俺の二人だけで夜遅くまで残業する日が多かった。


 そんな時、彼女は俺と積極的にコミュニケーションを取ろうとはしなかった。俺が彼女のことを警戒しているのが彼女にも分かっていたからだろう。

 黙々と目の前の仕事をお互い片付けていった。

 当時、我慢ならないモノが京子意外にひとつあった。

 それは俺の隣のデスクの高橋という社員が机のクリアマットに挟んである絵だ。

 その絵は高橋の五歳になる息子が書いた絵らしく、馬鹿でかい家を背景に、頭だけが不気味なくらい大きな人間が三人立っている。皆一様に目と眉がへの字に曲がっていて、口もカッターで切り裂いたような大きさでVを描いている。笑顔を書いたつもりなのだろうが、どうにも気持ち悪くて仕方がなかった。なんの変哲もない子供が描いた家族の肖像に対してどうしてここまで心がざわつくのか分からない。高橋はその絵を大層気に入っているようで、これ息子に書いてもらったんだ。と言って自慢してきた。本当はその絵をビリビリに破いてしまいたかったが我慢して、素敵ですね、と言って笑っておいた。


 寒い冬の夜、エアコンが気怠く空気を吐く音しか聞こえないオフィスに俺と京子はいた。俺はいつものように資料の数字と文章の整合性を確認していたが、疲れで目が滑っていた。今日は帰って明日の朝早くに作業を終えてしまおうかと考えていた時に、例の絵の中の高橋家族と目が合う。その瞬間、唐突に怒りが湧いてきた。デスクのクリアマットに挟まった稚拙な絵。お前ら全員、笑っているけど、何がそんなにおかしいんだ。殺してやる。顔がこわばり、頭に血が上るのが分かる。衝動的にクリアマットに手をかけていた。


 「え、気持ちわる」

 不意に京子の抑揚のない低い声がした。彼女は近くにいて、彼女も絵を眺めていたのだ。瞬時に血が下がっていき、冷静さを取り戻す。京子は手で口を抑えて、あっ、と苦虫を噛み潰したような顰め面を隠した。

 「なに?」

 「いや、先輩が固まっていたから気分でも悪いのかな? と思って、それで、気持ち悪いんですか? って聞いたんです」

 「流石に無理があるだろ、それ」

 「無理ってなんですか?」

 俺はようやく掴んだしっぽを思い切り引っ張った。

 「気持ち悪いって、この絵のことだろ、安心しろよ、俺も気持ち悪いって思ってるから」

 京子は長い溜息をついて高橋の椅子を引いて座った。

 「確かにこの絵のことキモイって思いました。あとですね、実は先輩のこともずっとキモイって思ってたんですよ」

 そう言って彼女は満面の笑みを俺に見せてくれて、俺は彼女のことが好きになった。お互いがお互いのことを嫌いだったなんて素敵な両想いだ。

 「奇遇だな、俺もお前が嫌いだ」



 彼女とはそれ以降、よく言葉を交わすようになった。彼女は俺の事をキモイと言う割にはよく俺に話しかけてきた。どうして俺に話しかける? と聞くと、やだ、わかんないんですか? と言って彼女は笑った。


 残業終わりによく二人でご飯に行ったり、映画を見に行ったりもした。周囲には付き合っていると思われていたみたいだったが、特に訂正する理由もなかったのでそのままにしておいた。彼女といて嫌な気はしなかった。なぜなら俺たちは珍しくこの星で出会えた同種同士だったのだから。


 ある日、二人でレイトショーを見終わった後、酒が飲みたくなり、安いというだけで選んだチェーンの居酒屋に二人で入ってビールを飲んだ。暖色の光に包まれた店内、周りでは大学生の集団が馬鹿笑いをしていたが特に気にならなかった。重要なのは京子とビールで喉を潤すことであり、その他のことはどうでも良かったからだ。


 「京子はなんでそんなに自分を隠すの?」

 俺がそう言うと、京子は不思議そうな顔をした。

 「先輩がそれを言いますか?」

 「え?」

 「気が付いてないんですか?」

 「なに?」

 「鈍感な先輩のためにハッキリ言います。私は正直、むちゃくちゃ怒っています」

 そう言って、京子はビールジョッキをドンと強くテーブルに置く。彼女の顔は赤く染まり、目は据わっていた。

 「会社のみんなは、私が笑顔でなんでも引き受けるから、なんでも頼んでいいと思っているし、取引先だって、私になら無理難題を押し付けてもいいと思っている。こんなに働いても安月給なのに、たいして働いていない社長は外車を乗り回しているんですよ」

 彼女は一気にそうまくしたて、ビールを一息で飲み干した。

 「京子はすごいな、そんなに怒っているのに、全く態度に出さないなんて」

 俺がそう言うと、彼女は頭を抱えて、なー! と唸った。

 「もう! この人は全然わかっていない!」

 彼女はそう叫んだあと、俺のビールを奪い取り、一気に飲み干した。



 酔いつぶれた京子をタクシーで彼女のマンションまで送り届けたが、おぼつかない彼女の足取りをみて、心配になった俺は彼女の肩を抱いて、部屋まで運び込んだ。

 彼女の部屋は寝具と本棚しかない殺風景な部屋で、彼女は部屋に入ると同時にトイレに駆け込み、便座を抱えて吐いた。俺はその背中をさすったり、水を飲ませてやった。しばらくすると落ち着いたようで、彼女をベッドに寝かしつけた。こんな京子を見るのは初めてで、彼女を愛おしく思う自分に気が付く。京子は布団を抱えて、目を細め、うんうんと唸った。


 「先輩、私なりの世界に対する考察を聞きますか?」

 彼女はうわごとのように、頼りない声でそう言った。

 「是非とも聞きたい」

 俺は膝立ちになり、横たわる彼女を覗き込んだ。

 「重力なんです。私たちを縛っている鎖の名前です。月は地球のそれから逃れられず、地球も太陽系の周りを回るビー玉に過ぎないでしょ?そんな太陽系も銀河系を回り続ける蜘蛛の巣なんです。宇宙に存在するものは重力によりサークルを作り続ける運命なんです」

 「詩的過ぎて、よく分からないな」

 「つまり、私たちは集団というサークルの中で生き続けるしかないのです。私たちは職場というサークルの中のビー玉であり、職場は社会のビー玉であり、社会は日本のビー玉であり、日本は地球のビー玉です。そして、サークルの中の定員数は一定です。だから、私たちは生きる過程で誰かを弾き続けなければならないし、とどまり続けなければならないのです。分かりますか?」

 「なんとなく」

 「そして、私は常に弾かれる側でした。もう、嫌なんです。だから、私は怒っても、悲しんでも、悔しくても我慢して媚びを売り続けます。そうしないとすぐに私は弾かれてしまうから。弱い生き方かも知れませんが、これが私なりのとどまり方なんです」

 彼女は目をつむり、布団を両手足で抱きしめた。その目の端には涙が浮かんでいた。

 「ニール・アームストロングは生き物が溢れかえる地球よりも、水素原子すらない宇宙に対してより深くシンパシーを感じたのかも知れない」

 俺は半ば無意識に、その日見た映画の主人公に思いを巡らしていた。無口で陰気な男、ニール・アームストロング。彼は娘を失い、世間のバッシングを受け、仲間を失い、家族とは不仲になる。それでも、彼は月に向かい続けた。そして、彼は地球に戻ってきた。なぜだろう?


 「月で死んだ方が良かったんじゃないか」

 俺はつぶやいた。

 「先輩はそう思いますか? 私は違います。彼は地球に帰ってきてよかったと思います」

 「どうして? だって、彼は弾かれ続けた末にようやく月にいけたんだ。サークルから逃れられたんだぜ」

 「アームストロングは月でなぜ死ななかったのか?」

 「それは?」

 「疲れました。自分で考えてください」

 そう言ったあと、すぐに京子は寝息を立て始めた。俺は彼女の頬を撫で、その柔らかさが指を伝わったとき、無性に怖くなった。俺は逃げるように彼女の部屋から出て、鍵をかけ、鍵を郵便受けに入れるとマンションをあとにした。


 帰り道、俺は彼女の言葉を思い出した。この世界はサークルで我々はその中を回り続けるしかない。では、その中心にいるのは誰だろうか? 社長? 違う気がする。もっと根源的な何かだと思う。いくら考えても答は出なかった。



 春、俺は部屋でくつろいでいるとき、そうだ、死のう、と衝動的に思い立った。思い立ったが吉日、すぐさま俺はネクタイと、バスチェアを持って、近くの公園に向かった。

 なぜ自殺しようとしたのか、そんなことを子細に説明出来るのならば、そもそも自殺などしないと思う。俺はただ、積極的に死を望んでいたわけではなく、だからと言って積極的に生きることも望んでいなかった。ただそれだけなのだ。


 バスチェアに登って、樹の枝にネクタイを結び付け、首にネクタイを巻き付け、なんの躊躇いもなく、バスチェアを蹴り飛ばし、俺は宙に浮いた。全体重が首にかかり、搾り上げられ、意識が瞬時に遠のいていく。感じたのは恐怖よりも、開放感だった。

 目が覚めた時、病院だった。医師の話では枝が折れて、一命をとりとめることが出来たのだと言う。幸い後遺症もなさそうだった。


 まず、両親が来て、俺を抱きわんわんと声を上げて泣いた。その後、上司と社長が現れ、大丈夫、君の仕事はみんなで回しておくから、ゆっくりして、君がいなくても大丈夫。我々だけでなんとかするから、と彼らは優しい口調で言った。

俺は、泣いたり、心配してくれるくらい俺のことが大事なら、なんで最初から大切にしてくれなかったの? と思った。その思いは心に突き刺さり抜けない棘のようだった。棘の痛みが激しくなれば、ある言葉をお守り代わりに繰り返した。

『正確に枠からはみ出ないように、向きを間違えないように、傾けないように、滲まないようにしっかり押す』

 それを繰り返すと不思議と心が安らぐのだった。

 土曜日の昼過ぎに京子がお見舞いに来た。彼女は何も持っておらず、お見舞いの品はおろかバッグすら持っていなかった。彼女は椅子に座るとぼんやりとベッドに横たわる俺を見下ろした。


 「ねえ、先輩、私と一緒に海外行きませんか?」

 彼女は脈絡もなくそう言うと、両手を俺の体に回し、しっかりと抱きしめてきた。彼女の手に加わる力、柔軟剤の甘い匂い、服越しに伝わる体温、髪の毛が頬を撫でる感触、彼女の存在を確かに感じた。

 「旅行でってこと?」

 「違います。私とこの国を出て生活しましょう。しがらみを全部捨てて、全部最初から始めるんです」

 「どうしたんだ急に?」

 「どこがいいですか?どこの国に行きたいですか?」

 「そうだな、東南アジアとかかな、行ったことないし、近いからお金もかからない」

 「せっかくならアフリカにしたらどうですか。今、チャイナマネーが流れ込んできて、凄まじい勢いで発展していってますよ。既得権益がない分、全てのスピードが速いんです。私なら断然アフリカにしますね」

 「アフリカか、それもいいかもしれない」

 「でしょ?ねえ、いつ行きます?私、結構貯金貯めてますよ。先輩も貯めてますよね、いつでも私はいいですよ」

 「本気?」

 「本気です」

 「どうした、何かあったか」

 「先輩は馬鹿ですよね。勝手に一人で死のうとして、無責任だし、子供っぽいし、呆れて言葉もありません。ずっと傷ついていたんですか? 何がそんなに嫌だったんですか?」

 俺は何も答えられない。ただ、抱きしめられ、肌に伝わる彼女の体温だけが、いやに暖かかった。

 「でも、先輩の気持ち分かる気がします。私だって、消えたいとか死にたいとか、何回考えたか分かりません。ただ辛いんです。言葉で上手く説明出来ないけれど、昔から集団とか、社会に上手く自分を適応できないんです。それでも、生きていく為に、無理して、傷ついて、でもそれが普通なんだって自分に言い聞かせているうちに、自分の痛みにすら鈍感になって、本当に馬鹿みたい」

 「じゃあ、なんで京子は死なないの?」


 俺がそう言うと、京子は少し身体を離し、俺の顔をまっすぐ見据えた。彼女は無表情だったけれど、目の端から涙がこぼれていた。

 「先輩が生きているから。私は私を傷つけるこの世界が大嫌いだけど、先輩がいてくれると、ほんの少しだけ、世界は輝くんです」

 京子は涙を流しながら、恥ずかしそうに少しだけ微笑んだ。そのとき、彼女の鼻から鼻水が垂れ、俺はすぐに拭いてやらなきゃと思ったが、彼女は手の甲で、鼻水を拭きとり、顔を顰めた。泣くのを我慢しようとしているのだろうか。しかし、それでも、目から涙は溢れ続けていた。

 「もしも本当に行きたいのなら、アフリカにでもついていきます。ライオンとかサイを見ながら歳をとっていきましょ」

 「夢みたいな話だな」

 「夢だっていいじゃないですか、今よりもずっといいですよ」

 考えておくよ、と動く唇に京子は自分の唇を押し当ててきた。

 「私は先輩のことが好きです。先輩は鈍感だから全然気が付いてなかったでしょ?」

俺も、と言う前に彼女は病室を出ていった。



 入院中は京子との生活についてずっと考えていた。仕事を辞めて二人で遠いところで暮らそう。もしも彼女が言う通り、この世がサークルなら、二人だけのサークルを作ろう。そして、そこで二人で暮らそう。そんなことを考えると、彼女が言うように、ほんの少しだけ、世界は輝いて見えた。


 しかし彼女は死んだ。ただの事故死だった。難病だったわけでもないし、頭のおかしい通り魔に刺されたわけでもないし、ましてこの世を憂いて自殺したとか、そんな劇的な死に方ではなかった。

 彼女が駅の階段を下っている時、走ってきた男の肩が当たり、突き飛ばされ階段から落ちた。と言っても、転げ落ちたわけではなく、彼女はほとんど階段を下り終わっており、その場でコロンと姿勢を崩しただけだったのだが、頭の打ちどころが悪く病院に運ばれてすぐに死んだらしい。


 呆気なさすぎる死に呆然とした。俺は有難く恋人を亡くした男性を演じた。その方が楽だったからだ。葬儀に参列して、勧められるがままに火葬場まで行き、彼女の死を悼んだ。彼女の両親に励まされたり、泣きながら抱きつかれたが、その詳細について思い出すことは出来ない。


 彼女の両親はの彼女の実家の部屋を見せてくれた。よく整理されていて几帳面だった彼女らしい部屋だった。しかし、主を失くした部屋はその存在価値をなくしてしまう。今やこの部屋は部屋ではなくただの空白なのだ。整理されているが故にその空白が俺の心を強く締め付けた。

 彼女の父親は部屋にアルバムを何冊も持ってきて、自分に言い聞かせるように彼女の人生を語って聞かせてくれた。



 小泉京子は1993年生まれ、小泉家の一人娘として生まれる。子供の頃は甘えん坊でお試し保育ではずっと泣いていたらしい。幼稚園から父の勧めで空手を始める。小学校二年生の時、クラスの女子と揉めて一時的に不登校になるも、翌年からはまた学校に通えるようになる。中学校では卓球部に入る。卒業アルバムには卓球部時代の彼女の写真があった。女の子が五人体育館でピースをしている。全員同じ髪型をしていて、どれが京子か分からなかった。中学二年生の頃、大泣きして帰ってくる。どうやら好きな男子にからかわれたのが原因らしかった。勉強が出来た彼女は県で一番偏差値の高い高校に入る。勉強の為、部活には入らなかったらしい。この頃の写真は特に残っていないみたいだった。卒業アルバムを見ても彼女の姿を見つけることはできなかった。


 彼女は有名私大に入学し、そこでロシア文学を学ぶ。彼女が時折、詩的な表現をする理由はもしかすると、この頃学んでいた文学が原因なのかもしれない。大学時代、研究の一環でロシアに渡っていた時期があり、その頃の写真が彼女の机の上に飾ってあった。どれも一人で写っている。せっかく写真を撮るというのに、彼女は笑いもせず、どの写真でも少し眩しそうに眼を細めているのみであったが、どこか誇らしげだった。もしかすると、この頃が彼女の人生にとって最良の時期だったのではないかと思う。誰にも合わせることなく、研究に没頭する時間は楽しかっただろう。卒業後、彼女は小さな食品メーカーに就職する。彼女の学歴ならもう少し上の待遇も目指せただろうが、彼女はそこに就職することにしたらしい。そして、彼女は一人暮らしを始める。職場で俺と出会い、その数年後、階段から転んで死んだ。


 平凡過ぎてコメントに困るような人生だ。それが小泉京子という女の一生だ。しかし、その取るに足らない平凡さを獲得するため、彼女が犠牲にしてきたものは決して少なくないことは明らかだ。彼女はなんとか円の中へと推進を続けた。しかし、世界は彼女を輪から弾き出した。


 ふいに眩暈に襲われる。目頭を押さえ、その場で片膝をつく、彼女の父親は俺が平静を保てなくなったと思ったらしく、肩に手を置き、大丈夫かい、と言葉を投げかけてきた。大丈夫です。本当に。ただ、ほんの少しだけ一人にしてもらえないでしょうか。すいません。他人の家で、勝手を言っているのは承知ですが。いいさ、気にするな。あの、もしも少し落ち着いたら、君さえよかったら、京子の話をしてくれないか。あの子が職場でどうだったか、あの子が君にどんな話をしたのか教えて欲しい。もちろんです。お伝えします。でも、今は、ごめんなさい。わかった。気が済むまでいてくれ、下にいるから、また声をかけてくれ。


 扉が閉まる。

 俺は彼女の何を知っているというのだろうか。

 彼女のベッドの端に腰かけて、顔を両手で覆い、静寂の中に落ちていくがままにまかせた。重力がなくなり、俺はただ深い闇の中に落ちていった。



 『正確に枠からはみ出ないように、向きを間違えないように、傾けないように、滲まないようにしっかり押す』


 そう唱えながらハンコを押していく。京子が死んでしばらく経った後、俺はいつも通りの生活を再開していた。夜遅くまで働き、ひたすら数字と文章をチェックする。夜、残業しているのは俺だけになった。ただ無心に働く。身体と心が少しずつ軋んで いくのが分かるけれど、それでも働き続ける。そうすると、俺は円の中心に推進しているんだ、枠線の中に留まっていられるんだと言う安心感が湧いてくる。こうしていれば俺は生きていられる。


 「先輩。そういう考え方マジでキモイですよ」

 気が付けば、京子は俺の向かいの席に座り、頬杖をついて俺を見つめていた。

 「俺はどうすればいい?」

 そう言って俺は京子に微笑んだ。

 「簡単ですよ。私とアフリカに行きましょ。ライオンとかサイを見ながら歳をとっていきましょ」


 そうだな、その通りだ。一緒にアフリカに行こう。

 俺は初めて、正確にハンコを押さなかった。枠線から外れた惑星は重力の鎖を断ち切りただ宇宙を推進する。ただのひとつの水素原子すらない孤独な宇宙では摩擦がないからどこまでも進んでいく。

 まとまった金が俺の手元に入った。それを会社の人間たちが気付いた頃、俺はアフリカの空の上にいた。

 「なぜだろう、死にたくなってきたな」

 俺は飛行機の中、眼下に広がるただっぴろい地面を見ながらつぶやいた。

 「アームストロングは月でなぜ死ななかったのか?」

 隣の京子が歌うように囁いた。

 ふと、彼女が少しだけ輝いて見えると言った世界はどこにいってしまったのだろうと思った。

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