はるの宵、ひとの世の外

壱単位

【短編】はるの宵、ひとの世の外


 都の夜は、ながい。


 ようやく律令もゆきとどいたこの時代。貴人はもとより、野のしごとをなりわいとするものも、品々を商うものも、みな、その一日の義務を終えて、ながい夜をたのしむことを知っている。


 うねびやま、とこの都で呼ばれるたおやかな山に陽がおちて、ずいぶんのあいだ、まちの灯りが消えることはなかった。それでもようやく、懸巣かけすのしわがれた声がきこえはじめたころ、人々は火を吹き消し、あすのしごとに備えて眠りにつくのである。


 そのときからも、まだ、しばらく時間がたったころ。


 辻にたつ、しろい影。陰陽師の装束だろうか。だが、まともな方技、みかどの技官がこんな時刻にうろついているはずもない。深夜の散歩、というようすでもない。


 果たして彼の横顔は、ひととも思えない。装束のしろに劣らず、月光をうけて輝く、ととのった頬、顎、ひたい、輪郭。目すじは、たおやかに、というほどに流れ、この時代としてはありえない、異人との混血をもおもわせるような、ふかい紺の、瞳。


 「……ようやく、会えたな」


 ふところの懐紙、呪詛のことばがしるされたそれに手をのばしながら、彼はつぶやいた。相手にきこえているとも思えなかったが、言葉はとどいていた。


 「ようやく、とは……?」


 白狐。いくつかの、ふわっとした尾。わかい女だが、方術をわきまえない世俗のものがみても、その面影はしろきつねとしか形容のしようがない。妖しく、美しく、死へのいざないに満ちた、天界のものとも黄泉ののろいともおもえる、たたずまい。


 五条のはしの欄干に、白狐はたち、歩み寄る彼をみおろした。


 「ことばのままだ。探した」


 「あたしを? そんなに、しにたかったのか?」


 白狐がわらい、愉快そうにほほに手をあてた。


 「俺のことをしっているか」


 「……ああ、しってるよ。よぅく、ね。都の妖でおまえを知らないものはない。おまえ、陰陽寮では、つまはじきものなんだって?」


 彼は応えず、ひだりの手で奉紙をとり、みぎの二本の指を揃えて、そらに向けた。


 雷鳴。光の筋が欄干をうつ。しかし、そこに白狐はいない。


 ふわりと跳んで、彼のうしろにいた。


 「せっかく会えたのにね。おまえの綺麗なかお、血で汚したらごめんね」


 爪が奔る。


 鋭い一撃は、だが、彼の手の甲で弾かれている。


 そのまま身体を半回転させ、相手のふところに入る。白狐は膝を打ち付けようとしたが、それも肘でふせがれる。陰陽師の目が、ひかる。手印のかたちが変わる。妖のうごきが縛られた。


 振り解こうとして、よろめいて膝を折る、白狐。彼はそれを、冷ややかに見下ろしている。


 「……やはり、か」


 「……?」


 「貴様。なぜ、ころそうとしない」


 白狐は抵抗の身動きをとめ、彼の目を見返した。


 「……なにがだ」


 「やろうと思えばできた。なぜ、俺をころさない」


 「……知るか。さあ、そっちこそあたしをころせ」


 白狐が目を閉じる。陰陽師の手が、彼女の首にのびたからだ。そのくちが、やっとおわる、と動いたのをこの場のたれも目撃できていない。


 背をだかれ、頬に、ひたいに、彼の滑らかな肌の感触。


 白狐はうごけず、声を漏らした。


 「な、お、まえ」


 「……貴様は、拾われた。あのお方に」


 「……」


 「病弱だった、あのお方。きっと、山狩りでおわれた貴様を、みずからになぞらえたのだろう」


 陰陽師の目が、正面から、白狐をみる。敵意がない。白狐の銀の瞳が、ひるんだ。


 「あのお方は、はやくになくなった。貴様は、泣いただろう。なきがらは、抱いたのか。抱かせて、もらえたのか。しあわせがながいほど、夜もながかったはず」


 「……」


 「貴様が、あの方のねがいのままに、この都を護ろうとしたのを知っている。魍魎を退け、わざわいを打ち消し、ひと知れず辻に立ち続けた。どれだけ誤解され、疎まれ、憎まれようと。貴様じしんのいのちが、つきるまで」


 「……ちがう。あたしは、都を護ろうとしたんじゃない。あのひとの、墓を、想い出を、あたしは」


 強く抱きしめられて、白狐のいきが、すこしの間とまった。その目が濡れている。彼女自身も、そのことにきがついていない。


 陰陽師の背がわれ、ふわりとひらめきだす、黄金の尾。


 「……貴様は、あの方の、匂いがする」


 月に雲がかかって、しずかな、宵がおりた。

 

 

 

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