夜   道

青空野光

金曜日・深夜・町外れ

 満天の星の下を歩いていた。

 夏の虫たちが思い思いに各々が得意な楽器を奏でるメロディーを聴きながら。

 時刻はたぶん、二十二時を少し回ったくらいだろうか。

 もっともそれも、時計を見たわけではないので定かではないのだが。


 僕がここにいるのは何を隠そう、散歩をしているからなのだ。

 が、それは別に夜である必要などはなかった。

 では、なぜこの時間帯に散歩をしているのかといえば、ほんの一時間前までは自宅で仕事に追われていたからに他ならない。

 夏の夜風も堪能したし、そろそろ家に戻ることにしようか。


 気分転換でやってきた自宅近くのこの場所は市の外れゆえに閑散としており、駅前にこそコンビニや数軒の居酒屋があるが、そこから三分も歩けばわずかな住宅と田畑があるのみだ。

 ここから歩いて十分の場所に僕の住処たるマンションはあるのだが、その途中にある小さなトンネルなどは明かりも一切なく、十数年前には若い女性が刺殺されるという痛ましい事件があったといった噂も聞いたことがある。

 もっとも僕は、もともと心霊といった類のものを信じる質でもないし、逆にそんなものが存在するのであれば見てみたいとすら思っているクチなので、その噂にしても偶然耳にして知っているだけであり、だからどうこうといったことではなかった。

 では、夜道をひとりで歩くことが全く平気なのかと問われると――実はそうでもなかったりする。


 先ほどから十五メートル先を、僕と同じ方角へと向かい歩みを進めている人物がいる。

 闇の中にかすかに浮かんで見えるシルエットからして、恐らく若い女性なのだろう。

 その足運びは非常にスローリーであり、その気になればものの数十秒で追い抜かすことも可能だ。

 ただ、それはあくまで理論上可能であるという話であり、こんな夜道で背後から早足で若い女性に近づこうものなら――。

 それは、想像しただけでも鳥肌が立つほどに恐ろしく、僕は数分前から彼女よりもさらにゆっくりとした歩みで進んでいた。


 そんなこんなで二〇〇メートルほども歩いると――それは突然に起った。


 三〇メートル先を歩く人影が突如として立ち止まる。

 僕もそれと同時に、まるで『だるまさんが転んだ』でもしているかのように、彼女とほぼ同タイミングでピタリと動きを止めた。

 この時点でもう――帰宅途中という正当な理由があるとはいえ――不審者だと思われても仕方がないような気もしたが、かといってそれ以外の選択肢があるようにも思えなかった。


 そうして十秒ほど気配を殺していると、彼女はくるりと回れ右をするや否や、先ほどまでの亀のようなスピードは何だったのだと問いたくなるような早足で、みるみるうちにこちらへと歩いてくるではないか。

(これは――もしかして詰んだのでは?)

 両手首に銀色のブレスレットを嵌められ朝刊の三面記事に載った自分の姿が脳裏を過る。


 背中を伝った冷たい汗が腰まで達するのを感じた時、彼女はついに俺の目の前にまで迫っていた。

 石膏像のように固まっている俺の前まで来た彼女は、水面に落ちてきた羽虫を捕らえようとする川魚のように口をパクパクと開閉すると、こう言った。

「なんで追いついてきてくれないんですか!」

 僕はなぜいま、怒られているのか。

 その疑問は彼女が直後に続けた言葉によって判明する。

「この道、真っ暗だから怖くって……。でも、あなたが後ろからついてきてくれていたから、私、わざとゆっくり歩いてたのに」

「……はい?」


 俺には女性が何を言っているのか、わかったようなわからないような――とにかくそれは、狐にでも摘まれたような気分だった。

 水色のノースリーブワンピースを着た彼女は、長いまつげを擁した大きな瞳に薄っすらと涙まで溜めている。

 多分きっと恐らく、僕には何ひとつ悪いところなどなかったはずだ。

 が、超間接的にではあれ、彼女に怖い思いをさせてしまったことは申し訳ないような気がし――いや?

 まあ……互いに何もなかったことは幸いだった。


「あの、どちらまで行きますか?」

 彼女は黙ったまま立っていた俺にタクシー運転手のような質問を投げ掛けてきた。

 その意図はといえばやはり全く以て不明だったが、この状況下で無視を決め込むわけにはいかないだろう。

「えっと。ここから五分くらいのところにある自宅――メゾンカササギですけど」

 築五年の二階建てRC工法の賃貸物件だ。……どうでもいいか。

「えっ? そこにお住まいなんですか?」

「ええ。205号室です」

 唐突に始まった世間話に油断し、ついうっかり余計な個人情報を漏洩させてしまった。

「私、201号室です」

 201号室? ――ああ。

 そこは先週までは空き部屋だったはずだが、いつの間にか人が入っていたのか……って。

「……ん?」

「……はい」

「「あの、どうもはじめまして」」



 というのが、僕と彼女の馴れ初めだったのだが――。

 あの時は、暗闇のなか距離を取り歩いていた僕と彼女だったが、今日という日に至り歩調までも合わせて、ステンドグラスから陽の降り注ぐバージンロードを共に歩んでいるのというだから……。

 人生は小説よりも奇なりとはいうが、本当にもう――ね?

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