刹那。宙を黒の塊が舞い飛んだかに見えた。それは背赤の胸元へぶつかると、その巨大な魔物を弾き飛ばした。

 ゴウの耳が元へ戻り、背赤が巻き上げた小石が降る音が聴こえてくる。指が、腕が、体が次第に鈍く動かせる。

 起き上がると眼前に、黒の外套とそれを纏った大きな背中があった。目の霞みが晴れると、ゴウははっきりと分かった。大男。背を向けて立った、頭の頂に二本のツノを持つこの男が、あの背赤を弾き飛ばしたのだ。

「ほう、強いな。あれを受けて、もう起きるか」

 男が野太い声を発しながら振り向く。牛の頭だ。ゴウは思った。きっと、そうだ。この男こそが……。

堕龍人殺だろうどごろし……」

 そのゴウの呟きに、大男は鼻息を漏らしながら微笑した。

「その二つ名か。童よ。お前の名は?」

「ゴウ」

 言いながらゴウは立った。

「俺は牛頭ごず牛頭法士ごずほうしと名乗っている。ゴウよ。見せてもらった。お前の蹴り、見事だった。俺の技も見ていくと良い。そこへ下がっていろ」

 低く太いのに、穏やかに話す。自分もまだやれると言いたいところだが、彼の言う通りその技を見てみたい。ゴウは牛頭法士に頷き、ゆっくりと離れていった。

 背赤が立ち上がり、牛頭法士へ向けて咆哮を上げる。鼓膜を裂きそうな、これまでで一番の大きさだ。山の中で獣と魔物とを見てきたゴウには分かる。あれは、威嚇。どんな生物も、身に危機が迫り恐怖を感じた時に闘うか逃げるかの選択を迫られる。威嚇は闘うを選択した際の反応だ。それが大きいのであれば、感じている恐怖も大きい。

 牛頭法士はそれを前に、外套を脱ぎ捨てた。青紫の衣を纏った、筋骨隆々とした体が姿を現す。短い袖から伸びた黒毛の丸太のような太い腕は、熊と比べても見劣りしない。

「氣法、一の輪」

 牛頭法士が深く息を吸った。その瞬間、大ツノを持つ男の纏う空気が膨れ弾ける。それは突風となった。ゴウの全身を打つ空気が重い。

 凄まじい。センエの一族の長や猛者達の使う氣法とやらも力強いと感じるが、牛頭法士はそれを上回る。ゴウの見よう見真似と比べるのもおこがましい。

 牛頭法士は、その両腕を頭上へ掲げて仁王立ちとなった。あれは構えだろうか。大熊の威嚇に似ている。武器は持たず徒手で闘うらしい。

「あんた、その歳の頃で大したもんだねぇ」

 その緩りとした女の声に、ゴウは振り向く。その姿にヒナノは丸い眼を更に丸くしていた。遠くへ逃げた退治屋の男達の眼も、何故かその彼女へ釘付けになっている。女はそれを楽しむかのようにゆっくりとゴウへ向け歩いてくる。

 緋色の長い髪が風に踊っていた。ゴウを見据える二つの眼は、切れ長で光が鋭い。引き締まった頬と口元からは気だての強さを伺わせるが、整った美しい顔立ちだった。皆の眼を釘付けにさせていたのはその出立ちからだろう。着物の肩を大胆に肌けさせその豊かな胸の谷間まで見せ付け、非対称の裾元から伸びた右脚には、その白肌にピタリと吸い付くような黒の長い脚絆を纏わせていた。

 ゴウは思った。変わった格好だ。何故退治屋は、人の目を惹く派手な出立ちをするのだろう? 理由があるのか、それとも派手好きの変わり者が退治屋になりたがるのか?

「もしかして、火狂い……さん?」

 ヒナノが緋色の髪の女に向けて言った。

「あらら。こんな子供にまで、その二つ名が知られちまってるのかい。アタシも嫌に有名になっちまったもんだ。ところであんた、癒しの魔術が使えるねぇ。早くその子を治してあげなよ」

 彼女の言葉にヒナノが驚きの顔をする。見抜けるものなのか。ゴウは思わず火狂いの切れ長の眼を見詰めてしまった。この人も只者ではない。

「え、なんで分かるの? で、でも、そうだよね……」

 ヒナノは、ゴウへ癒しの魔術、水癒を施した。ゴウの体の痛みが瞬時に消えていく。

「ゴウ、どう? もう痛くない?」

「うん。ありがとう、ヒナノ」

 ゴウはもう治ったとばかりに、腕を肩から回して見せた。

「あんた、ヒナノちゃんっていうのかい。あんたも大したもんだ。ここは川原で水の元素が濃いとはいえ、傷も瞬時に癒えたし、練魔に淀みがない」

「そんな。私はこれしか出来ないし」

「それしか出来ないなら、それが才ある証さ。存分に誇りなよ」

 ヒナノは、火狂いの顔を大きな丸い眼で見返し、一つ大きく息を呑んだ。いつもの彼女だったら、すぐに感じた言葉が出ているところだ。ヒナノでも言葉が出てこない。しかし、何も感じていないはずはない。ゴウがあまり見ない姿だ。

「見てな。あの大熊、ようやく動くよ」

 火狂いが顎をしゃくって見るように促す。ゴウが見ると、背赤は威嚇を止め、四つの脚で地を掴み頭を低くした。

「こい」

 牛頭法士が低く言い放つ。その言葉を解したかのように、背赤は猛然と突進した。砂土小石が舞上がる。その脚が鳴らす音が激震となって、その場に立つ人どもの体を揺さぶった。

 背赤の大きく開けた口の牙が牛頭法士へ届く、その刹那だった。空が爆ぜたかのような音が鳴り響くと共に、大熊の首があらぬ方向へ曲がっていた。魔物は自分に何が起きたかも分からないのだろう。体を痙攣させ立ち尽くすばかりだった。

爆振子はぜふりこ

 牛頭法士が唸るように言った。今彼は技を放ったのか。

「俺には、牛頭さんが、腕を横へ振っただけにしか見えなかった」

 ゴウは牛頭法士へ眼を離さず言った。

「へぇ。あれが見えたのかい。爆振子はぜふりこ。掌を椀のように丸めて素早く振り抜く。当たった瞬間掌に溜まった空気が爆ぜ、その音と振動と共に敵の内部を砕く。そんな技さ。まあ、あれで大熊の首まで折っちまうのは、牛頭法士が呆れるくらいの剛力だからさ」

「ひぇー」

 火狂いの言葉に、ヒナノは悲鳴とも付かない声を漏らした。

 ゴウは腕を振って身振りを真似してみる。こんなことで空気を爆ぜさせることが出来るものなのか。

 背赤が後ろの二の脚で立ち上がる。首が折れ、重く巨大な頭がだらりとぶら下がるようだった。

「ウソでしょ……あれで、動いた」

「うん。あれが魔物なんだ」

 魔物と普通の生き物の違いは、体格の大きさと獰猛さだけではない。この生きる執念深さと言おうか。それの強さがまるで違う。ゴウも以前一族を襲った狼の魔物が、首だけで動くのを見たことがある。その為、センエの一族では、魔物の命を奪うのに一切の躊躇も慈悲も与えてはならないと教えられている。

 そんなヒナノとゴウの会話に、火狂いは薄く笑いを浮かべていた。何やら含んでいるのだろうが、どこか柔らかい。

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