本屋生まれのドーナツ

いりこんぶ

第1話


 晩ごはんが決められなくて、本屋に行った。

 その時のわたしは本当に焦っていた。

 ストッカーにはじゃがいもと玉ねぎと人参を常備していたし、冷凍庫にはしいたけの薄切りとねぎの小口切りとカットした豚バラ肉と甘辛く下味をつけた鶏もも肉があることはわかっていた。各種調味料やスパイスに欠けもなく、どうしようもない時にさっと食べれるレトルト食品だってたくさん準備していた。

 していた筈だったんだけど。

 なにがあったわけではないのに、どうしようもない半透明な心だけがあった。


 わたしはごはんを作るのが好きだ。

 一週間分の献立をざっと考えてスーパーでお買い物するのも、電車に乗りながら使うべき食材と食べたいもののバランスを考えるのも、手を洗って部屋着に着替えてエプロンを着けてスイッチを切り替える感じも、できたご飯を食べるのも好きだ。見栄え良く作れた日には写真を撮って、スマホの中に残った鮮やかにニッコリしたりもする。

 だけどその日はちっとも楽しくなかった。楽しくない自分に混乱した。家に帰ってもまだ楽しくない自分だったらと思うと怖かった。

 それで、本屋に避難したのだ。


 駅ビルの中にある本屋は広くて明るかった。料理雑誌やレシピ本でも眺めて助けにしようと思っていたのに、気付けばふらふらと店内をさまよっていた。

 その時の自分に必要なのは、白菜の使い切りレシピでもフライパンひとつで作る主菜のことでも居酒屋風絶品おつまみのことでもなかった。

 それで、わたしはたくさんの文字を食べた。

 バリ島の寺院の写真を眺め、毎日十五分でイタリア語が完璧になるという本で「カズヤは桃を食べます」というフレーズを覚えて、次の本を探すうちに忘れた。わたしの頭の中にはカズヤが桃を手に持ったイラストだけが取り残された。

 時代小説の棚にシリーズものの文庫本の背がずらりと並ぶのを見た。医療コーナーを歩きながら堂々とインチキくさいタイトルに口を尖らせ、看護学生向けの本のイラストの可愛らしさに微笑んで、いかにも医学でございという類の専門書の前は足早に通り過ぎた。

 音楽雑誌のコーナーの後ろはアイドルの写真集で、その奥には楽器の教本があり、サックスフォン特集の棚にはおそらく手入れなどに使うであろういくつかの雑貨が置かれていた。

 文房具コーナーに辿り着いたわたしは実用的なノートとファンシーなメモ帳のどちらも愛しく思う。0.1から太さを細やかに刻むボールペンたちと、装飾のために存在していると全力で主張するラメ入りパステルカラーのミルキーペン。

 わたしは半透明の心がどんどんと満ち足りていくのを感じる。

 茶色のゲルインキボールペンを手に持って、試し書きの紙に丸を描いて、少し考えてから中にもう一つ丸を描き入れる。同じものを二つ描くと、ドーナツが3つ出来上がった。

 ふふふ、と心の中のわたしが笑う。

 駅ビルの中にはドーナツショップが入っている。

 わたしはドーナツを食べながら読む本を考えることに決めて、また本屋の中を歩き出す。

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