僕らは青木まりこ現象の奴隷だった

御角

僕らは青木まりこ現象の奴隷だった

 便秘の時は本屋に行け。それが、幼い頃に祖母から教わった、唯一の知恵だったように思う。

 流行り病に倒れて呆気なく亡くなった祖母の死に顔。泣きながら眠る直前に見た両親の潤んだ瞳。そんな光景が、まるで昨日のことのように頭をよぎっては、端からポロポロと崩れ落ちて消えていく。

「この古本屋も、ずいぶんボロくなったなぁ……」

 薄汚れた一冊を棚から取り出し、表紙をめくる。変色した紙に、滲みきった文字の羅列。とても保存状態がいいとはいえない本の数々から、あの独特の、懐かしくかぐわしい匂いがふわりと漂う。

 一緒だ。朝日に照らされ朽ちていくこの本屋も。そして僕の中に残る思い出も。永遠というものは、この世に生きている限り存在しない幻想なのかもしれない。

「病院の予約まで、あと小一時間はあるし……久しぶりに立ち読みでもしようかな」

 誰にともなく呟いた独り言は、やがて清掃ロボットの駆動音に上書きされていく。心地よい喧騒に鼓膜をしばし預けながら、僕は古びた本のページを確かめるように捲り続けた。

 ペラ。ペラ、ペラ。グルル。干からびた紙がれる音に混じって、自らの腹がかすかにうなる。

 朝食は既に終えていた。祖母の言葉が、再び脳裏を掠める。

「あ、青木まりこ現象……」

 空腹ではない。これは便意、純然たる便意だ。昨日さくじつ、口に入れた補給用完全栄養食が、まさかこんなにも早く大腸に到達していたとは。古本の香りは依然として、腸の蠕動ぜんどう運動を優しく促し続ける。

 額を走る脂汗は手元の本にシミを作り、おぼつかない視線はトイレを求めて彷徨う。しかし見つからない。昔はあったはずのお手洗いが、なぜかどこにも存在していないのだ。

 店員に尋ねる余裕などない。というよりも、もはや一刻の猶予もない。僕は本をなかば乱暴に棚へと戻し、古本屋から猛スピードで立ち去った。時速四十キロは出ていたのではなかろうか。どうやら便意は、人をウサイン・ボルトに変えてしまうらしい。


 ない、やはりどこにもない。コンビニ、スーパーを辿り、トイレを探して三千里。ついに目的地である病院にまでついてしまった。

「先生! 先生ー!」

 予約時間前であることなど知ったことか。こちとら、人間としての尊厳がかかっているんだ。手段を選ぶ段階は、とうのとっくに過ぎている。

「なんだね、君。私は今、充電中なんだよ」

「すみません。しかし、どうしても我慢できなくて」

「なんだい。そんなに早く電脳化したいのかい? 昨日はもう少し生身を楽しみたいだのとのたまっていたじゃないか」

「無理です。限界です。だって……いくら機械化が進んだからって、トイレがどこにもないなんてあんまりですよ」

 原因不明の流行り病が人々を死に至らしめてから数百年、結局特効薬を作り出せなかった人類は、ゼロとイチの世界へ逃げ出した。一部の人達は、金の力で肉体をコールドスリープさせ、特効薬が出来上がるその日を夢見て眠りについたという。……そう、例えば、僕のような御曹司とか。

「そりゃ、必要ないからね。はは、そういえば、伝えるのをすっかり忘れていたな。食料を渡すだけ渡して、その後始末にまで考えが至らんかった。こりゃ失敬」

「笑い事じゃありませんよ! もう既に、僕の尊厳はリノリウムの床を黄土色に染め上げてしまいそうな勢いですよ! どうしてくれようか、このヤブ医者め」

「わかった、わかった。全く、これだからボンボンの相手は嫌なんだよなぁ」

 排泄物ごと体を脱ぎ捨て、意識を電子の海へと沈める。記憶が、砂の城のようにもろかった僕を構成する全てが、真っさらな世界に粒の一つまで鮮やかに固定されていく。

 生きている限り、永遠などない。しかし、ならばこれは。行き着くところまで行ってしまったこの世界は、かつての死後の世界と同義なのだろうか。ただトイレが存在しないというだけで、僕は自殺したというのか。

 ……笑える。しかし、口角を引き上げる筋肉が存在しない今となっては、笑えない冗談だ。

 僕が生きた証は、圧縮されて発電のための燃料となる。シャットアウトされた嗅覚は、びた鉄の匂いも、嗅ぎ慣れた硫黄の香りも、何も感じさせない。きっとあの古本屋でも、二度と青木まりこ現象は起こらない。

 そう思うと、ふと、古本のカビ臭さが恋しくなって。今はなき大腸が、グルルと刺激されたような錯覚を覚えた。

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