ぼくの腹筋しりませんか

十余一

ぼくの腹筋しりませんか

 体格の良い男がそのユーラシア大陸の如き広背筋こうはいきんを丸めて何かを探している。子持ちシシャモのような下腿かたい三頭筋さんとうきんに草木が擦れるのもいとわない必死さに、思わず声をかけてしまった。


「何かをお探しですか? お力になりましょう」

「ありがとうございます。実は……、腹直筋ふくちょくきんを探しているのです」


 男は清潔感のある真っ白なタンクトップをめくり腹部を見せてくれた。大根を下ろせそうなほど隆起した腹斜筋ふくしゃきんのとなり、腹直筋があるはずの場所がぽっかりと空いているではないか。6LDKだったであろう腹筋も、今や5LDKだ。


「午前のトレーニングを終えたら飛び出してどこかへ行ってしまいました。幸いにもプロテインを飲んだあとだったので、筋育にはあまり影響ないと思うのですが……」


 男の筋肉はノーベル筋肉賞を受賞しそうなほど仕上がっているというのに、覇気がない。マッチョの枯山水に涙の洪水が押し寄せてしまいそうだ。


「いったい何がいけなかったのでしょう……。きちんと計画的に鍛えて、しっかり休養日も設けていたというのに」


 男の溜息に呼応するように、威嚇いかくせんばかりの僧帽筋そうぼうきんもすっかり意気消沈している。その肥大化した大腿だいたい直筋ちょっきん腓腹筋ひふくきんを見て裸足で逃げ出したスキニージーンズも、思わず寄り添い慰めることだろう。


 このままではプロポーションおばけが成仏してしまう。私にできることが、何かないだろうか。

 残念ながら彼の腹直筋の行方は見当もつかないが、家出の原因には少しばかり心当たりがあった。


「失礼ですが、普段は何味のプロテインをお飲みで?」

「バニラ味がお気に入りで、そればかり飲んでいますね」

「なるほど。たしかにバニラ味は美味しい。私も大好きです」


 いったい何の話が始まるのだろうと、ダチョウの卵のような上腕二頭筋が不安に揺れる。そこまで鍛えるにはきっと眠れない夜もあっただろう。


「ところで、人間の食の好みは腸内細菌によって左右されるという説があります。ここからは自論なのですがね、プロテインの好みに限って言えば、腸内細菌よりも筋繊維の影響が大きいのではないかと思うのです」


 彼にも私の意図が伝わったようだ。全ての道がマッチョに通じているくらい明らかな条理なのだろう。別の言い方をするならば、マッチョ、マッチャー、マッチェストの変化法則のような明確さだ。


「プロテインの味は実に多種多様ですよ。新鮮採れたて肩メロンのようなメロン味、腹筋板チョコバレンタインのようなチョコレート味。爽やかなミックスベリーやヨーグルト、まろやかな甘みのミルクティー、ソルティッドキャラメル、プリン。変わり種の微炭酸コーラ味。しょっぱい系ならばコーンポタージュ風味や味噌豚骨ラーメン風味まであります。気分転換に、色々な味を試してみたらいかがでしょう」


 男の神々しいまでの脊柱せきちゅう起立筋きりつきんが喜びにうねる。男は大頬骨筋だいきょうこつきんを大きく動かし礼を言うと、カニカマの千倍はあろうかという大腿筋だいたいきんで駆けて行った。無事に腹直筋と和解できれば良いのだが。

 素晴らしき筋肉の若人に幸あれと願わずにはいられない。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぼくの腹筋しりませんか 十余一 @0hm1t0y01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ