エピローグ 芭蕉の懸念

 いざ旅に出てみると、万事に几帳面な曽良は有能ぶりを発揮した。

 神道に造詣が深く、日光東照宮をはじめとする神社仏閣の由来などについても博覧強記なのである。

 しかも、旅先にいる芭蕉の後援者、門下の有力者に書簡を送り、芭蕉の食べたいもの、訪れたい場所などをあらかじめ知らせておくという抜かりのなさであった。そのため、芭蕉は各地で歓待を受けながら、旅をつづけた。


  江戸深川を晩春に旅立ち、5月9日、松島を遊覧す。

 島々や千々に砕けて夏の海

 その10日後、平泉中尊寺参拝。

 夏草や兵どもが夢の跡

 半月後の5月27日、山寺立石寺参拝。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 さらに最上川を下る舟の上で、

 五月雨をあつめて早し最上川


 曽良は仙台城の出城といわれた瑞巌寺や伊達領内の港などを丹念に見てまわり、旅日記につけていたようであるが、芭蕉はわれ関せずで句をひねった。


 7月27日、加賀山中温泉に逗留中、曽良が病に倒れた。

 ひどい腹痛にあえぎながら、曽良が言う。

「お師匠さま。最後までお供できず、誠に残念ではございますが、ここでお別れいたします。ここでしばらく療養し、少し快方に向かいましたら、伊勢長島の縁者のもとに身を寄せる所存でございますので、わたくしめのことはご放念いただき、お先にお発ちください」

 行き行きて倒れ伏すとも萩の原(曽良)


 曽良と別れた芭蕉は、8月21日、最終地点の美濃大垣に到着し、約5カ月600里の旅を了した。

 そして江戸にもどって50句を収録した清書本『おくのほそ道』を完成させた3年後の元禄7年、大坂にて病に倒れた。

 病の床で熱にうかされながら、芭蕉は俳諧に賭けた自分の人生が、そして吟句が果たして後世に評価されるか、大きな不安を抱えていた。

 あと3年の命があれば、『おくのほそ道』を超える俳諧の――いや、もう言うまい。言うても、死の床にあっては、もはや詮ないことであった。

 夢は枯野を廻り、不安も死の床を廻った。

 芭蕉享年50。

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る


 一方、曽良はその後、徳川家宣の命により、幕府巡見使となり、九州各地を巡るが、巡見の途上、壱岐で病没した。享年62。

 春に我乞食やめてもつくしかな

 それが辞世の句であった。


 ――了

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松尾芭蕉の憂鬱 海石榴 @umi-zakuro7132

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