第3話

「熊避けの鈴を、鳴らしながら進もう」


 リーダーがリュックから取り出した鈴を鳴らす。

 もっと早く使っていればと思わなくもなかったが、今まではとても鳴らす暇がなかった。

 だけど鈴を鳴らし続けさえしたら、もう熊は寄ってこない。男は自分にそう言い聞かせながら、リーダーの後へと続く。


 そして歩きながら考えたのは、もう一人の仲間のこと。

 二度目の襲撃の後、テントから逃げ出したのは見たけど、その後どうなったかは分からない。


「矢島さんは、上手く逃げられたでしょうか?」

「アイツなら、きっと大丈夫だろう」

「……そうですね」


 その言葉に根拠なんてないと分かっていても、信じるしかなかった。

 ジャラジャラと鈴を鳴らしながら、真っ暗な山道を進んでいく。


 そうしてどれくらい歩いただろうか。

 いったい今、どの辺にいるのか。分からないけど、リーダーについていけば帰れる。この恐ろしい山から抜け出して、暖かな日常に戻ることができると。そう信じたかった。しかし……。


「グルルゥゥゥゥ」


 鈴の音が響く中、不意に背後に気配を感じ、その瞬間男から血の気が引いた。


(まさか、嘘だろう……)


 恐る恐る振り返ると、そこにあったのは巨大なヒグマの姿。


 月明かりに照らされたソイツは口元が血で赤く染まっていて、次の獲物を狙う目で二人を見る。


「く、来るなー!」


 リーダーが慌てて鈴をジャラジャラと鳴らすが、ヒグマは一向に立ち去る気配がない。


 二人は知らないのだ。ヒグマがテントで殺された仲間だけでなく、もう一人の仲間も既に手にかけていて、すっかり人間に慣れてしまっていることに。

 熊避けの鈴が効くのは、人に慣れていない熊に限ってのこと。人間に慣れ、獲物と捉えた熊にとっては、鈴はむしろ居場所を知らせるための道具となる。


(何でだよ。どうして何度も、俺達を襲うんだ!)


 しつこく何度も現れるヒグマ。しかしその原因が、自分達の行動にあったことに、男は気づいていない。

 最初テントを荒らされた後、ヒグマが物色した荷物を、男達は持っていった。それこそが彼らの犯したミス。

 ヒグマは狩猟本能の強い生き物。そんな熊にとって、男達は自分の獲物……本来男達の持ち物である荷物を持って行かれたのは、横取りされたのと同じ。

 理不尽な話だが、ヒグマにとっては獲物を横取りした男達こそが悪。だから荷物についた匂いをたどって、追いかけてきていたのだ。

 あの時荷物をそのままにしておけば、何度も襲われずにすんだだろうに。


 そして今、ヒグマは男達にその牙を向けようとしている。


「お、お前は逃げろ」

「えっ?」

「うわああああぁぁぁぁっ!」


 リーダーは無謀にも、身一つでヒグマに挑んでいく。

 せめて男だけでも守らなければ。チームを率いるリーダーとしての責任が、彼を動かしたのだ。

 だが……。


「ガルルゥッ!」

「あぁっ!」


 ヒグマが手を振り上げ、リーダーの断末魔が響く。


 男の目の前で、頼れるリーダーは命を落としたのだ。あまりにあっけなく、消え失せた命の火。

 しかしヒグマは、まだ満足していない。今度は男に、鋭い目を向けた。


(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!)


 男はヒグマに背を向けて走り出す。

 だけど黒い怪物は、それを追いかけてくる。


 本来熊相手に、背を向けて走るのはご法度。

 熊は逃げるものを追いかける修正があり、目を合わせたまま少しずつ後退りするのが正しい逃げ方であり、男もそれは知っていたはずだが、冷静な判断ができなくなっていた。


 逃げられるはずがない。ヒグマは走れば、時速60キロにもなるのだ。

 あっという間に男に追い付くと、鋭い爪を背中に振り下ろす。


「があっ!?」


 声にならない声を上げて倒れ、ゴロゴロ地面を転がる。

 引き裂かれた背中が、燃えるように熱い。

 そうして仰向けになった男にさらに追い討ちをかけようと、ヒグマが迫る。


「た、助けて……」


 助けを求める声は、誰にも聞こえない。ここは人里離れた山の中で、一緒に来た仲間も、みんな逝ってしまったのだから。


 いくら逃げても匂いをたどって追い掛けてきて、走っても追い付かれる。戦っても丸腰の人間では絶対に敵わない、恐怖の存在。

 それはホラー映画に出てくる怪物と、何も変わらない。目をつけられたら、死を待つ運命。そんな山の怪物が、男の体にのしかかる。


「や、止め……」

「ガアァァァァッ!」


 眼前に迫るヒグマ。それが男が見た、最後の光景。


 次の瞬間、ヒグマの鋭い爪が男の喉笛を引き裂いた。



 了

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ある日山の中ヒグマさんに出会った♪ 無月弟(無月蒼) @mutukitukuyomi

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