危うい一瞬

 陰鬱いんうつな空模様。

 窓をたたく雨と木の葉を揺らす風。

 曇天どんてんに覆われ、夜のように暗くなった空の下。


「ユゥエン=リャン、入ります」


 重たい扉が開く音がする。

 部屋の四隅にある扉から姿を現したのは、一人の少年だった。


 わずかにかかる短い黒髪を耳に掛け、白磁の肌があらわになる。まろみを少しだけ残した輪郭。伏せられたまぶたの隙間からのぞく瞳は青く深く透き通り、わずかに揺れるまなざしに緊張がにじていた。

 身丈の全てを覆う黒衣をまとい、数歩足を進めて部屋の中央に立った。



 此処ここはカレン魔法薬師養成校。

 フェルフェ学園のうちの一つであり、魔法薬の調合を専門に学ぶ学校である。

 魔法薬師を目指す生徒たちは、この学校で様々なことを学ぶ。植物や動物を含む生物学、調合に必要不可欠な化学、一般の薬と隔絶するための魔法学。

 日夜知識を詰め込んだ果てに、試験が行われる。


 今日はその試験の日であった。


 幾度か深く息を吐いて呼吸を落ち着かせて、ユゥエンは面を上げた。

 視線の先には軽薄な笑みを浮かべる女が、深く椅子に腰掛けて座っている。彼が立つ場から一段上の台座に据えられた椅子。


 座る彼女と視線が交わる。

 らすことなく見据えてくる瞳に耐えられられなくなったのは少年の方だった。視線を背けた少年に薄く笑って女は立ち上がる。


 高踵靴ヒールが高らかに音を立てる。教壇を降り、ユゥエンの目の前に立つ女。滑らかな銀糸は腰ほどに伸び、細められた目は弧を描く。淡く色付く唇は楽しげにゆがめられていた。


 彼女がつえを一振りすると、ユゥエンの目の前に机が表れ、後方からはどすんと重たい音がした。振り向けばそこには中身の詰まった棚が出現している。


「今回作ってもらうのは、下級汎用はんよう皮膚創傷治癒軟膏なんこう四! 材料は後ろにある薬棚の中にあるよ。調合に必要な道具もそこにあるから、選んでね~」


 ユゥエンは小さくうなずいて、脳裏をさらった。


 下級汎用皮膚創傷治癒軟膏四。

 通称、夜光花グレンデユアの祈り。

 軽傷治療に用いられる軟膏は、若き薬師にとっては必須の魔法薬だ。魔法薬の中では相応に作りやすく、手軽さの割に効能も高い。師のもとから独り立ちする薬師は大量に作り込んでから、旅立つほどに重宝される薬。


 授業でも取り扱い、自身でも作ったことのあるそれ。材料も作り方もしっかりと覚えている。まず失敗することはないだろう魔法薬だ。安堵あんどの息を漏れないように抑えて、ユゥエンは直立を保った。


 自信に満ちた瞳を受けて、女――カタリが笑う。

 手慰みにしていた砂時計を机の上に置いた。


「じゃあ、始めようか! 期待してるよ? 主席クン!」


 砂が落ちていくのを確かに見て、ユゥエンは薬棚に向かった。



 薬棚は教室の後ろ、壁一面にまむように置かれていた。


 ユゥエンの背丈よりも少し上まで伸びた戸棚の中には、多種多様な物品が硝子がらす瓶に収められ、並べられている。

 青々と茂る蔓草つるくさ、暗闇でも蛍光を発する方解石。

 光を受けてきらめきを返す金属質の尾羽やつややかな象牙まで。

 棚の中にはぎっしりと、しかし整然と品が納められていた。


 その中から一つ二つと瓶を選んでいくユゥエン。授業で魔法薬を作るときは既に材料が用意されていた為に自分で選ぶのは初めてだった。

 しかし迷うことなく瓶を選び取っていく。標表を元に必要な材料が集められる。腕に抱えきれぬほどになってようやく棚を離れ、机へと向かった。


 重みに耐えきれずにどん、と大きな音を立てて瓶が机の上に乗る。

 からからに乾燥した胡桃くるみの根。小さく割れた海泡石メシャムがからりと音を立て、火竜のうろこは赤く輝く。夜光花の蜜はとろりと流れる。希少な一角獣の涙は小さな小さな小瓶に、小指の先ほどだけ収められていた。


 取り出した材料を机の上に並べていき、下処理を施していく。

 少年の作業は手際よい。乾燥しきった根を水に漬け戻している間に、摺鉢すりばちの中に入れたうろこ摺子木すりこぎで砕いて細かくしていく。

 砂粒ほどに小さく細かく砕かれた鱗は光を反射しすぎて、それ自体が発光しているようだ。


 握り拳より小さな海泡石をさらに小さくしようと、ユゥエンはつちを振りかぶる。舞う砂塵さじんを吸わないように布を口に当て、慎重に、けれど大胆に石を割っていく。

 空咳からせきを一つ飲み込んで、水分を取り戻した根を微塵みじんに切り刻んでいく。水気をたっぷりと含んでいた根は切った端からほろほろと白粉が溶け出し、全てを切り終わった頃にはまな板の上は真っ白になっていた。


 材料の処理が終わったところで次の作業へと移る。

 魔法薬の調合過程では、魔法を使うことが許されない。材料にはそれぞれ固有の魔力があり、それに対して魔法を使ってしまえば個々人の魔力が魔法薬に溶け込んでしまい、効果がまちまちになってしまう。


 だから、常ならばつえの一振りで着火する炎に数十秒掛けて水を沸かす。火力も弱く、材料の下処理中に準備しておかなければどんどん時間の無駄になっていただろう。


 ぐつぐつと気泡揺らぐ水の中に、切り刻んだ根と小さく割った海泡石メシヤムを投入する。

 身幅ほどの鍋のそばに立ち、玉杓子たまじやくしを使って攪拌かくはんしていく。湯気を一心に浴びて、ユゥエンの額には大粒の汗が流れる。


 水に粘り気が出て、ふつふつと小さな気泡が浮かび上がってくる。

 それを見て、ユゥエンは鱗を加える。

 これが混ざり合えば、火竜の属性が溶け込み、水は赤く変化する。



 そのはずなのに。



 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。

 混ぜても混ぜても色は変わらない。


 既に鱗は溶けて見えなくなっているのに、色が一向に変わらない。


 どうして、と情けない声が口からこぼれる。


 熱気に当てられて吹き出した汗の一筋がほおを伝う。

 ばっと机を振り返り、草の根をけるように目を皿にして材料を見やる。残った材料を手に取って、あちこちの向きから観察して、一点の誤りに気づいた。


「これ、胡桃くるみの根じゃない……!」


 標表ラベルには確かに胡桃と書かれていたのに、中身は胡桃とよく似た違う種の根だ。


「あ、ほんとだ~」


 割り込まれた声の方を向けば、カタリがにこにこと楽しそうな笑みを浮かべていた。にこにこ、否にやにやと言っても差し支えないかもしれない。思った通りわなに引っかかったと言わんばかりの笑みを浮かべている。


 両手で頬を支えて、面白い娯楽を観察しているようにカタリは嗤う。


「いや~ごめんね? 違うものを入れてたみたいだね。君ほどでも気づけないものだね、いやいや申し訳ない。

 こっちの不手際だから、時間を延ばしてあげよう」


 楽しげにまくてて、時計の砂を元に戻そうとするカタリの手をつかんで止める。期待外れのようにに言われて腹が立たないわけがない。


「残り時間はこのままで構いません、それで終わらせます」


 鼻を明かしてやりたかった。意表を突いてやりたかった。


「そう? じゃあ、頑張ってね~」


 カタリの顔は変わらず笑みを保っていた。




 もう一度、材料を用意する。

 胡桃くるみの根が確かにそうであることを確認して、混ぜ込んでしまった月光花の蜜と火竜のうろこをもう一度棚から集めて机の上に置く。

 再度、調合に必要な材料を並べたところで手を止める。


 このままでは絶対に間に合わない。

 だから近道の手段がないか、考える。


 頭の中の書籍をそうざらいする。

 教科書、実験書、授業中に書いた備忘録、今朝読んでいた論文集――


 目も止まらぬ速度でページをめくり、隅から隅まで記載内容を確認して、小さな囲み記事にも何か書かれていなかったか思い返す。


 ――そうして見つけた。


 棚にあった胡桃くるみの根は一般流通している鬼胡桃のもの。それを姫胡桃に変える。さらに、根が早く溶けるように一旦小刀の背でつぶしてから刻む。


 もう一度、根と蜜を鍋の中の水にいれ、火にかける。一気に混ぜ合わせ、ゆっくり加熱するのではなく、手早く指定の温度まで上昇させる。汗が目に入る。拭う暇すら惜しく、ぼやけた視界で、鍋の中身を混ぜ続ける。


 溶けた。

 時計の砂はあと少し。


 火竜のうろこを加えて、白く濁っていた溶液が鮮やかで透き通った赤に変わったことを確認してから、つぶした海泡石と、棚の中にあった月桂樹げっけいじゅの樹液を加える。粘り気がさらに強くなったところで一角獣の涙を一滴落とせば、ほんのりと輝きを放つ。


 一滴を全体に行き渡らせるようにしっかりと混ぜる。

 溶液全体が淡く光を放つようになれば、完成となる。


 砂はまだ落ちきっていない。


 洗った小刀の先で軽く指に傷を付け、できあがった軟膏なんこうの効能を試す。初級の傷薬では、立ち所に傷がなくなるわけではないが、止血し傷口をふさいでくれる。


 完璧にできあがった。

 ふらつきもつれた足を捕まえて、やっと、きちんと呼吸していなかったことに気づいた。

 浅くなっていた呼吸を深くして、無駄に入っていた身体の力を意識して抜く。


 完成したことが分かったのか、カタリが小さく拍手している。

 それを視界の端に収めて、清潔な小瓶に軟膏を移す。空気を入れることなく詰め終わる。


 さて、あとは提出するだけ、となり、




 ユゥエンは鍋の乗った机に足を引っかけた。


 急いで、小走りになっていたためか。

 勢いのついた状態でつまずき、机に対して脚を蹴るに等しい衝撃を与え。


 鎮座していた鍋は空中へと放り出され、粘性の高い中身がゆっくりと飛び出してくる。


 逃げなくてはいけないことは分かっていた。動かないままでは確実に怪我けがをすることも分かっていた。

 周囲全ての動きが鈍くなって、自分の身体さえも言うことを聞かなくなった。


 せめて、これだけは。と腕の中に小瓶を抱えて、迫り来る衝撃に対して目を瞑っつぶつて耐えようとした。


 けれど、衝撃も熱も一向に襲ってこない。

 いや、ほどよいぬくもりには包まれている。


 恐る恐る目を開けると、ユゥエンの身体はカタリによって支えられており、鍋もその中身も宙に浮いて動かなくなっていた。


 少しして、浮いていた鍋はゆっくりと机の上に居場所を戻し、こぼれかけていた中身も鍋の内にれいに収まっていく。時間が巻き戻るように鍋が満ちていく。


 腕の中に抱え込まれたまま、ユゥエンはこわごわ上を向く。

 試験の間、ずっと笑っていた、笑顔を保っていたカタリが、口を真一文字に結んで笑みを消して、真剣な表情でつえを振るっていた。


 全てが元通りになって、ようやくカタリはユゥエンの方を向いた。

 ばちりと、視線が交わる。

 真剣なカタリの表情から目を離せずにいた。一連の流れに驚きをあらわにしていたユゥエンの、ほうけたような顔に、カタリはふっと笑った。


怪我けがはないね? 問題が無いならそれ、受け取るよ」


 指を差されて、やっとユゥエンは自分が今までなにをしていたのか思い出した。慌てて小瓶をカタリに手渡した。




 カタリは教壇へ戻り、ユゥエンもその前の椅子に座る。

 手渡した小瓶をめつすがめつ眺め、きゅぽとふたをあけててのひらに少量取る。指と指でこすり合わせ、匂いを嗅いで、ユゥエンと同じように小さな傷を作って効能を試していた。

 評価が終わるのをユゥエンは鼓動を速くしながら待っていた。


「……うん。軟膏なんこうとしてはばっちりだね。作業の手際もよかった。ひっかけにはだまされていたけど、そのあとの作業はとても順調だったね。教科書に載っていない手順で時短を図ったのも素晴らしかったよ」


 最良の評価だった。

 けれど、カタリの顔は依然として険しいまま。

 ゆるゆるとしていた口調もどこか険を持ってまま。

 固唾かたずをのんでユゥエンは続く言葉を待っていた。


「分かっているだろうけど、どんな魔法を使うにしても身を守れて初めて半人前だよ。自衛できない魔術師などいてはいけない。一人前になるための準備台にすら立ってはいけない」


 静かにまぶたを閉じ、そうしてまた開く。じっとこちらを見据える瞳が力強かった。


「だから、試験としては合格でも、魔術師としては不合格だね。補習!!」



 ユゥエンは、とても優秀だった。

 補習など受けたことがなかった。


 でも、反発などありようもなかった。

 静かな気持ちで教室を出る。廊下に出れば、遠くにあった喧噪けんそうが身近になる。

教室に戻る。並んだ机のどこかに座っていた友がこちらを向いた。


「おかえり~、魔法薬学なんかやばいひっかけあったんだろ? ま、ユゥエンなら簡単に合格してそうだけどな!」


 笑ってそういう彼に、ユゥエンも笑う。


「ううん、補習になっちゃった」


 ぎょっと目を見開いて、わなわなと口を開け閉めしたあと飛び出た悲鳴に、ユゥエンは声をあげて笑った。

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