きう、きう、きう

 その部屋には人魚が眠っていた。

 黒檀こくたんの肌はなめらかに、紫紺の尾鰭おひれは少しばかりくすんで。

 すぅすぅと寝息を立てて人魚が眠っていた。



 海に溶けた光が、柔らかに差し込む部屋の中。

 つややかに伸びた髪を無造作むぞうさに広げ、大きく口を開けた貝の中で眠る人魚。


 額にはれた手拭タオルが乗せられ、ほおには赤みが差していた。

 毛布の端から放り出された腕の先、珊瑚さんごで作られた鏡台が散らばった部屋を写す。


 床には書きかけの筆記帳ノートが広がり、揺らめく光に文字が表れては消えていた。筆記帳の端に置かれていた鉄筆ペンがころころと転がり、なめらかな曲線で構成された机に辿たどり着く。

 机の上の棚には色とりどりの本が並び、積み重ねられていた。


 机のそば、開いた扉から三匹の魚が入ってきた。


 ゆらゆらと豊かな尾鰭おひれをはためかせ、ゆるりと部屋を一周した魚は、いまだ夢の中を彷徨さまよう人魚の元に集った。

 飛び出した腕やひれを毛布の中へ押し戻そうとしたり、溶けきった氷袋を替えようとしたり。中身を入れ替えた氷袋の端をくわえて額へと乗せようとするも、べちゃりと鼻の上に落としてしまい、人魚の少女はぼんやりと目を開けた。


 ぱちぱちと幾度かまばたきし、目の前で慌てたようにぐるぐると周り泳ぐ魚の姿にふっと笑う。するりとでれば、魚たちは落ち着きを取り戻した。指の間をくぐり抜け、胸びれを器用に手に絡める。

 一通り遊べば、いろとりどりの魚は尾鰭おひれを返し部屋の外へと出て行った。


 魚が行くのを見送って、少女は一つあくびをこぼす。もう一眠りしようかな、と毛布に身体を埋めようとしたところで、どこからか漂う匂いに気づいた。



 毛布をたぐり寄せて身体に巻き付け、少女は廊下を泳ぐ。

 左手に砂地の壁を、右手に海草揺らめく海を携えて左回りに。


 徐々に強くなる香りに心を躍らせながら尾鰭おひれは優雅に水をかいていた。


 空は遠く、彼方かなたの果てに。揺れる光が夜でないことを知らせてくれる。緩やかに曲線を描く壁に埋まり砕けた貝殻は道を作り、きらりときらめく。いくつもの色を揺らめかせ少女を匂いの元へと導いていく。

 わずかにせた紫の尾鰭おひれはそれでも美しさを放って水をかく。


 一つ二つと扉を通り過ぎて、辿り着いた先は炊事場であった。ほのかに漏れる香ばしさに、かれた匂いの出所で間違いない、と少女は扉を開く。




 途端、視界に入ったのはきらめく水面。

 つぷんと指を沈ませれば漣波さざなみが走る。


 海の中に風吹く地を作るための魔法は、少女の片割れが好んで使うもので。水のない空間で泳げない人魚は浮き輪を作ってから、慣れたように身体を滑り込ませた。


 部屋の中には楽しげにつえを振る人魚が一人。

 腰に巻き付けた浮き輪で浮かぶ人魚。彼はさっぱりと切られた赤髪をかすかに揺らして、空中に踊る食材たちを指揮していた。


 人参にんじん馬鈴薯じゃがいも玉葱たまねぎ

 とりも加えて細かく細かく

 微塵みじんくらいに細かくしよう!

 牛乳と牛酪バターは暖めてから混ぜ合わせるの

 暖めすぎないように気をつけて?

 おっと、お次は卵と砂糖!

 泡立たぬようにすり混ぜて!

 無声の歌が聞こえる。


 演奏者は三人、指揮者は一人。

 彼の指揮に合わせて食材が舞い踊り、姿を変えていく。


 演奏に見惚みほれていれば、ふいに少年と目が合った。おもむろに開かれていく瞳と唇。軽快に振っていたつえ腕はぴたりと止まり、同時に浮かんでいた食材たちが支えを失ったようにぱらぱらと落ちていく。


 舞う玉葱たまねぎこぼれる牛乳。飛び散っていく卵液。


 大惨事が容易に想像できる事態に、少女は慌てて腕を振る。長椅子に預けていた身体を乗り出して、床に落ちかけた調理途中の食材たちを受け止める。ふよふよと浮くそれらは、床にぶつかるまで指一つ分のところであった。


「もう! 危ないよ、ロア」


 机の上に取り出したボールの中に慎重に移していく。全てを移し終えた頃には、目を白黒させていた片割れ――ロアも少しは落ち着いたようだ。


「ラ、ラニ? もう、声かけてっていつも言ってるのに……」

「むぅ、だって邪魔したくなくって」


 得意げに腰に手を当てていた少女も聞き慣れた苦言を呈されて瞬く間に小さくなる。


 長椅子に丸まったラニを置いて、少年は部屋の隅から瓶を取り出す。真っ白な液体で満たされた瓶。ふたをきゅぽと開けて、空中で瓶を傾ければそれは球体となってとどまった。

 流し台のそばに引かれた術式の上にかざすと、それはふつふつと泡立ち始める。小さな泡が表面から湧き上がり、それが大きく成る前にロアは牛乳を火の上から移動させた。


 食器棚から飛び出してきた硝子ガラスの杯に、程よく暖められた牛乳を注ぎとろりと蜜を加える。


「寝てても良かったのに。ご飯できたら持って行くよ?」

「ん~」


 言葉と共に差し出された杯。毛布に包まれたラニは、小さな温室から出まいとほんのわずか手を伸ばして受け取った。

 少年の質問には答えず、少女はちびりちびりとめるように飲んでいく。長椅子の上で小さくなりながら、煮え切らない返事が返る。口先をとがらせ、横髪を指先でいじっている少女。

 片割れの珍しい姿にロアの悪戯心がくすぐられる


「あれ、もしかして寂しい?」

「別に、そんなことは、なくも、ない……けど」


 遠回しな肯定の言葉にロアは目を丸くする。少年からは目を離して、小さな手で杯を握り込んで、毛布にくるまりながら身を縮める姿はどこか幼い。

 ロアは小さく、ラニに聞こえないほどに小さくため息をついてから、炉火をひとつ、少女の近くへと動かした。


「待っててもいいけど、ちゃんと暖かくしてね。風邪、長引かせたらやだよ」

「わかってるよ~……」


 拗ねたたまま返事したラニに、満足げにうなずいて少年は調理を再開する。




 机の上に並べられた野菜やスープを再び空中に浮かべるロア。

 どこかから取り出した魚がちりちりと色を濃くしていく。炎を直接当てず、鉄板を間に挟んで焼き目が付けられる。

 袋の中から飛び出した白い粉に牛乳を加えて混ぜていけば段々とまとまっていくのが面白い。あちらでは微塵みじんにした野菜たちと黄金色のスープが合流していた。


 ひい、ふう、みい、と数えていけばそれは片手の指の数を超え、数えているうちにまた一つ増えていった。

 ロアは作るのも食べるのも好きだ。

 いつだって楽しそうにたくさん作って、うれしそうにたくさん食べている。


 夢中になってつえを降り続けるロアを眺めるラニの横顔は優しい。頬杖ほおづえをついて炉火をそばに寄せて毛布にくるまって笑んでいた。


 白く輝いていた結晶は溶けて珈琲コーヒー色に染まっていく。

 ねていた粉と牛乳はいつの間にかひとまとまりになってれた布巾をかぶせられていた。

 こんがりと焼き目のついた魚にはふつふつと沸いた水が次々に投げかけられ、細かく切りそろえられた野菜の入ったスープには短麺が飛び込んだ。


 泡のない蜂蜜色の卵液を容器に入れて水で包んで火を入れる。魚の元に泳いでいった貝は間抜けに口を開けた。

 あちらでは香ばしく魚が焼け、肉と野菜の澄んだ匂いがする。

 焼きたて麪包パンをふたつに割れば柔らかな真白の姿を現す。


 少しだけ焦げた砂糖の苦い香りがふわふわした気持ちを落ち着ける。いろんな料理の匂いがして、それでも完全には混ざり合わずにそれぞれが楽しげに主張してくる。

 机の上には種々の器が並び、浮かんでいた料理がゆっくりと落ちてくる。


 白く磨かれた器に盛られ、ラニの前へと差し出される。


「どうぞ、召し上がれ」


ロアの奏でる合奏は余韻を残して終わりを告げた。




 立ち上がる湯気と黄金色に紛れ込んだだいだいと薄茶色。さじすくえばきらめくしずくが落ちてゆく。漂う香りが美味しさを既に物語っている。さじを口元に持って行く時間さえ惜しくてラニは前のめりにかぶりつく。


 途端口の中であふれ出すうまみ。

 宝石のように澄んでいた液体にはいろいろな味が溶け込んでいた。


 野菜の甘みが舌を優しく包み、煮出した骨の出汁だしが口内で踊り出す。喉元の香草は爽やかに抜けていき、柔らかく煮られた野菜や肉はみきる必要などないほど。様々な食材が煮込まれ溶け出した液体を吸った短麺を噛みしめれば口の中がうまみで満たされる。


「ん~、美味しい!!」


 ラニが順調に器の中身を減らしていくのを上機嫌に観察してから、ロアも自分の前に並べた料理へを付けた。二人の前の料理はみるみるなくなっていき、すぐに器の底が見えてきた。

 最後の一滴まで飲み切って、ラニは満足そうにおなかをさする。ロアの方も机いっぱいに並べられていた器をすっかり空にしていた。


「ごちそうさま! とっても美味しかったよ」

「はーい、食欲はあるみたいでよかったよ」



 重ねられて飛んでいく器の代わりに、一つの小瓶が飛んできた。見覚えのあるそれにラニは嫌そうな顔をする。


「じゃあ、あとは食後の薬だよ」


 透明な硝子ガラスの小瓶。

 滑らかに美しい曲線を描く胴体。きゅっとくくれた首。口にはめられた金のふた。瓶全体に細やかな彫刻が施されていた。内部には鮮やかな、とろみのついた液体が入っており、それは瓶に入り込んだ光を反射してきれきらと輝きを放っていた。


 効果は抜群だが、ひどい味と評判の薬。季節の変わり目ごとに風邪をひくラニにとって、慣れ親しみ、幾度となく格闘してきたものであった。恐る恐る手を伸ばし、しばらく手の中で遊ばせて、意を決してふたを開ける。鼻につく臭いが充満する前に勢いであおり、飲み干す。


 どうだ、と言わんばかりにたたきつけられた瓶。惜しみなく拍手を送るロア。



 そして冷蔵庫の中からご褒美の氷菓が飛び出してくる。目を輝かせたラニに、ロアは弾けるように笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る