闇夜に揺れる影

 闇夜の中、ドゥルーヴは走る。


 顔に当たる雨粒に、まぶたを閉じないように。

 月も厚い雲に隠れ、あかりのない中懸命に道を進む。


 道端の小石につまずきかけても構いもせず、時折聞こえる獣のうなごえ一瞥いちべつもせずざっざっと音を立て、山道を駆けていく。


 繁茂した草をけ、ほおかする枝をはらって進む青年。

 雨も風も吹き荒れる嵐の中、銀朱草を求めて走っていた。 



 ドゥルーヴには金が必要だった。


  

 元々が九人兄弟の大家族で貧乏暮らし。

 父も母も身をにして懸命に働いていたが、薄給に加えて多数の兄弟を抱えては食費も追いつかない。


 彼が身体が大きくなるにつれて手伝いで稼げる額は増えていったが、学もなく、腕っ節だけの子供が大金を稼げるほど世の中は甘くない。出費も同じかそれ以上に増えていき、手元に残る金はわずかばかり。


 それでも働かないという選択はなく、稼いだ金が日々あぶくのように消えていくのを、痛む胃を抑えながら見ていた。


 しかし、綱渡りの生活を送っていたある日のこと。

 ドゥルーヴに魔法の才が開花した。


 そして、才能を生かさんとする学園の支援がドゥルーヴをこの島へと引き入れた。

 学業成績に応じた支援金が振り込まれ、どんな貧乏学生でも苦もねぎらもなく学業に打ち込める環境で、ドゥルーヴは勉学の合間に働き、それを実家へと仕送りしていた。

 

 学業と短期労働アルバイトいそしみ、自分より下の弟妹が無理に働かなくて良い環境になっていた。貯金だってできるようになった。弟妹たちも、普通の学校に通えるかもしれない。

 全てが順調だった。




 

 つい、一ヶ月前までは。


 父が倒れた。

 薄給とはいえ、家計の大黒柱。

 夫の看病もできず母は日夜働きにでかけ、すぐ下の妹が賢明に世話をしていた。


 けれど治療には大金がかかるという。ドゥルーヴの仕送りでは焼け石に水にしかならない。

 仕事バイトはもともと限界まで詰め込んでいる。睡眠を必要最低限だけ確保して、それ以外の時間はもう埋まっていたから、付け加える隙がない。

 だから、ドゥルーヴは山に登った。

 岩場を登り、細道を渡り、峰に辿たどいた。

 


 見下ろす先には、咲き誇る銀朱草の花畑。

 秋の短い期間にしか花を咲かせない銀朱草。黄みがかった赤い花びらを大きく開き、一面を一色に染め上げていた。

 てのひら大の花弁と太く短く伸びた根は、魔法薬の材料として使われている。精神に関与する魔法薬において広く用いられていて、需要は高い。


 しかし、銀朱草はいまだ室内栽培方法が確立されておらず、自生地に似た環境を整えるくらいしかできない。その自生地の条件も魔素濃度が濃く寒暖差が少なくみずけの良い土地という厳しいもの。

 大量生産など夢のまた夢。


 高い需要とわずかな供給。当然、値段は釣り上がる。

 その貴重な薬草の群生地。


 周りを小高い山に囲まれた盆地に敷かれた赤い絨毯じゆうたん。嵐にも関わらず美しく咲いた花弁がドゥルーヴを誘う。

 ごくり、と生唾を飲んで峰から降りようと腰掛け足を投げる。

 大きく口から飛び出そうなほど心臓が高鳴っている。遠くでとどろく雷鳴にびくりとおびえている。


 闇夜が怖い。雷が怖い。崖が怖い。魔物が怖い。悪事を成すことが怖い。

 ――それでも家族を失うことの方が怖い。



 後ろ向きで、崖を降りていく。

 見えない中で飛び出た岩に足をかけ、そろりそろりと降りていく。


 時折吹く突風にあおられないようにしっかりと岩をつかんだ。

 打ち付ける雨に体温を取られ、かじかんで滑りそうな手にどうにか力を入れる。


 慎重にけれど確実に崖を降りていき、上から見下ろしていた花が近づいてきた頃。

 大きく突き出た岩棚に立ち止まり少しだけ息を整える。


 まない雷鳴に、激しく打ち付ける雨粒。拭っても拭っても瞳に染み入るしずくにうんざりしながら、空を見上げる。

 降りてきた峰は遠くなり、地面が近づいてくる。


「――ぁ」


 何か、聞こえた。

 小さく、けれど確かに。身動みじろぎ一つせず、ドゥルーヴは硬直する。


「――――あ」


 今度はもう少し大きな声が。

 場所は右側。

 恐らく同じくらいの高さ。

 何がいる。

 何が出てくる。



 恐る恐る岩をつかんで、移動する。




「――にゃあぁ」


 いたのは、猫だった。


 小さな猫。

 泥に塗れて、毛を汚したか細い猫。青い目キトンブルーらんらんと輝かせ、虚の中に投げ出したけた足は曲がり、泥の中に赤茶色が混じる。

 人でも魔物でもない、小さな小さなただの子猫。



 脅威にもならない存在に、ほっと息をつく。こわっていた肩から力が抜ける。

 猫なら用はない。怪我けがをしていても関係ない。振り返って、また崖を降りる。

 花畑はもうすぐそこ。



「にゃあ」








 走る。走る。走る。

 雨の中、ドゥルーヴは走っている。

 斜面を駆け下り、街の中を走っている。胸にを抱えて。


 ドゥルーヴの脳内に疑念が渦巻いている。

 どうしてあそこで崖を降りなかった。

 どうしてあともう少しを行かなかった。

 どうして花を持ち帰らなかった。

 ――どうして千載一遇せんざいいちぐうのチャンスを放り投げて猫を助けた!


 わからない。

 わからない。

 わからない。

 けれど、嫌に高鳴っていた鼓動は鳴りを潜め、胸に巣食っていた重いもや何処いずこへ消えていた。


 雨にれた石畳に足を取られる。滑らせた身体を烈風がたおそうとする。

 街のあかりは消え、空は厚い雲に覆われた。道路の脇に添えられたわずかな街灯だけが、ドゥルーヴの道標だった。


 見慣れた街の、見慣れぬ夜を走る。

 配達業務でたたまれた地図が行くべき場所を示してくれる。


 駆けた先。

 白く晶灯のともる建物に辿たどく。掲げられた十字の看板を横目で見て、ねずみのままドゥルーヴは駆け込んだ。

 

「誰!?」

「何事ですか!!」


 煌々こうこうあかりのつく、汚れひとつない清潔な場所。

 静けさに満ちた病院に喧騒けんそうを持ち込んでしまったことをどこか後ろめたく思う。


 他人事のように思って、ドゥルーヴは白い床に座り込んだ。山から街の端まで我武者羅がむしやらに疾走し、荒々しく上がった息を整える暇も無い。

 周りに人が集まってくる。ぼやけた視界に白衣が映る。


 声が、世界が遠い。

 薄れゆく意識をしかりとつかんで、抱え込んでいた猫を表に出す。


 泥と雨に汚れた毛皮と細く頼りない腕を持つ、痩せこけた子猫。

 辺りが騒然とする。


 ドゥルーヴの肩をたたき、彼の様子をうかがっていた一人が奥の部屋へと走って行く。一人は端末を鳴らして誰かを呼び出している。もう一人は、ドゥルーヴが差し出した猫を慎重に抱きかかえた。


「この、この子、あの、助かります、か?」

「えぇ、必ず」


 力強くうなずかれ、安心して力が抜ける。

 床に頭から落ちそうになったところを支えられ、促されるままに椅子に座る。

 波の引くように人が去っていった。扉を挟んだ向こうから、あれやこれやの指示が大声で飛ばされている。


 ふわりと、手拭タオルが掛けられる。

 周りを見れば、受付にいる人が軽くつえを振っていた。会釈えしやくをして、ようやく落ち着いてきた息を整える。

 二度、三度と深く呼吸すれば、高鳴る鼓動も平常を取り戻してきた。


 胸をろして、辺りを見渡す。

 入口から外を見ればまだ雨は降り続いている。泥としずくを連れて椅子まで座ってしまったから、床にはいずった後が残っていた。


 統一された雰囲気の、均等に並べられた椅子たち。夜にも関わらず照らされるあかりに、絶え間なく動き回るひとたち。

 処置が長引くなら、治療費はどのくらいかかるのだろうか。自分で払えるのだろうか。


 ドゥルーヴの脳裏に、〝逃げろ〟という言葉が浮かぶ。

 父の治療費も払えず盗みに手を出したのに、それも果たせず、さらに抱え込もうとしている。


 無理だ。

「大丈夫?」


 腰を浮かせ、逃げる算段を付けようとしていると湯気の立つ把手付杯マグカップを渡された。

 逆光で顔は見えない。でも優しそうな雰囲気の人。


「……大丈夫、です」


 受け取った杯は、暖かった。冷たくなった指先にみる熱。

 立ち上がる機を失って、こくりこくりと、飲んでいけば体の中から暖まっていく。


 いつぶりだろうか、自分のためだけに用意された暖かいものを口に入れたのは。

 涙が出てくる。拭う気も起きないほどに。

 また飲み物を飲んで、泣いて。持ってきた人は隣に座って、背をでてくれた。


「あの子はもう大丈夫だよ」


 窓を打つ雨が勢いを無くしていった頃。

 おもむろに話しかけられた。


 杯に口を付けたまま伏せた目で隣をうかがえば、笑いじわを深くしてにこやかに笑う老婦人。


「足の骨折はきちんと元の位置に治して固定したかられいに治るよ。衰弱していたから栄養は足りていないかもれないが、まあそれも取り返しがつかないわけじゃない。今からしっかり食べれば大丈夫さね」

「そ、うなんですね……よかった」


 これであの子は大丈夫だ。今にも消えかけそうなか細い声で鳴いていたあの子はもう大丈夫だと、安心した。


 けれど、自分は?

 猫なんて放っておくべきだったんじゃないか?


 温牛乳ホットミルクを飲んで、どこかに消えていた気持ちが再びむくむくと沸いてくる。

 こびりついた土に汚れた靴先に視線が落ちる。顔を上げられない。自身で作った影の中に閉じこもりたい。

 光など、自分にはさないのだから。


「あの子はね、助けを求めたから助かったんだ」

「――え?」

「助けを求めても、全てがかなうわけじゃない。こぼされる者もいる。でも、まず呼ばなけりゃ助けが来ることはない。


 君は、誰かに助けを求められるかい?」


 ぐに射貫いぬかれる。

 強い光の宿った瞳が、ドゥルーヴを捉えて離さない。


 ちらりと曲げただけの顔を、しっかりと起こして真正面で見据える。

 婦人は話さない。

 必要なことは全て伝えたと言わんばかりに無言で、けれど柔らかく笑みを携えて。


 真剣な表情。真摯しんしな言葉。

 厚い雲の隙間から、月明かりがす。


「家族が、病気で」

「あぁ」

「でもうちは貧乏で」

「そうかい」

「治してあげられなくて」

「うん」

「お金が、なくて」





「助けて、くれますか……?」


 初めて出した救難信号は確かに届いた。


 数ヶ月後、すっかり太った猫を連れて、ものが落ちたような表情の青年が街を歩いていた。

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