夜明けの狼

 イルダの視界はその半分がふさがれていた。


 かいなに抱え込まれた本と紙は高く積み重なり、その上からのぞむように前を向いていた。


 狭い視界。

 重みにふらつく足。

 重心を崩しかけた荷物に蹌踉よろめき、ふらふらとおぼつかない足取りでイルダは廊下を歩いていた。


 夏の日差しをわずかに残して、太陽が照りつける。

 乾いた風が秋を運び、木の葉は赤みを増していく。


 窓から差し込む光は少しだけ柔らかさを増してイルダを照らしていた。

 窓の外からは放課後の喧噪けんそうが漏れていた。硝子がらすの向こうには運動場で遊ぶ少年少女の姿が見える。

 黒衣ローブを脱ぎ捨てたまぶしい白襯衣シャツがいくつも行き交っている。運動場の中央でほうきに乗って鬼事をしている子もいれば、日差しから逃れるように木陰こかげに座っている子もいた。


「いいなぁ……」


 不意に硝子がらすの中の自分を目が合う。

 うなじにかかる後ろ髪だけが少し伸びた短髪。寮に入った頃はつやめいていたはずの緑髪は、いまではぱさつき、所々から浮毛うきげが飛び出ている。丁寧に手入れしていた肌も乾燥し、荒れ、くぼんだ瞳にくまいろどられていた。誇り高き狼の毛並みは見る影もない。


 ――みっともないものだ。


 無理矢理むりやりに視線を窓から離す。

 急に体勢を変えて揺れた本の束を抱え直して、イルダはまた歩く。


 ――人様に見せられるようなものではない。でもそれにかかずらっている暇も無い。


 補修として出された課題をこなして、実習の予習をして、新しい技術を習得しようと練習していれば、身の回りのことはどんどんと後回しになっていった。

 睡眠は削れ、服はぼろさを増し、それでも、他者に追いつけない焦りがイルダをさいなむ。


 ――まだ、期待されている内に成果を出さないと。


「とりあえず手を動かしてみたらいいよ。理論はあとからでも身につくから!」

「仮想系より現象系で挑戦してみたらいいんじゃないかな」

「とりあえず基礎からでしょ、理屈が分かってからのが効率が良い」


 助言をもらっておいてかせない自分が恨めしい。


「もっと頑張らないと」

「怠けてたらだめよ」

「人生は短いんだから」


 いつか掛けられた言葉を、自身が奮い立つために再生していく。




 外につながる扉を肩で押し開ける。途端襲いかかる風に思わず目をつぶる。

 本と本の隙間に挟まれた紙たちは風に吹かれて無造作むぞうさに揺れている。


 一段、二段と慎重に段を降りていき、イルダはふうと一息ついた。重たい荷を抱えて移動を続け、彼女の腕はそろそろ限界を迎えようとしていた。ぷるぷると震え、不意に抜けそうになる力を気力で持たせる。

 ふらりふらりと酔客のように千鳥足で渡り廊下を進んでいく。

 一生懸命に運び、狭い視界でどうにか危険を避けて歩いていた。



 だから、前方から歩いてくる人にも気が付かなかった。



 どん、と衝撃が走る。見えない壁にぶつかったように、体が跳ね返る。腕の中からばらけていく書籍。重しを失って飛び去っていく紙。押し戻されたイルダは思わず尻餅をついた。


 何にぶつかったのか。

 辺りを見渡して立ち上がろうとしたときに、手が差し伸べられた。


 浅黒い手。すらりと伸びた、傷ひとつない美しい手。

 手を、腕を辿たどって。


 そこにいたのはとても愛らしい少女だった。


 無垢むくに瞳を染めて、こちらをのぞむ少女。耳上で括らくくられた真白の髪束が二つ、薔薇ばらを主想にした耳飾りがゆらゆらと、揺れていた。


 知っていた。

 世情にうとい、身の回りのことで精一杯なイルダでさえ、知っていた。


 彼女の名はソチトル。クラスで、いや、学校中に島全体に知れ渡る人気者アイドル。愛らしい顔と朗らかな表情。いつだって明るく皆を照らし、魅了する少女。登校すれば学校の空気を一変させ、誰もが目を奪われる。


 容姿の端麗さばかりで持ち上げられているのではない。

 学内で行われる試験は全て上位。張り出された紙にいつも居て、おごたかぶることなくいつだって勉学に励んでいる。試験前に切羽詰まった生徒ばかりでなく、日頃から教師にも頼りにされるその様。


 才色兼備さいしよくけんびという言葉が似つかわしい少女だった。


「大丈夫?」


 飴玉あめだまを転がすような甘やかな声がイルダに降りかかる。

 放心し、ぼうぜんとしていた思考が戻ってくる。


「だ、大丈夫。ごめんなさい、ぶつかってしまって……」

「いいよ、それよりも怪我けがはない? 本も集めなきゃ」


 少女の手を恐る恐るつかめば容易に引っ張り上げられる。細い腕からは想像し得ない力。急に立ち上がってふらついた身体も微動だにせず支えられる。


 イルダの身体を上から下に目線が動く。観察されていることに気づいて、イルダの顔は瞬く間にっていく。目をらし、無意味に指を遊ばせ、じっと観察に耐える。


 数秒して、一つうなずいたソチトル。

 視線が外れたことにほっとしたイルダは、けれど渡り廊下から地面に降りた少女にぎょっと目を見開いた。


 土埃つちぼこりいとわず、スカートの裾が地面についてもお構いなしに、風にさらわれた紙々を拾い集めていくソチトル。慌てて代わる! と叫んで降りようとするも、制止されむなく散らばった書籍を集めていく。


 『魔法師と文化』『空間移動による人体への影響」『月間「虚栄の公平」』


 表紙についた砂を払い、ぱらぱらとページをめくって落丁らくちようがないか確認する。


 腕の中に抱えては動けないから、敷いた手巾ハンカチの上に積み重ねていく。丁寧に、丁寧に。砂を払い、頁を確認し、表紙の向きをそろえて重ねていく。

 ようやく集め終わり、一段落ついたと息をつけば目の前に影が落ちていた。


「ごめんなさい、拾ってもらってありがーー」

「これ、素敵ね。いつ作るの?」


 謝ろうと開いた口が、上げようとした顔が、鈴の音に止められる。

 しっとりと肉付いた腕の中で、一番上に置かれた紙をソチトルの瞳は指していた。練習で書いた魔具の設計図。

 考えばかりが先行して、実現には耐えられない机上の空論。裏紙に落書いたそれを、皆が認めるクラスのお姫様が見て、褒めた。いつかの完成を願われた。


 きっと何気なく吐かれた一言なのだろう。

 気負った様子は一つもない。


 イルダを静かに見つめて、返答のないことにきょとんとした顔で首をかしげる様は裏などありようがない。


 嘲笑でも挑発でもない。

 きっと純粋な賞賛。


 はっと息をむ。

 だか呼吸が浅くなる。

 幕を張ったように遠くなった聴覚の中で、その一言が木霊する。


 褒められた、褒められた、褒められた!

 混乱の渦の中。その言葉を、逡巡しゆんじゆんして、遅疑して、二の足を踏んで、ようやく受け入れて。




 かっと頭に血が昇るのを他人事のように感じた。


「ふざけないで!! 適当なこと言わないで!お世辞のつもり!?

そんな適当な落書き! 素敵なわけがないでしょ!!」


 脳裏にすぎった言葉を押しとどめることが出来ない。とがりきった言葉を放ってしまう。


 一番上に乗った裏紙を奪い取ってぐしゃぐしゃに丸める。つぶして、拳の中に詰めて。わなわなと震える腕で床に投げる。ころころと転がり行く様にさえ苛立いらだちが募っていく。


 先ほどまで強く吹いていた風はいつの間にか勢いを無くし、捨てた紙は視界の端にとどまった。

 威嚇するように犬歯をしにして、うなごえを上げる。


「良い点取ってんだから、そりゃ余裕あるよね! 私にはそんなお遊びしてる暇は無いの!!

落書きなんか実現できるわけないでしょ!」


 押さえ込んでいたはずの不満や怒りが、飛び出していく。

これが八つ当たりとは分かっている。どこか冷静な自分が口を閉じるように言っている。

 けれど言葉が止まらない。


「みんな正しいことを言ってるのに、私には出来ないの! なんで!?

でもそんなこと嘆いている暇があるなら練習しなくちゃいけないの!!

助言もたくさんもらってるのにかせない!

なんで出来ないの、期待に応えられない自分なんて必要ない!

落書きに現を抜かすなんて出来ない!」


 叫び、わめき、言葉は重ねられていく。

 絞り出すように声を出していけば、徐々に身体は折れていく。

 筋の浮いた手で胸元を握りしめ言葉を振り絞る。

 始めはソチトルに向いていた言葉も今や誰に向けるでもないものに成り果てた。


 突然の怒号に、目を丸くしたソチトルは、イルダの怒号を、受け止めず、受け入れず、けれど、無視することなく、その場に居た。

 強く紙を飛ばした風がいでくる。木の葉をまき散らした風が凪いでくる。


「みんなが、もうお前はだめだ、って手を離される前に、出来るようにならないといけないのに」


「このままじゃだめだって、分かってるのに……でも、出来ないんだよ……」


 暴風のようにわめき散らしていたイルダの声が徐々に小さくなっていった。まなじりに浮かんだ涙を拭うこともなく、まりゆくしずくが決壊する。


 泣き言交じりの言葉を発して、徐々に徐々に身体を丸めて座り込んでいくイルダ。

 膝に顔を埋めて、周りを拒絶するように。


 やがて、イルダが何も言わなくなり、辺りにすすく音だけが響く頃。

 ソチトルは、イルダの隣に無言で座った。


 急に隣に出現したぬくもりに驚いてイルダが顔を上げる。泣きはらして、目元は真っ赤に染まっていた。

 ソチトルはイルダの顔を見ることなく、こてんとイルダの肩に頭を乗せた。


「無視したって良いんだよ」

「え?」


 慰めの言葉を掛けられるとは思っていなかった。

 感情のぐちにしたことを怒られると思っていた。


 どこか遠くへ投げられたソチトルのまなざし。まるで自分に言い聞かせるように、ソチトルは言葉を重ねた。


「いいの、人の言うことを聞かなくったって。自分がいいなって思ったところだけ切り取ればいいの。都合よく使えばいいの。

 真面目に、全部を受け取ってたら、自分が分からなくなっちゃうよ」


 その言葉は、今までイルダに掛けられたことのない言葉だった。

 その言葉は、凝り固まっていたイルダの視界を晴らす言葉だった。


 ほろりと、んだはずの涙がほおを伝う。

 やっとこちらを向いたソチトルが差し出した手巾が涙を吸う。


「じゃあ、頑張ってね」


 言うだけ言って、ソチトルはさっと立ち上がって、すたすたと歩いて行った。

 一人、手巾を持って立ち尽くすイルダ。謝ることも出来なかったとしばし呆然ぼうぜんとして、そしてぐっと涙を拭って、また本を抱えて歩き出した。


 何も変わらない、二人以外の誰も知らないただ一瞬の邂逅かいこう

 けれどどこか軽くなった身体に、今まで無駄に力が入っていたことを自覚した。


 足取り軽くイルダは歩む。

 涙の跡を残したまま進みゆく後ろ姿。どこか張り詰めていた彼女はもう何処どこにもいなかった。





 いつかの朝。どこかの店で。 

 店台カウンターに座る、愛らしい女性が笑っていた。


「何か良いことでも?」


 珈琲コーヒーを提供しながら店の主人が尋ねても、女性はふふと笑って答えない。

 店の無線放送ラジオから、あの日見た魔具が世界中で売れていると流れていた。

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