夜明けの狼
イルダの視界はその半分が
狭い視界。
重みにふらつく足。
重心を崩しかけた荷物に
夏の日差しを
乾いた風が秋を運び、木の葉は赤みを増していく。
窓から差し込む光は少しだけ柔らかさを増してイルダを照らしていた。
窓の外からは放課後の
「いいなぁ……」
不意に
うなじにかかる後ろ髪だけが少し伸びた短髪。寮に入った頃は
――みっともないものだ。
急に体勢を変えて揺れた本の束を抱え直して、イルダはまた歩く。
――人様に見せられるようなものではない。でもそれに
補修として出された課題を
睡眠は削れ、服はぼろさを増し、それでも、他者に追いつけない焦りがイルダを
――まだ、期待されている内に成果を出さないと。
「とりあえず手を動かしてみたらいいよ。理論はあとからでも身につくから!」
「仮想系より現象系で挑戦してみたらいいんじゃないかな」
「とりあえず基礎からでしょ、理屈が分かってからのが効率が良い」
助言をもらっておいて
「もっと頑張らないと」
「怠けてたらだめよ」
「人生は短いんだから」
いつか掛けられた言葉を、自身が奮い立つために再生していく。
外に
本と本の隙間に挟まれた紙たちは風に吹かれて
一段、二段と慎重に段を降りていき、イルダはふうと一息ついた。重たい荷を抱えて移動を続け、彼女の腕はそろそろ限界を迎えようとしていた。ぷるぷると震え、不意に抜けそうになる力を気力で持たせる。
ふらりふらりと酔客のように千鳥足で渡り廊下を進んでいく。
一生懸命に運び、狭い視界でどうにか危険を避けて歩いていた。
だから、前方から歩いてくる人にも気が付かなかった。
どん、と衝撃が走る。見えない壁にぶつかったように、体が跳ね返る。腕の中からばらけていく書籍。重しを失って飛び去っていく紙。押し戻されたイルダは思わず尻餅をついた。
何にぶつかったのか。
辺りを見渡して立ち上がろうとしたときに、手が差し伸べられた。
浅黒い手。すらりと伸びた、傷ひとつない美しい手。
手を、腕を
そこにいたのはとても愛らしい少女だった。
知っていた。
世情に
彼女の名はソチトル。クラスで、
容姿の端麗さばかりで持ち上げられているのではない。
学内で行われる試験は全て上位。張り出された紙にいつも居て、
「大丈夫?」
放心し、
「だ、大丈夫。ごめんなさい、ぶつかってしまって……」
「いいよ、それよりも
少女の手を恐る恐る
イルダの身体を上から下に目線が動く。観察されていることに気づいて、イルダの顔は瞬く間に
数秒して、一つ
視線が外れたことにほっとしたイルダは、けれど渡り廊下から地面に降りた少女にぎょっと目を見開いた。
『魔法師と文化』『空間移動による人体への影響」『月間「虚栄の公平」』
表紙についた砂を払い、ぱらぱらと
腕の中に抱えては動けないから、敷いた
「ごめんなさい、拾ってもらってありがーー」
「これ、素敵ね。いつ作るの?」
謝ろうと開いた口が、上げようとした顔が、鈴の音に止められる。
しっとりと肉付いた腕の中で、一番上に置かれた紙をソチトルの瞳は指していた。練習で書いた魔具の設計図。
考えばかりが先行して、実現には耐えられない机上の空論。裏紙に落書いたそれを、皆が認めるクラスのお姫様が見て、褒めた。いつかの完成を願われた。
きっと何気なく吐かれた一言なのだろう。
気負った様子は一つもない。
イルダを静かに見つめて、返答のないことにきょとんとした顔で首を
嘲笑でも挑発でもない。
きっと純粋な賞賛。
はっと息を
幕を張ったように遠くなった聴覚の中で、その一言が木霊する。
褒められた、褒められた、褒められた!
混乱の渦の中。その言葉を、
かっと頭に血が昇るのを他人事のように感じた。
「ふざけないで!! 適当なこと言わないで!お世辞のつもり!?
そんな適当な落書き! 素敵なわけがないでしょ!!」
脳裏に
一番上に乗った裏紙を奪い取ってぐしゃぐしゃに丸める。
先ほどまで強く吹いていた風はいつの間にか勢いを無くし、捨てた紙は視界の端に
威嚇するように犬歯を
「良い点取ってんだから、そりゃ余裕あるよね! 私にはそんなお遊びしてる暇は無いの!!
落書きなんか実現できるわけないでしょ!」
押さえ込んでいたはずの不満や怒りが、飛び出していく。
これが八つ当たりとは分かっている。どこか冷静な自分が口を閉じるように言っている。
けれど言葉が止まらない。
「みんな正しいことを言ってるのに、私には出来ないの! なんで!?
でもそんなこと嘆いている暇があるなら練習しなくちゃいけないの!!
助言もたくさん
なんで出来ないの、期待に応えられない自分なんて必要ない!
落書きに現を抜かすなんて出来ない!」
叫び、
絞り出すように声を出していけば、徐々に身体は折れていく。
筋の浮いた手で胸元を握りしめ言葉を振り絞る。
始めはソチトルに向いていた言葉も今や誰に向けるでもないものに成り果てた。
突然の怒号に、目を丸くしたソチトルは、イルダの怒号を、受け止めず、受け入れず、けれど、無視することなく、その場に居た。
強く紙を飛ばした風が
「みんなが、もうお前はだめだ、って手を離される前に、出来るようにならないといけないのに」
「このままじゃだめだって、分かってるのに……でも、出来ないんだよ……」
暴風のように
泣き言交じりの言葉を発して、徐々に徐々に身体を丸めて座り込んでいくイルダ。
膝に顔を埋めて、周りを拒絶するように。
やがて、イルダが何も言わなくなり、辺りに
ソチトルは、イルダの隣に無言で座った。
急に隣に出現した
ソチトルはイルダの顔を見ることなく、こてんとイルダの肩に頭を乗せた。
「無視したって良いんだよ」
「え?」
慰めの言葉を掛けられるとは思っていなかった。
感情の
どこか遠くへ投げられたソチトルのまなざし。まるで自分に言い聞かせるように、ソチトルは言葉を重ねた。
「いいの、人の言うことを聞かなくったって。自分がいいなって思ったところだけ切り取ればいいの。都合よく使えばいいの。
真面目に、全部を受け取ってたら、自分が分からなくなっちゃうよ」
その言葉は、今までイルダに掛けられたことのない言葉だった。
その言葉は、凝り固まっていたイルダの視界を晴らす言葉だった。
ほろりと、
やっとこちらを向いたソチトルが差し出した手巾が涙を吸う。
「じゃあ、頑張ってね」
言うだけ言って、ソチトルはさっと立ち上がって、すたすたと歩いて行った。
一人、手巾を持って立ち尽くすイルダ。謝ることも出来なかったとしばし
何も変わらない、二人以外の誰も知らないただ一瞬の
けれどどこか軽くなった身体に、今まで無駄に力が入っていたことを自覚した。
足取り軽くイルダは歩む。
涙の跡を残したまま進みゆく後ろ姿。どこか張り詰めていた彼女はもう
いつかの朝。どこかの店で。
「何か良いことでも?」
店の
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