箱庭はもう死んだ

 荘厳そうごんな神殿の前に、立ち並ぶ屈強な男たち。

 引き締まった筋肉は迷彩服に押し込められ、覆面の上から保護眼鏡をかけ肌の露出は一切無く、物々しい雰囲気を醸している。

 広い道を埋める特殊部隊に押しやられ、野次馬やじうまたちは離れた位置から様子を伺っていた。


 男は部隊の一員だった。

 手の中の短杖たんじようを握り、合図を待つ。

 胸に下げた写真入首飾りロケツトペンダント填められた家族の写真。天使のような笑みを浮かべる娘が任務の終わりを待っている。

 一分か、二分か。待つ時間は長く。今か今かとく気持ちを抑えていた。


「突入!!」


 隊長の声に従い、放たれたように男は神殿へ無粋に足を踏み入れた。


 群衆に慌てて飛び出した神官たちを無視して、男たちは奥へ奥へと進んで行く。白磁に塗られた壁と大理石が敷き詰められた床。掃き清められたそれが土埃つちぼこりでくすんでいく。

 次から次へと出てくる障害物を男は一顧だにしない。細くたおやかな腕は闖入者ちんにゅうしゃを阻むこともできず、それどころか退けられていく。


 奥へ進むにつれ、神官も少なくなった。

 前方から来る者はほとんどおらず、男たちに押し退けられそれでもどうにかすがる者しかいない。


 等間隔に並んだ晶灯ランプ

 綺麗きれいに磨かれた床。

 けれど、徐々に生活感をなくして行く様子に、男は少し身震いをする。神官たちが住んでいるだろう区画にはあった、生きている人間の気配が薄い。

 足取りを緩めた男を不審に思い振り返った同僚に、慌てて首を振り、先を急ぐ。


 男たちは最初、三つの小隊に分かれていた。

 けれど、事前情報よりも入り組んでいる神殿内に更に小隊を分けて進むことになった。追い縋る者も振り払った頃には、男は同僚と二人になっていた。


 周囲を厳重に警戒しながら進んでいく。

 迷宮のように先の見えない廊下の先へ。

 そうして男は当たりを引いた。


 神殿の奥深く。

 隠すように守るようにある部屋。扉にかかった厳重な保護魔法。許可された者以外の出入りを禁じるそれを無理矢理むりやりに破り、開け放った先。



 人形の如く神々こうごうしい少女がいた。

 薄く水の敷かれた床から、ほんの少し飛び出た台座の上。静々と座り、身の丈以上に伸びた髪を床へ落とし、水面に揺蕩たゆたわせる。

 目を伏せたままの顔貌がんぼうは彫刻のように整い、薄く色づいた唇だけが生命を感じさせる。絹で作られた幾重もの薄衣が体にまとい、少女はそこに鎮座していた。


 その、同じひと・・ではないような、見たこともない美しさに男は気圧けおされた。動くことも、声を出すことすら出来ない有様。恐らく隣にいる同僚も似たような状態なのだろう。 


 動けない二人の男。裏腹に少女はおもむろまぶたをあげ、闖入者ちんにゅうしゃへとやおら目を向ける。


 全てを見透かすような無垢むくな瞳。

 姿を盗む鏡のような無機質な瞳。

 あまりにもひとから乖離かいりしたその瞳にひたりと見据えられ、男の体が固まる。

 人らしからぬ様相に圧倒される。


 けれど、確信した。

 彼女こそ、作戦の目標だと。彼女を確保することだけが目的であるのだと。


 精霊の愛し子。生まれながらにして精霊に愛される子供。存在するだけで周囲に恩恵をもたらす者。ゆえにこそ、搾取され何も知らぬままに生を終えることがほとんどの幼子。


 彼女もまた神殿に閉じ込められていたのだろう。ひととの関わりを絶たれ、ひとらしさを学ぶこともなく育ってしまった、ひととは思えぬ少女。


 あり得ぬほどの豊作を疑い、突入しなければ分からなかった闇。

 怖気おぞけを振り払い、生唾を飲み込み、少女へと手を差し伸べる。


「君を保護する。こちらへ」


 きょとりと首をかしげる少女は、数瞬の後、男の手を取った。

 あまりに小さくか細い手を――娘より幼い子供の手を握り、男は嗚咽おえつを必死になって堪えた。




*****




「もはやアレに頼るしかすべはないか…」 


 ひょこひょこと髪を揺らしながら歩く少女は、周囲に暖かい眼差まなざしで見守られていた。


 神殿の奥深くに隠され閉じ込められていた少女。男によって助け出されたのち、紆余曲折うよきよくせつの果てにフェルフェ学園の預かりとなった。

 教員たちは最初こそひとらしからぬ相貌にまれかけていたが、乾いた砂に染みこむ水のように瞬く間に知識を吸収していく少女に楽しくなったのか、あれやこれやと世話を焼き、多種多様な知識を叩き込んでいった。

 一人で暮らしていけるように知識を詰め込まれた少女は、けれど閉ざされていた弊害か、生来の性質かあまりにも自主性に欠けていた。


 知識だけ詰め込んだとて、情緒が育たねば結局箱庭にいたままと変わらない。

 方々が手を尽くしたものの変わることのない表情に、ついにさじを投げたお歴々は、図書館に眠るものへと少女を放り投げることにした。



 そうして少女が辿たどいた図書館。

 眼前にそびつ巨木はところどころに穴が開き、窓となっていた。小さく作られた入り口から身を滑り込ませ、少女は図書館へと足を踏み入れた。


 幹の中には広大な空間が広がっていた。

 それは迷宮の如き知の倉庫であり、巨木の生命が息づく魔法に満ちた場所であった。

 

 切り出された本棚には隙間なく本が詰められ、来客者を探求へと誘う。壁に沿って視線を上げていけば、室内とは思えないほどに高い天井が広がっている。格子状に晶灯ランプが配置され、窓のない空間だというのに、いっさい暗さを感じない。


 少女は静かに本棚の間を歩いていた。私を見て、僕を呼んでと誘う本の声など聞こえないのか、脇目も振らずにしかしゆったりとした足取りで歩いていた。


「なあ。あれが、例の?」

「らしいね。やっぱり見た目からしてちょっと」


 棚の先、業務用扉のすぐそばで話す人影。

 自分を見て発された音に反応した少女が振り返れば、こそこそと話していた二人はすぐさま口を閉じ、った笑みを浮かべて、扉の中へ消えていった。


 それをぼんやりと見送った少女は身を翻して、何事もなかったかのように歩き出した。


 迷路のように入り組んだ棚と棚の間をすり抜けていく。

 伝うつるが道を指し示し、淡く光る晶灯が足元を照らす。


 それらを通り過ぎて二階へと続く階段を登る。

 二階に広がるのは理路整然と並ぶ本棚。自然と融合した有機的な一階とは打って変わって、直線で構成された空間だった。綺麗きれいに整えて仕舞わしまわれた本。いろとりどりの背表紙に細かく押されたはくが添えられていた。


 三階はほのぐらい洞窟のような暗く湿っていた。床と天井をつなぐ本の柱の間をくぐけ、継ぎ目のない壁の前に立つ。


「前に五つ、右に三つ。教えられた通りに」


 小さく小さく、隠すように作られた取っ手を見つけ、教えられた隠し扉に手をかける。


 木々の擦れる音がする。少女が懸命に体重をかけても中々開かない扉は、それでも徐々に隙間を広げていく。

 開いた先。

 灯ひとつない真っ暗闇の階段を、うようにして少女は登る。


 まったほこりを吸い込み飛び出るせき。ごほごほとせながらも、示された先へと歩みを止めることはない。

 くるりと半回転したところで、また扉がある。

 階段は終わった。ぺたぺたと確かめるように扉に手を触れ、探し当てた取っ手を回す。


 入り口の扉とは打って変わって、軽い力で開いた扉。体重を乗せていた少女は勢い余って、部屋の中に転がり込んでましまった。


「こりゃまた、とっぴな客が来たもんだ」


 ころころと転がった先。

 何かにぶつかって止まったところで、掛けられた声にその方向を向く。


 そこには煙管きせるくわえて、煙を吐き出す男がいた。

 長く垂れ下がった前髪。その隙間からのぞく糸目のふちあかいろどられ、鼻から下を覆う口布によって怪しく切り取られている。


 濁ったようなすすけた茶色の布が身を包む。無作法に立てられた片膝。前に合わせられた裾からは素足がのぞく。小高く積まれた本の山。その上に居座る男。

 組み直した足の先からはじゃらりと鎖が伸びていた。 


 少女が転がった先は男の足元。

 見上げた男を吸い込まれるようにじっとみていた。

 動こかないでいる少女を心配してか、男がよっこらと軽く声を出して立ち上がり、山を崩さない程度にがさつに降りてきた。そうしてぜん、彼女の首に向かって手を伸ばす。


 猫の子をつかむようにして持ち上げられ、されるがままの少女。

 表から裏から少女を見て、ふぅと吸い込んだ煙を吐き出して。そして興味を失ったかのようにぺいと投げ捨てた男。唐突に捕まれ、放り投げられた彼女はしかし、危うげなく着地する。


「それで、なんでこんなとこに来やがったんだ?」


 男の問いに、幼子はこてんと首をかしげる。


「エルビス翁に行けと言われたから」


 まろい唇から放たれた言葉をしばし咀嚼して、男はあんぐりと口を開けた。


「はぁ!? あのくそじじい、とんだ厄介者放り投げやがって……!」


 小さな声で、悪態をつく男。潜められた言葉は少女には届かずに済んだ。

 あきてた男が手で顔を覆い、天を仰ぐ。


「お前さん、名は?」

「フタク。」

「そうか。俺は図南。好きに呼びな」


 ちょいちょいと手招きして、フタクと名乗った少女を呼び寄せる。素直に近づいた彼女はちょこんと男の足元に腰を下ろした。


「で、何て言われて来たんだ?」

「学べ、と」

「何を」

「心?」


 こてりと可愛かわいらしく首をかしげたフタクに、図南は、盛大にため息をついて、息を吐き切って、頭を抱えてうめごえを挙げた。


「ほんとになんつー難題投げやがったんだよ…」



 ――心。

 ひとの理性・知識・感情・意志の働きのもとになるもの。

 ひとをひとたらしめる原理。

 魔法を正しく扱うために必要となるもの。



 通常、心を育てる情操教育は幼少期に家庭で行われるものである。幼稚舎や初等部で感情制御の一端を学ぶことはあれども、〝心〟自体を会得えとくするような授業などありはしない。


 しばらくうずくまうなっていた男が徐に指を振る。すると、図南の後方。壁際に積まれた本の中から一冊の絵本が飛び出してきた。


「お前、本は読んだことあるか?」

「ない」

「じゃ、こっちこい。読み聞かせてやるよ」


 座り込んだ足の間に少女を置いて、図南は手に取った本を開いた。


「知識の語り手 万象の導き手

 其は夢幻の扉を開き 新たなる扉を開くもの

 虚像よ 我が声に応じ今ここに現出せよ」




 その一節が男の口から飛び出た瞬間、フタクは海の中に居た。

 透き通った水の中。半端に空いた口から漏れては登っていく小さな泡。きらきらと光る水面に目を奪われて、消えた床に気づかぬまま、ゆらりと体が落ちていく。


 こぽりと、大きな泡が、上がって――


「あっぶな! ったく…油断も隙もねェな」


 誘われるまま海底へと落ちかけていた体が引き寄せられ、ふわりと水中に立つ。


「ここは水の中であって、水の中じゃねェ。

 沈むと思えば沈むし、立っていると思えば立っていられる」


 男に促されるままに、フタクは何もない水の中で直立する。

 沈まない身体。地や底に触れずに立っていられることが奇妙で、魔法のようだ。


 深淵しんえんあおに染まる海底。揺らめく陽光が踊るように降りてくる。少し離れた所には鮮やかな色彩の珊瑚礁さんごしようが広がり、その周りを小さな魚たちが出入りする。

 波に合わせて揺蕩たゆたう海草をかくみのに、優雅に泳ぎ回っていた。


「溺れるにしたって、もっと暴れろよ。静かに沈んでいくな。わかってんのか?」


 ぶつくさとのたまう男の声は、右から左へと抜けていく。遠くに投げた視界の果てにフタクは何かを見つけた。


 人魚だ。

 幼い風貌の人魚が、こちらに向かって泳いできていた。

 説教を聞き流す少女に青筋を浮かべるも、少女の視線の先に気づくと事もなげにぽつりと告げた。


「あぁ、あいつがこの本の主人公だな。行くぞ」




 ――あるところに仲の良い人魚の家族がいた


 朗々と男が物語る。

 泳いでいた人魚の男の子が、似通った顔立ちの人魚たちに迎えられる。


 ――祖父に可愛かわいがられる一人息子。しかし、あるとき、祖父は病に倒れてしまう


 少年の頭を優しくでる老爺ろうや。にこやかに笑っていた顔が、ゆがみ、伸ばしていた腕が力を失い、崩れ落ちる。少年の悲痛な叫びが水を伝う。


 ――方々、家族は手を尽くす


 家の中に医者が出入りする。頻繁に、何人も。評判の良い医者は遠くでも来てくれるように頼み込んだ。     


 ――けれど病状は悪化するばかり。


 たくさんの人魚が見舞いに来る。けれど、薄く笑う老爺ろうやの顔はやつれ、腕も骨と皮のみ。


 ――力になれないと嘆く少年は、万能薬のうわさを耳にする。


 心配を掛けまいとする祖父によって遊んでおいでと家を追い出された少年。けれど、暢気のんきに遊んでいられるはずもなく少年は一人家のそばうずくまっていた。

 ふと、遠くを通る人魚たちの噂話うわさばなしが聞こえる。


 ――さあさ、万病に効く果実を求めて。少年は家を飛び出した。


 情けない面をきっと引き締めて、少年は弾丸のように飛び出した。



 

 序章が終わり、物語が動き出す。

 |平穏な日々から離れ、少年は誰も守ってくれはしない海へと身を投げた。


 どこにあるか、正確な場所など分からない果実を求めて西へ東へ泳ぎ回る少年を追って、フタクたちは物語を読み進めていった。


 場面が変われば、その土地について。見たこともない魚がいれば、それらについて。

 あるいは、あてなどなく、救いを求める少年の心について。

 図南は、あれやこれやと細やかにフタクに言って聞かせた。


 蓄えた知識を、読み取った感情を、言い含ませるように語り続けた。

 はじめは何を語っても無反応のフタクであったが、物語が佳境に差し掛かるにつれ、段々と小さな反応を返すようになる。


 海流に乗る流木に少年が押し流された時には固唾かたずんで見守り、海草に隠れた魚に少年が道を尋ねる時には同じように回り込もうと身体を動かして。

 すこしずつ出てくる反応を横目に見ながら、図南は物語を進ませていく。


 ――西へ東へ、南へ北へ。世界を巡ると思うほどに泳いだ果て。


 少年は果実を見つけた。


 それは黄金に輝いていた。

 それは摩訶不思議まかふしぎな紋様を描いていた。

 それは海の中でも感じるほどかぐわしい匂いを漂わせていた。


 どこかから流れてきた果実は水面に浮かび、太陽と見まがうほどに輝いていた。

 恐る恐る果実に手を伸ばす少年。触れたそれを大事に抱え込んで、声なき声を上げる。

 少年が家を出て、既に半年がとうとしていた。




「ほれ」


 一人孤独な旅の果て。ようやく手にした果実を胸にした少年。

 その姿を感慨深げに見守っていたフタクの手に、図南が放り投げた果実が収まる。

 くだんの万能薬である。

 少年が追い求め、苦難の果てに手に入れた宝が、いとも簡単に手の内に入っている。


「……食べられるの?」

「食えるぞ。腹は膨れんが」


 無造作むぞうさに食べている図南をまねして、フタクも小さな口でかじりついた。


 途端、口の中に広がる苦み。我知らず顔がゆがむ。吐き出すことはしないものの、口の中を占領する不快感を脆弱ぜいじやくな表情筋を総動員して表していた。

 それを見て図南が笑う。まだまだ子供だな、と。


「さ、あとは帰るだけだ」


 慟哭どうこくを止めた少年が尾鰭おひれを翻して、家へ向かう。回り道も必要ない。最短距離を泳いでいく。

 見覚えのある場所に戻ってきた。遠くには老爺ろうやの待つ家が見える。


 ――しかし、そうは問屋が卸さない。


 物語はいつだって過激さを求めている。

 ゆらりと、影がゆらめく。

 不意に現れた流線型の影。しなやかに動く尾鰭おひれと、薄らと開いた口からのぞく鋭い牙。


 さめだ。


 急いで岩場に隠れた少年。目の前のさめに見つからずに家に帰るには、ひどく遠回りをしなければいけない。

 命あっての物種。けれど、果実を持ち帰らなければ旅の意味はない。


 せわしない心臓を押しとどめて、目と鼻の先にある家に背を向ける。そして、鮫に見つからない、すこしくぼんだ谷から抜けようとしたところで、もう一匹の鮫が現れた。さらにひとまわり小さな鮫が続いていく。群れだった。


 元々青白かった少年の肌から、さらに血の気が引いていく。

 たとえこの群れをやり過ごしても、家はすぐそば。鮫の群れに襲われたら一溜ひとたまりもない。


 だから、少年は、逃げることをやめた。


 隠れていた岩場から身を表す。ゆらめく光は並んだうろこによって反射し、鮫に位置を教える。視界の果てに少年を捉えた鮫は、焦ることなくゆったりと身体の向きを変え、少年と相対する。


 抱え込んだ果実を、落とさないようにしっかりと握って鮫とにらみ合う。

 極上の獲物を仕留めんと散会した群れ。一定の距離を保ちつつ互いの位置を変え、一瞬の隙に、少年は身を翻した。


 祈るように手を合わせ、薄目で少年を見やるフタク。


 恐る恐る手の先からのぞる世界は、残酷で美しい。

 ひらりとうろこきらめかせて逃げる少年に、迫り来る牙をぎらつかせたさめ


 林立する海藻にたびたび隠れながら、付かず離れずの距離を維持するように懸命に尾鰭おひれを動かしている。

 もう、家からはずいぶん遠くなった。


 迫る鮫の群れのはるか向こう。小さくなった洞穴に心が緩んだ瞬間、真横から迫っていた鮫に手をまれる。


「ダメ……!」


 噛みちぎられる前に振り払ったため、なんとか指はつながっている。けれど止めどなく流れる血が海に溶け、獰猛どうもうな鮫がより興奮していく。抜け目なく、包囲するように位置取る子鮫。


 辿たどいたのは海底岬だった。切り立った崖の下には勢いよく海流が走り、巻き込まれればひとたまりもない。海の藻屑もくずになってしまう。

 岬の先に陣取った少年。


 彼に向かって、ジリジリとさめが近づいてくる。

『お前らに殺されてやるかよ』

 にやりと笑って身を投げ出した。沈みゆく体が海流に飲み込まれ、酷く揉まれていく。


 流石さすがの鮫たちも、小さくなった少年を追おうとはしない。血を追おうにも海流に飲み込まれずに行くことは難しい。せっかくの獲物を諦め、ふずふずとどこかへ帰って行った。


「死んじゃったの?」

「さあな。探してみればいい」


 図南に促され、フタクは恐る恐る走り出した。海流に沿うように泳ぎ、少年の姿がないか、目を凝らした。


「居た!」


 えぐれた崖の小さな影。

 血塗ちまみれの手を海藻の葉で巻き、ぎゅっと縛っていた。血が流れないようにきつく絞められた手はむしろ鬱血うつけつしてしまいそうなほど。逃げる最中、体のあちこちを切り立った岩に擦られ、擦過傷だらけだが、抱え込んだ果実には傷ひとつない。


 満身創痍まんしんそうい。けれど、闘志はいまだ瞳にぎらつく。

 弱々しく、尾びれを動かす。泳ぎは遅く、道のりは遠い。

 懸命に逃げたが故に、家の場所もよくわからない。


 それでも、少年は諦めなかった。


「がんばれ……!」


 フタクの声が聞こえたかのように、少年の速度が上がる。


 そうして遂についに、故郷が見える。

 逸るはやる気持ちに、尾鰭おひれが続く。


 遠くに見える窓。外を眺めていた祖父と目があった。ぎょっと目を見開いて、跳ね起きる姿が見える。

『おじいちゃん!!』

 玄関に出てきた老爺ろうやに勢いよく抱きつく少年。彼をしっかりと抱きしめて、老爺は安堵あんどのあまり涙を流していた。


 ――果実を求めた冒険の果て。少年は漸くようやく帰路についた。


 忘れていた男の声が響く。

 家先での騒ぎに気づいた他の家族もわらわら出てきて、少年の帰還に気付き、驚き、喜んだ。


 ――獲得した果実を祖父に渡す。かじいたそれの苦さに顔をゆがめる。


 あんまりにもひどい顔をするから、みんなして笑ってしまう。


 ――半信半疑の食の末、死のふちまで漂ったこともあった老爺ろうやはすっかり元気になった。


 少年と老爺が楽しそうに話している。


 ――めでたし、めでたし。




 ぱっと、場面が切り替わる。

 さっきまで海の中にいたというのに、瞬く間に図書に埋もれた秘密の部屋に戻っていた。


 浮力を失ったフタクが、尻餅をつく。

 呆然ぼうぜんとしたまま。ぽかんと口を開けたまま。フタクは座り込んでいた。


 足枷あしかせつながる鎖をじゃらりとって、男がフタクのそばに寄る。

 にやにやした顔を隠すことなく少女に向け、楽しげに口を開いた。


「面白かったか?」

「すごく」


 考える間もなかった。

 思わずといった具合に飛び出した返答。かかっと吹き出すように笑った図南に、わけがわからないと首をひねるフタク。


 しばらくった笑いがようやく治った頃、図南は窓の外を指指した。真っ暗だ。門限の決められているフタクは、急いで出口へと向かう。

 扉に手をかけ、潜り込もうとした時。少しだけ振り返って、男に尋ねた。


「また、来てもいい?」

「好きにすればいい」

「うん、じゃあ好きに来る」


 ほんの少しだけ口角をあげて、わずかにまなじりを下げて。

 今日一番の笑顔を見せて、フタクは暗がりへと身を投じた。




 それからというもの、図書館の秘密部屋にたびたび訪れる少女の姿が見られたという。

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