空の音、星の影。
速水ひかた
惑う道に烏が一羽
波一つ立たぬ湖の
水際まで迫った森の一角を切り開いて、一つの館が目に飛び込む。
白亜の
その一角に、
「理論上は合っているはず……。循環する水は巡り、橋架ける鳥によって
部屋の中は
がりがりと、机が削れてしまいそうなほどの筆圧。訂正する時間さえ惜しいと、書き損じた紙は机から
こんこん、と扉を
「邪魔するよ。お前さん、また食事を抜いたんだって? イサークが心配していたよ」
お盆を片手に、壮年の女が部屋へと足を踏み入れる。足下に散らばる紙を避けながら、女は少女へと声をかけた。
「……すみません、もう少しだけ。イサークさんには、また後で食べますと伝えてください」
「そう言って、次の日まで食べなかったのは誰だろうね?」
文字を
その様子に、女は深く、深くため息をついて、
途端、
「……そうだ、お茶菓子が切れていたんだ。ティーナ、買ってきておくれ」
そして、女は少女を猫の子を
「えっお師さま!?」
ひょい、と軽く放り込まれた転移門の先は、夏の日差し照りつける露天であった。暗闇の中の
少しして、色を取り戻した視界に飛び込んできたのは、見慣れた石造りの噴水だった。
休むことなく
やむことのない
エーカ区、旧市街だ。
そう気づいて、ティーナはさぁっと血の気が引いていくのを自覚する。
フェルフェ島国は三つの島からなる群島である。その中で最も大きなネロレ島の第一都市フィルス・オス。十に分割された区。エーカ区は市の、国の中心地であった。
人が集まり、物が集まり。
良い商品もそれはそれはたくさん集まるのだが、それを売るひとには癖のあるものも多い。国の一等地に店を構え、かつ、長く商売を続けるには、一定のこだわりの強さがいるらしい。そしてエーカ区で師が
一見お断りは当たり前。そもそも店に
ティーナがその店に行ったのは一度きり。しかも師に連れられてのことだった。
天井近くまで迫る棚に数え切れないほどの茶葉が並び、下段には多種多様な茶菓子が置かれていた。
そして、おつかいを頼まれた兄姉弟子たちは、二日も帰ってこなかったと聞く。
「ど、どうしよう……」
「ちょっと、邪魔」
「あ、ごっごめんなさい」
往来激しい転移門の前では途方に暮れることもできない。後からやってきた人のとがった声に、ティーナは慌てて道を空けた。噴水の前から小走りで走り、人の少ない広場の隅に身を寄せる。
ふぅと小さく息をつく。
普段館に
門から表れ、消える人の波が途切れることはなく、客引きの声は止まない。家族連れ、下校途中の学生、街を見にきた異国のひと、珍品を仕入れに来た商人。多種多様なひとが会話をし、物を買い、覚え立ての魔法を披露する広場は、見ているだけでもなんだか疲れてしまう。
「……でも、行くしかない、よね」
悩んだところで時間は有限である。
いつの間にか握らされていた地図を開く。きっと門に放り込まれたときに渡されたのだろう。師の
期待を込めて開いた羊皮紙の地図。
そこにあるのは一本の線と二つの丸。
丸は中心に一つと中心から外れた右上の部分に一つ。それを
くるくると地図を回してみる。
――何も変わらない。
紙を水平にして横から
――線と丸があるだけ。
裏返してみる。
――何も書かれていない。
「えっうそ……」
余りにも簡略な地図。普通の店であっても、この地図だけで
空は、まだ青い。
中心の丸が現在地で、もう一つが目的のお店だということは分かる。
二つを結ぶ線が示しているだろう小道の前に立つ。不吉に鳴く
それでも足を止めることはなく、正しいと思った道を選んで進んでいく。中心地からどんどん離れていき、段々と人通りも少なくなっていく。確信を持てないまま交差点を曲がり、行き止まりに引き返し、見覚えのある標識を三度見つけたとき、すべてを投げ出して泣いてしまいたかった。
「ここ、どこ……?」
そして、民家で囲まれた細い路地にひとはいない。酔うほどに居たひとだかりも、一つ二つ通りを抜ければ姿を消してしまった。いるのは一羽の烏だけ。かぁかぁと鳴き、後ろをただ着いてくる。小道に入る時にいた烏だろうか。
気がついたときはティーナも驚き追い払おうとした。しかし、烏はティーナの
どこまでも続く石畳の路地に、
店に着いたとて門へ、館へ帰ることができるだろうか。
ふと思い立って、歩んで来た道を引き返してみた。一つ角を右に曲がり、次はまっすぐ、その次は左、と全く同じ道順を
きっと、ただ道を歩いているだけではだめなのだ。
ひと避けか、惑いの道か。そういった類いの魔法がかけられているのだろう。ティーナの知識の中にそれを打ち破るものはない。魔法の
けれど、立ち止まっていたままではいられない。助けてくれるひとはいないのだから。
まずは、空中からの偵察。暗いながらも路地には光が差し込んでいる。ならば、空を飛んで道を見つけられるかもしれない。
次に占い。なるべく
次は、声を大きくして反響音から道を探った。
その次は、周辺の魔素濃度を探って濃い方を目指そうとした。
それでもだめだったから、目印を置きながらすべての道を
思いつくことはすべて試した。両手で足りぬほどの方法を試した。けれども、ティーナは店に辿り着くことも、広場に戻ることもできないでいた。
日はだんだんと落ちてきた。
路地の頭上。切り取られた空も
一体何時間ここにいるのだろう。時計も持たずに放り出された身では、時間すら分からない。こんなこと、している暇はないのに。
思いつくものをすべて試しても、上手くいかない。
この状況が、ティーナ自身の研究と被った。何種類もの術式を描いて、描いて、描いて。使えそうなものだけを試して。それでもできなくて。研究に使う材料はタダではない。時間もお金も浪費していくばかりで、成果は出ない。
重なった焦りが、描く術式を誤らせる。
「しまっ――!」
術式の過誤は暴発を生む。
気づいた時にはすでに遅く、行き場を失った魔素が鎌風となってティーナを襲う。細かな疾風が肌を裂き、血を滴らせる。無理矢理、上空へ
魔法の暴発なんて、よくあること。術式の研究をしているのだから、
地べたに座り込んで、壁に身を預ける。石の冷たさが、
こんなところに座っていないで、立って、道を探すべきだと分かっているのに。ティーナの身体は徐々に傾きを増して、
すると、烏がティーナの近くに降りてきた。翼を広げ、顔を
「心配してくれるの? ……優しいね」
ただ後ろを着いてくるだけ。先導することもなければ、道を邪魔することもない。ただ、いるだけ。
それでも、一緒に居てくれたのだと、ふと今気づいた。
自分ひとりだと思い込んでいたけれど、烏はずっと
だから、その
「烏や烏、教えておくれ
――エンハシュエリスの店は
簡易契約術式。
対価と条件を提示し、相手が対価を受け取れば契約成立となる魔法。簡易と名がつくだけあって、簡単なことしかできない。
条件を釣り上げて相手を服従させることもできず、対価を釣り上げられ命を失うこともない。口約束より少し強い程度の拘束。
けれど言葉の通じない異種族の間で、手早くかつ確実に交渉のできる魔法。
今回の対価は髪留め、条件は道案内。するりと髪を解いて、手にしたそれを宙へと放る。
きらきらと街灯の明かりを受けて、飾りは輝く。烏は、それを
――契約成立だ。
髪飾りを
烏の
足は止まることなく進んでいく。先に進んでいるという事実に気分が高揚する。停滞していないことが
そうして
金属の枝が絡みつく看板、白い壁に映える漆黒の扉。
見覚えのある外観に
「ありがとう、君のおかげで助かったよ」
これで契約は終わり。魔法を閉じれば、烏は腕から飛び立った。くるくると頭上で回旋する姿が夕日に照らされる。翼を大きく広げ、優雅に飛び去っていく姿。
「あぁ!」
その姿に、これまでの烏に、妙案が浮かんだ。
術式要素の解釈を間違えていたかもしれない。水は恵みであり災厄であり、鳥は大空を
これなら、うまくいくかもしれない。
あぁ早く試したい。
術式を組んで、素材に落とし込んで、あぁ、なんてわくわくするのだろう。
弾むような気持ちで、ティーナは店の扉を開けた。
「お師さま! 聞いてください、いい案が浮かんだんです!」
「おや、ずいぶん元気になったね。まぁいい、お茶でも飲みながら聞かせておくれ」
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