10

トウト、もう行くよ」

「ちょっと待って〜」

「もー!4時半には行くっていったじゃん!」


 姉がグズグズと着替えている僕を急かす。姉の顔にはドアについた縦長の窓越しに夕陽が射していて、輪郭が金色に輝いている。

 

 僕は制服を急いで脱ぎ捨てると、パーカーとチノパンに着替えて玄関に走った。姉は白いワイシャツにジーンズを履いている。


 廊下には、姉の死体が並んでいる。首が折れた姉や、轢き潰された姉や、舌先のない姉や、眠るように死んだ姉や、首を吊った姉や、人体発火した姉がいる。


 みんな、目が笑ったまま、僕のことを見つめている。

 内臓が、血が、唾液が、糞尿が、ひどい匂いが廊下いっぱいに溢れかえっている。


 びちびちと、嫌な音がする。垂れ流される糞尿を、炎と夕日が喉が渇きそうになるくらい鮮烈に赤々と照らしている。


 ふらついて、うっかり胎児の姉を踏みそうになる。潰れた頭と、バラバラの手足。

 あ、あ、あ、と口がはくはく動き、やっぱり目は微笑んでいた。


 姉は白いワイシャツにジーンズを履いている。


 綺麗だと思う。

 僕は多分、姉のことがすごく好きなんだと思う。

 姉が僕を抱きしめた時の、手の感触を思い出す。ひどい煤の匂いがして、遠くで車のエンジン音が聞こえる。


 ドアの外にも数えきれない数の姉の死体があり、体液を滲ませてそれが海に混じり、空の星の50%に姉の眼球が混じり、僕らは姉の死体の上に文明を築いて姉の死体の上で滅びて行く。


 バクテリアに分岐されて蒸発した腐肉が大気に混じり、雲となり、そらが姉の死体の色になる時代がきて、降りしきる雨の中に姉の死臭が混じるのが当たり前になって、いつからか僕らはそれを悪臭だと思わなくなる。


 道路に、家々に、公園に、充満する姉の死体は自重で潰れてどろどろきらきら輝く半液状の物質に変性していく。それが時折一斉に燃える季節のことを秋と呼ぶようになって、その炎に姉たちが弧を描くようにして落下していくのだ。


 その中にある、家の、磨りガラスの窓があるドアの前で僕らは話している。

 

「ごめんごめん。ミュージカル遅れちゃうよね」

「ほんとだよ〜。はいっ」


 姉は、長いポニーテールを揺らして、僕の方に手を伸ばす。手は折れてしまいそうに細くて、指先はもっと細い。

 

 簡単に、折れてしまうのだ。首の折れた姉は、指も手首もめちゃくちゃに折れている。

 折れた先から血が滲んでいて、じゅくじゅくと垂れ落ちて、床に落ちるピトピトという音がどこからともなく聞こえる秒針の音と重なっている。


 ぶわりとガスが噴き出る。ひどい臭いが鼻をつく。ある種の恍惚に似た脳が痺れるような感覚。

 ああ、やはり。

 どんなになっても執着は消えないのだと思う。


 悪臭に混ざって、生きている姉の柔らかい匂いがする。僕は、それを感じながら口を開く。


「姉さん、僕……俺もう中学生なんだけど」

「中学生なんてまだまだ子どもじゃん。いいからほら、手ぇ繋ぐよ」

「はいはい」


 僕は手を伸ばす。右手で姉の手を掴む。

 背は僕の方が低いのに、手は僕の方が少し大きい。

 鍛えているからかもしれない。関係ないか。


 細い、指だ。この指に、指輪を通すところを想像する。姉はきっと、笑ってくれるだろう。

 見せびらかすように手の甲を見せる姉の姿を想像する。


 結局のところ、僕らはとても小さくてすぐに死んでしまうもので。

 だから、僕が嬉しくて姉も喜んでくれるならそれでいいじゃないか。


 僕は姉の手に指を絡ませると、そのまま引き寄せ口付けた。


「へっ……!?」


 姉は、困惑しているようだった。パチパチと瞬きする目が可愛らしい。

 

 僕は。

 姉が。

 僕は姉が好きだ。


 姉の唇に、唇を重ねる。

 姉は、わずかに抵抗する。

 形式のような、嘘くさい抵抗。

 左手をそっと腰に回すと、姉は安心したように目を瞑って僕に体重を委ねた。


「好きだよ。姉さん」


 息継ぎの間に姉の名前を呼ぶ。


「やっと言ってくれた」


 姉は泣きながら笑った。

 

 その間も死に続けている姉たちも笑った。

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そして姉は死に続ける 弓長さよ李 @tyou3ri4

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