そして姉は死に続ける

弓長さよ李

1

トウト、もう行くよ」

「ちょっと待って〜」

「もー!4時半には行くっていったじゃん!」


 姉がグズグズと着替えている僕を急かす。姉の顔にはドアについた縦長の窓越しに夕陽が射していて、輪郭が金色に輝いている。

 

 僕は制服を急いで脱ぎ捨てると、パーカーとチノパンに着替えて玄関に走った。姉は白いワイシャツにジーンズを履いている。

 

「ん」


 姉は、長いポニーテールを揺らして、僕の方に手を伸ばす。手は折れてしまいそうに細くて、指先はもっと細い。


「姉さん、僕……俺もう中学生なんだけど」

「中学生なんてまだまだ子どもじゃん。いいからほら、手ぇ繋ぐよ」

「はいはい」


 僕は手を伸ばす。背は僕の方が低いのに、手は僕の方が少し大きい。

 鍛えているからかもしれない。関係ないか。


「どこ行くんだっけ」

「なに、忘れたの?」


 いや、覚えている。覚えていると、思う。今日は確か、二人でミュージカルを見に行くんだ。姉の大学の友達が出ているとかで、無理矢理同行させられることになった。

 

 名前はなんと言ったっけか。いまいち覚えていない。興味がないのだ。あまり。

 

 確か、女の子ではあったと思う。ただ、ぼやけてどうでもいい。思い出そうとすると、頭の中で姉の顔が像を結んでそっちに引っ張られていく。

 興味がないのだ。ミュージカルにも、姉の同級生にも。

 

 でも、姉さんに誘われたのは嬉しい。

 

 なんて、恥ずかしくて言いやしないけれど。

 

 姉の顔が夕日でキラキラ輝いて、僕はつい目を細める。ドアには、ガラスの窓のようなものがあって、僕はこの部品の名前を知らない。磨りガラスで、そこから細かくなった光が入り込んでいる。

 

 靴箱の上にある写真や、いつ買ったかもわからない磁器の置物。なんだかどれもぼやけている。

 

 僕の視界や、頭の中はぼやけている。

 姉の顔だけが、鋭利に輝いている。

 いや、そんなのはどうでもよくて。

 姉の質問に、答えないと。

 

「ミュージカルでしょ」

 

 うん。ミュージカルに、行くのだ。

 

「演目は?」

「……」

「もー!」

「たはは」


 僕は誤魔化すように、姉の指に自分の指を絡ませた。綺麗な爪の形をしている。子どもの頃に爪を噛む癖があった僕は、そのせいなのかどうも爪が分厚くて、そんなに綺麗じゃない。


「姉さんみたいな爪が良かったな」

「適当言って誤魔化さないの。それに君はいいんだよこれで」


 姉が強く僕の手を握り返す。冷たい、心地よい温度に、急に寂しい。

 なにか、忘れ物をしたような。

 こんなことをしていて、いいのかと言うような。

 姉が駆け出して、僕はわたわたと鍵を閉める。


 玄関の外には小さな庭がある。庭といっても空間としてはわずかで、そこにいくつかの鉢植えと、ジョウロ、あとはサンダルが置いてある。ベランダより少し広いくらいの、本当に狭い庭だ。


 その向こうに道路がある。道路には車が走っている。

 姉は、道路の方へと、とてとて進んでいく。

 

 空色と白のスニーカー。ジーンズとの間に、わずかに足首が露出している。細く、硬質で、すべらかな足首。

 

 僕は妙な色気を感じて、頭を振った。

 相手は姉さんだぞ。

 何考えてるんだ。

 

 まだ少し暑い。このパーカーはチョイスをミスったかもしれない。遠くで、蝉の声が聞こえる。

 

 今は確か夏だったか。それすら微妙に定かではない。なんだか、ついさっき記憶がはじまったみたいに、知っていることと、実感が乖離している。

 

 僕は僕の家から出て、姉と一緒にミュージカルを見に行こうとしている。

 

 姉の大学の同級生の女の子が出るから。

 それは、知っているのに。

 なんだか、知っているだけみたいだ。

 

 遠くで、ぐおおおおんと絶叫のような音が聞こえる。都市で時折聞こえるこの音は、何の音なのだろう。何年も生きていてもそんなことも知らないのだ、僕は。


 姉が進む。僕も引っ張られて進む。

 

 夏の、多分晩夏の夕日に照らされて、わずかな空気のたわみに揺れる姉の髪は綺麗だ。

 

 僕が見惚れて、強く手を握り返した──

 

 視界が、赤くなって──

 

 強く手を握り返した──

 

 これは、陽光だろうか──

 

 手を、握り返した──


 赤──


 握り、返した──

 

 次の瞬間、庭に侵入したトラックが姉をすり潰していた。

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