7

 僕は交差点にいる。人のいない交差点で、誰かを待っているような気がするのだけど思い出せない。


 向こう側に見せる衣料品販売店は、煌びやかなライトが漏れているのに人っこ一人いない。赤い看板に描かれた文字はぼやけていて、どうにもはっきりしない。


 その隣のカフェは、看板の塗装が剥げているのが妙な郷愁を刺激して、無人の席に生クリームを乗せたココアが置かれている。


 人のいない、空っぽの交差点だ。


 向こうから、女性の集団が歩いてくる。奇妙に頭をぐらつかせて、何かを落としながら歩いてくる。

 もうもうと、奇妙な音がする。ぶちゅぶちゅと、不愉快な音がする。笑っている。遠くからでも笑っているとわかる。

 

 一人は、光っている。赤やオレンジに。

 

 頭が揺れる。カクカクと揺れる。


 すれ違いざまに、

 

「尊」

 

 と聞こえた。


 それは、六つの姉の死体だった。


 


 僕は、木目の歪な廊下に座らされている。目の前には顔のぼやけた何者かがいる。目を落とすとブルーシートがある。

 “何者か”はぼやけた手を震わせながらブルーシートの端を持ち上げる。何者かは「見ろ」と言うジェスチャーをする。


 肉塊にような何かが見える。何者かは一気にブルーシートを引き剥がす。


 そこには六つの姉の死体があった。



 

 僕は劇場にいて、黒い可動式の椅子に座っている。手にはパンフレットがあって、前の方に客は見えなかった。


 隣に、誰かいたような気がするのだけれど思い出せない。異音がして、幕が上がる。


 そうだ。ミュージカルを見に来たんだった。確か、姉の大学の同級生が出るからと無理やり。


 そういえば、姉は。

 姉はどこだろうか。

 いや、そもそも僕は一人で来たんじゃなかったか。


 ダメだ。思い出せない。


 ぼうぼうぼうぼうもうもうもうもうと聞き取れない歌声が響いてきて、いくつかの人影が舞台に立つのがわかる。


 パッ。

 真っ黒な舞台にスポットライトが当たる。


 そこには死体がいた。

 死体と死体が、くっついて、離れて、皮膚が剥がれて肉が飛び散って、微笑むように優雅な動きで踊る。


 グチャグチャの指が木の枝のように揺れて、ずるずると足に絡んだ脂肪はタイトなドレスのようだ。間の抜けた、ある種牧歌的な音楽の中でぐずぐずと混じり合う死体たちはどこか官能的でさえある。


 手足がピンと伸ばされ、緩み、右手をちょんと腰に当てて、左手を羽根のように伸ばして、爪先立ちして、たんとんと跳ね、時に滑稽に、時に優雅に、見事な身体の描く軌跡は蝶が飛び回るのに似ていた。

 

 踊っていたのは六つの姉の死体だった。



 

 畳の部屋が延々と広がっている。延々と広がる向こう側は薄ぼんやりとしていて何も見えない。


 僕は無心に畳を剥がそうとしている。なぜ剥がそうとしているかはわからない。畳が重くて爪が剥がれそうになる。血が噴き出て、指先がヒリヒリしても無心で畳を剥がそうとする。


 畳の隙間に指が入って、なんとか持ち上がるとその下が石棺のようになっている。


 冷たい石の匂いに混じって、酸っぱい匂いがする。その匂いが鼻の穴を通じて喉まで入り込み、僕は思わず嘔吐する。石棺の淵が半透明の黄色っぽい胃液で汚れて、僕はひとしきり咳き込んだ後畳を完全に外す。


 畳の中には肉がパンパンに詰まっていて、髪や顔が僅かに見えるほかはどんな姿でどこにどの部位があるんだかわかりゃしない。


 でも、はっきりわかった


 六つの姉の死体が詰まっていた。




 森の中を走っている。


 真っ黒着てゴツゴツした木々が水に垂らした絵の具のように刻一刻と千変万化しときに檻のように、時に装飾のように形を変える隙間から姉がのぞいている。


 僕はひたすらその中を走っている。目的もわからない。どこに向かっているのかもわからない。ただ無茶苦茶に足を動かしていて、まるで何かに急かされるように前進していく。


 そもそも今向かってる方向が前なのか?それすらわからない。木々が変化していく。くねくねと、くねくねと、僕を捕まえようとしているように、変幻していく。その隙間から姉が見ている。横から、上から、根元から、姉が見ている。死んでいる姉が見ている。


 視線が僕に向いているのかすらわからない。僕はひたすら脇目も振らずに走り続けている。靴が擦り減っていつの間にか裸足になっている。指に小枝が刺さって、僕はこけそうになる。姉が見ている。あらゆる位置から。


 六つの姉の死体が見ている。




 僕は落下している。上空に向かって延々と落下している。ビルを追い抜き、飛行機も追い抜いて、どことも知れぬ空の上に向かって落下し続けている。


 心臓の少し下がひゅうとすくんで、雲を抜けていく。空の色が少しづつ紫がかって行って空気が薄くなる。息が出来なくなる。僕は膨張して、今にも破裂しそうだ。

 

 破裂しそうなのは、きっと体だけではなく心もそうなのだ。壊れてしまいそうだ。ぶくぶく膨張していて、破裂しそうだ。


 上空に向かって落下していく。このまま宇宙に落ちてしまうのだろうか。


 ぶわぶわと痙攣する皮膚から、冷たすぎる汗が吹き出して、それに風が吹いて指先から凍り付いてしまいそうだ。

 

 上昇し続ける僕の目の前を、何か人形の肉のようなものがすれ違っていく。僕とは反対に、大地に向かって落下して、そしてもはや大気圏にまで近づいているのではないかと思える僕のところにまで、鈍い着地音が聞こえる。


 それから遅れて、水風船が弾けたような音が聞こえる。そしてまた、人型の肉のようなものとすれ違う。鈍い音と水音が鼓膜を破りそうなほど響く。あんな音、地上で聴いている人たちは鼓膜が破れてしまうのじゃないか。

 

 またすれ違う。すれ違う。すれ違う。一つは燃えながら落下して行った。まるで大気圏を超えた隕石だ。僕も大気圏を超えて燃え盛って死ぬのだろうか?キラキラメラメラと、よだかの星じゃあるまいし。それよりも前に心と体が膨張して弾け死んでしまいそうだ。


 僕は。

 僕は言えない。

 言うわけにはいかないことがある。


 また、すれ違う。髪がバサバサと揺れている。ポニーテールの艶やかな髪が揺れて、僕は一瞬時間が止まった気がする。


 それもまた、落下して、鈍い音と激しい水音を響かせた。空気が張り裂けるような心地がして


 ああ。

 落下した六つの姉の死体が地上で笑っている。




 枯野で、僕は座禅するようにして六人の姉の死体を見つめている。一番綺麗な姉の死体が変色していく。

 眼球にうねうねした黄色と紫の線が浮いている。眼球にコオロギのような虫が止まる。

 

 舌先の無い姉の死体には蠅が群がっている。眼球から蛆虫が湧く。唇が泡立ってガスが出る。もうもうとガスが出る。舌が、根本まで食い破られていく。

 

 首の折れた死体に犬ががっつく。脚がガクガク動いて、僕はいやらしいイメージを想起する。


 犬の顔はぼやけている。犬全体がぼやけている。けれど犬の汚らしい牙と涎だけははっきりと見える。そして僕は動けないでいる。僕は姉の死体を見つめている。


 死体が腐るまでを見つめ続ける修行があるらしい。執着を断ち切るために行うらしい。


 姉の死体が腐っていく。ぐずぐずに腐っていって、鼻が陥没していく。膨らんで、弾けて、萎んで。


 けれど、僕の執着は消える気配がない。

 まるで僕の執着が乗り移ったように犬は執念深くなぶるように姉の体を噛みちぎり、だらだらと涎が落ちる。


 赤ん坊が吸い付くように姉の乳房に吸い付いて、噛みちぎり、手足を鋭い爪で引き裂いて、歯の落ちた口に口付けるようにして、はふはふ、ぐうぐうと意地汚く口を動かす。姉の顔が涎に塗れて、僕は殺意を抱いている。


 ダメだ。

 やめろ。


 執着は、消えないのだ。

 愛することも執着らしい。


 犬を蹴飛ばして、打ち据えて、いや。

 犬は僕なのだ。


 僕が動かなくてはいけない。

 全ての姉を、全ての死に続ける姉を一人にしてはいけない。

 六人の姉を。


 立ち上がって、一人一人抱きしめようとしたけれど、やはり僕は動けなかった。

 

 僕は。

 姉が。

 いや。

 やめておこう。

 

 六つの姉の死体を見つめている。

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