6
「尊?」
姉が、僕の顔を覗き込んでいる。
僕たちは日の射す部屋で二人でいる。
姉は僕を両膝の間に挟んで頭を撫でている。
時間は、今昼過ぎなのだろうか。
フローリングに落ちた金の光が、僕たちの足の上で歪んでいる。
「尊はさ、髪の毛サラサラだよね」
姉が僕の髪に手櫛を入れる。心地よい。照れ臭い。
いや。
照れてる場合ではないのだ。
予感があった。
いやな、そして確信に近い予感。
姉が、死ぬ。
死ぬ。
多分だけど、姉は血まみれで死ぬ。
自分で包丁を腹に突き刺して、血まみれで死ぬ。
目の前に首を吊った姉が立っている。股間から黄色と赤の濁った体液がぶぴゅうぶぴゅうと音を立てて垂れていく。
綺麗な足首に泡立って、泥まみれの足には爪先に虫がいる。
僕は僕の顔を覗き込む姉を、じっと見つめ返す。手を伸ばして、髪を梳く。
「姉さんこそ、髪綺麗だよ」
「えへへ、そりゃそうだろう。お手入れは欠かしてないからね〜」
「うん、ほんと綺麗」
そっと、頬の輪郭をなぞる。
陽光を受けて金に輝く輪郭。
視界の端で首を吊った姉が、内臓を放り出している。足元に腸がぼたぼたと垂れて、その中にクリーム状の何かが絡みついていて。
怖い。
怖いのは、光景そのものではなくて。
姉がこうなってしまうことだ。
姉は。
生きている姉は、少し驚いたような顔をしている。
「す、素直に言われると恥ずかしいな……色男め」
「だって、綺麗なんだもん。僕、姉さんの顔も髪も声も手も足も、綺麗だと思うよ」
照れていてはいけない。
姉は、死ぬ。
死ぬのだ。
阻止したいけれど、どう阻止したらいいかわからない。
だからせめて、変な照れ隠しはしちゃいけない。
「そ、そう?ま、まぁ尊もようやく私の良さに」
「ううん、ずっとわかってたよ」
姉は、姉は綺麗で。
姉は心地よくて。
僕は姉のことが。
姉の、ことが。
いや。
これ以上は、ダメだ。
姉が死んでしまうかもしれないからこそ、こんなこと言っちゃいけない。
姉と一緒に寝ている時も、出かけようと言われた時も、頭を撫でられていた時も、一緒に洗濯物を干した時も、かくれんぼをしていた時も。
ずっと、思っていたこと。
頭の中に、知らない記憶が溢れる。
でも、この記憶は多分本物で。
むしろ目の前の、昼過ぎの部屋の中にいる自分の方が嘘くさい。
「姉さんはさ、すごく綺麗」
「……どう言う風の吹き回しだか」
姉は、もごもごと何か言った後スッと立ち上がった。僕はバランスを崩して後ろに倒れ込みそうになる。
背後には舌先の無い姉がいた。笑っている。
ベランダを首の折れた姉が何度も行ったり来たりしている。行き止まりまで歩いて振り向いての繰り返しだ。首を吊った姉が糞尿を漏らし始めた。
「ちょ、いきなり立つなよ」
「ふふん、嬉しいことを言ってくれる弟君のために昼飯作ってあげようと思ってね」
昼飯。
ああ、そういえばそうだった。
両親が忙しく昼食を作れなかったのだ。
今日は僕たちは二人とも休みなのに。
それで、姉と外食に行くか話していて。
そのまま面倒になって戯れあっていた。
奇妙なくらい、僕の記憶は言い訳めいていた。
まるで後付けだ。
金の光が少しぼやけて、テレビの裏に静かに姉の死体が倒れている。いくつものコードが絡み合って、姉の柔らかい肉体の起伏を強調している。
ダメだ。
ダメだよ、料理なんて。
包丁を使うじゃ無いか。
「あ、ちょっと待って!」
「ん?」
生きている姉は、首を傾げる。
こくん、という動きに合わせて髪が揺れる。
綺麗な髪。
「たまにはさ、僕が作るよ」
「えー?ホントにどういう風の吹き回しな訳?」
「いや、いつもお姉さまにはお世話になってますので」
「ふーん、じゃぁお願いしよっかなぁ〜」
よし。
これでいい。姉に刃物は持たせない。
姉が、死ぬ気がする。
それは、どう防いだらいいのかわからないのだけれど、防ぐ目処が立ったなら全力で防がないと。
姉を食卓の椅子に座らせる。
肘をついてこちらを見る姉の髪が、また揺れていた。
僕は冷蔵庫の下段を開ける。野菜に、少し吐瀉物がかかっている。首を吊った姉のものだとわかった。
僕は慎重に吐瀉物のついていない人参を取ると、今度は上段からウィンナーを取った。
包丁を取り出し、軽く濯ぐために蛇口を捻る。
蛇口からはどぶどぶと鈍い音がして、すり潰された血肉が溢れ出す。キッチンのあちこちに血が飛びちった。臭い。極めて不愉快な匂いだ。
水道は、もう使えない。僕は布巾をかけると、人参にの皮を剥いて切る。それが終わったらウィンナーを。
蛇口を閉めてもまだ血がぽちゃぽちゃとたれる。三角コーナーにも飛び散っている。
具合が悪くなりそうだ。僕はめまいがする心地で冷やご飯を取り出し、レンジにかける。
油を敷いて、人参とウィンナーを炒め始める。
「ふふーん、尊くんはいい奥さんになりますな〜」
「いやいや、僕はいい旦那さんになりたいんだけど」
「お?相手とかいるの?」
そりゃ……。
と言いかけたところで頭をブンブン振る。
いや。
いや、やっぱりダメだ。
悶々としかけたところでチンと音がする。ピンの方が近いか。
温まった米を炒めた具材に混ぜ、醤油と卵を入れてかき混ぜる。
チャーハンだ。姉が好きな料理。
「お皿くらい出すよ」
「あ、お願い」
後ろでかちゃかちゃ音がする。
お皿の音、二人きりの食卓。
振り切ったはずの考えがまた頭をよぎる。
いや。
いやいや。
というか、これはもしかして姉の死は回避できたのでは無いだろうか?
嫌な、本当に嫌な予感が現実になることはなかったのでは無いだろうか?
なんだか、何度も同じことを繰り返しているようなじっとりとした不安さがある。同時に、少し安堵するような気持ちもあった。
背中が少し熱い。気が抜けたのか、熱さがじわじわと広がっていった。
あるいは、やはりドギマギしてしまっているのだろうか。後ろにいる姉の姿を想像して。
細い指が皿を持って、僕のところに持ってくる。その姿を。
僕が表情を緩めて、姉の方に向き直ると。
姉は轟々と燃え盛っていた。
油の匂いと、焦げた匂いが充満する。皮膚が泡立ってキラキラと弾け飛ぶ。
僕が咄嗟に抱きすくめると、姉さんの細い腕がくしゃりと落ちた。
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