8

「姉さんが、死んじゃう気がするんだ。妄想だって分かってるんだけど、頭にこびりついて消えないんだ」

 

 僕はテーブルに座っている。テーブルの反対側には両親がいる。家族会議でもするような配置だ。


 二人の表情はよくわからない。両脇には姉の死体が二つ立っている。父の鼻から上には姉の腸が巻きついていて、母は頭から腹膜をかぶっている。


 テーブルの上には、腐乱した姉の死体がある。父が時々手をいじっている。幻覚じゃない。父は姉の死体に気づいている。


 死んでいる姉のしなやかな肉体の曲線は山脈に似ている。劣化して破れた寝巻きの隙間から見える肌は黒ずみ膿みかびてまるで木々が生い茂っているように見える。その上をボロを纏った六つの姉の死体がお遍路さんのように歩いている。姉の死体が口を開けると顎が腐り落ちてその中から鳥のようにそれぞれ六つずつ姉の死体が飛びたち近くの木に止まってその腹部から無数の寄生虫が顔を出す。寄生虫だと思っていたのは青ざめた小さな姉で卵の中からぽこぽことそれぞれの六つの姉の死体が現れそれを蛇のようにくねる姉の死体が捕食し毛穴のひとつひとつからそれぞれ六つの姉の死体が──


 いや。

 そんなわけが。

 姉は死んでなんか。


 足元に肉塊が溢れかえっていて、足首まで使っている。眼球が時々泳いで瞳孔が開閉する。

 歯が、舌が、魚のように流れて、ずくずくと僕のズボンが湿って、僕の足の指先に絡まって。


「何を言ってるんだよ」

「尊、疲れてんのよ」


 父と母は紋切り型の回答をする。廊下では姉が繰り返し落下している。首の折れた姉がフェンスに手をかけて登ってきて、また落下する。落下の瞬間に飛び散る脳漿の映像が細密に幻視される。


 姉が死に続けている。笑いながら、死んでいる。

 僕の方を見て、微笑みながら、何度も何度も無惨に死んでいく。僕はいつもその予感に苛まれながら、いつも見逃して、いや、いつもっていつだっけ、でも、とにかく。


「あんたに、姉さんなんかいないでしょ」


 母が、忌々しそうに言った。


 この人は何を言っているんだろう。


「いや、いるじゃん」

「いないわよ」

「うん、いないよ」


 表情に見えない両親は、けれど笑っているように見えた。にたにたにたにた口の端に笑いを浮かべている。異様に歯並びのいい歯が、上下して唾液が照明を反射する。


 いや、そんなことはどうでもいいのだ。

 それよりも、姉さんがいないって。

 なに?

 

「姉さんだよ。いつも僕、べったりじゃない」

「知らないわよ。中学生にもなって何言ってるの」

「お前、やっぱり疲れてるんだ。昔から手のかからない子だったから父さんも母さんもつい放っておいてしまったなぁ。もし悩みがあるなら相談に乗るぞ」


 白々しい。あんまりにも演技じみていて、失笑すら浮かばない。こいつら嘘をついている。嘘つき。嘘つきども。


 もうもうと、燃え盛る姉が包丁で腹を切る。焼けて縮んだ内臓が両親にドバドバとかかる。

 ああ、姉はこんなに死んでるじゃないか。

 ずっとずっと死に続けていて、だから僕は今度こそ。

 覚えのない記憶がぐるぐるしている。

 両親の口は笑っている。膝の上に落ちた肝臓を母が食べる。


 やっぱり、見えてるんだ。


「冗談きついって、姉さん呼んでくるよ。あ、ていうか」


 姉は今どこにいるんだったか。

 死体の姉ではなく、生きている姉は。

 姐さんに頭を撫でて欲しい。

 姐さんに、後ろから抱きしめて欲しい。

 どこに、いるの。


 だから、どこにもいないよ。

 あんたに姉なんかいないよ。

 あんたがいつまでも、いつまで経っても煮え切らないから、だからあんたに姉なんかいないよ。

 やめろよ、嘘つくの。

 笑うなよ。笑ってるのわかるよ。気持ち悪い。


 怖い。

 怖いよ。


 顔の見えない両親も、死んでいる六人の姉も。


 もうもうと火が燃え広がって、壁に燃え移って、ああ。

 ああ。

 これはまるで。


──地獄だ。


 誰かがドアをノックする。姉だと分かった。

 舌のない姉がドアをノックしている。頭を揺らしながらノックしている。


 洗濯機の中で姉がぐにゃぐにゃになっている気がする。

 箪笥の中には小分けになった姉が詰められている気がする。

 風呂場では溺死した姉がもうブクブクになっている気がする。

 病死した姉がベッドに放置されている気がする。

 下痢と吐き気に苛まれてトイレで姉が死んでいる気がする。

 餓死した姉が埋まっている気がする。


 外に出たら車に轢かれた姉、電車に轢かれた姉、攫われて殺された姉、白骨化した姉。


 寄生虫に殺された姉。カラスに食い破られた姉。獣に引き裂かれた姉。


 宇宙空間で破裂した姉、外惑星の重力に適応できず内臓を嘔吐した姉、彷徨う宇宙船の中で孤独死した姉。


 イメージする。

 イメージが膨らんでいく。

 姉の死体が延々と膨らんで、無数の姉の死体が増殖して、無辺に姉の死体が広がっていって。

 姉さんが。

 死ぬ。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。


 繰り返し、永続的に、間断なく。


 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。


 死ぬ。

 姉が、死ぬ。


 嫌だ。

 い、嫌だ。

 嫌だよう。

 僕は、姉に死んでほしくない。

 僕は、僕は。


「はぁ……もう隠せないか」


 母が、ため息をついた。声音にどこか罪悪感と、開放感を滲ませて。


「あんたには確かにお姉ちゃんがいるよ。でもね、あの頃母さんたちは仕事ばっかりで」

 

 なにか、またくだらない寸劇が始まった。

 いいから姉の居場所を言ってくれ。


「まぁ、実際仕事が楽しくて、自分の居場所はここしかないって思ってたんだよね。バカだよ」


 嘘つけ。母さんは昔から専業主婦じゃん。

 あれ?そうだっけ。

 母さんは、何か仕事をしていたんじゃなかったっけ。いや、してないよ。してるんじゃ?してないよ。

 いいよ、どっちでも。

 どうせ僕の記憶なんて後付けじみていて設定じみていてあてになんかなりやしないんだから、どうでもいいよ。


 ねぇ。

 だから姉さんは。


「俺も母さんも、お腹の子どものことを全然考えられてなかったんだよ」


 お腹の子ども?何言って。


 姉が、腐敗していく。

 もうもうと、ガスが漏れて。

 視界がぼやける。

 意識が混濁する。

 ぼやぼやする。


「だから母さんが、仕事疲れで倒れた時も」


 救急車も呼ばなかったの。


 何言ってる何言ってる何言ってる。


「少し休んで、数日してようやくお腹の子が心配になって」


 それで病院で診てもらったら。

 死んでたんだ。


 素朴な。

 あまりに素朴すぎて、気持ちの悪い言葉だった。

 姉さんが、流産してる?

 姉さんが、生まれてない?

 

 でも姉さんは、僕のことを撫でてくれて。


 僕は、姉さんが。


 姉さんが大好きで。


 姉さんのことが、男として。


 ああ、だめだ。


 言っちゃいけない。


 でも。


 姉が死んでいる。家が焼け落ちて、真っ暗な夜が露わになって、僕と両親はテーブルに座っている。


 四方には、数え切れないほどの姉の死体。ひたすら伸びていく平野にあらゆる死因の姉の死体が延々と積み重なっている。

 悪臭、異音、蟲の群れ。

 炎は広がり、その全ての姉の死体に引火し、世界が爆発したような輝きは灯る。

 

 ああ、姉さん。


「でも、お前には言ったことなかったのに」

「もしかしたら亡くなったお姉ちゃんがあんたのことを見守ってるのかもね」


 嘘だ。

 そんなわけがない。

 両親の顔が嘘くさい。

 演技臭い。

 うわついていて、奇妙な疎外感がある。


 殺したな。

 堕したな。


 なんだよその顔は。

 勝手に救われたような顔しやがって。

 母も父も、笑いながら。

 お腹の中の姉さんを、長い鋏でズタズタに切り裂いて。

 殺した。

 殺したんだ。


 ああ、もういいや。

 もう、全部どうでもいい。

 だから、言ってしまおう。白状してしまおう。

 僕は、姉さんが、男として好きです。

 だから、死なないでください。

 姉さんがいないなんて嘘をつかないでください。

 愛してます。

 愛してるから。

 ねぇ。


「もう、あんたにこれを見せられるね」


 母が、焼け跡の中から小さな箱を持ってくる。

 ちゃちなお菓子箱のように見える。でも、猛烈に嫌な感じがする。


 まるで。

 押し入れ。


 開けちゃだめだよ。

 開けちゃいけないよ。

 姉さんが、消えちゃうから。


 僕は、姉さんが。

 ああ。


 母が箱を開けると、そこにはひしゃげた赤ん坊の生首があった。

 姉だ、とすぐに分かった。

 姉の生首は目を開くと、


「いくじなし」


 と笑った。

 向こう側では、六人の姉が笑っている。


「「ははははははははははははははは」」


 両親がけたたましく笑った。


「ははは」

 

 僕も、笑った。


 ははははははははははははははははははは。


 その間も姉たちは死に続けている。

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