4

 少し寒くて、布団を掴んだ。


「こら尊〜。お姉ちゃんが寒いでしょ」

「あ、ごめん姉さっ、ちょ!」


 後ろから抱きしめられ、姉の柔らかい体が僕の背中に当たる。首に息がかかってくすぐったい。

 ていうか。

 その。


 胸が──


 いや、それをいうとなんか余計に揶揄われそうだ。


「も〜、なに?」

「えー、尊で暖を取ろうと思ってさ」

「暖って」


 確かに寒いけれど。

 僕は布団を握るのをやめて、姉の方に背中を近づける。僕の胸のあたりにある手に触れると、少し甲が骨張った大人の手だった。

 手首には、血管が浮いている。

 布団に隠れていて見えはしないけれど、姉の手はすごく白い。白い手に薄く血管が浮いていて、どこかに消えてしまいそうに儚い。


 姉は、ガラス細工みたいだと思った。

 うっかり力を込めると壊れてしまうガラス細工。

 僕は壊さないように、ゆっくり姉の腕をなぜる。冷たい。冷たくて、優しい。


「ちょっと、触りすぎだよ。えっち」

「はぁ!えっちじゃないし!」


 前言撤回。この人は言うほど儚くないや。

 意地悪を言う時に吐き出される息がまた僕の首筋にかかる。冷たい、ゾクリとするような息だ。恐怖や不快とは違う、ゾクリ。


 なんで姉と寝ているのか、わからない。

 父さんと母さんはいないのだろうか。二人っきりで、布団に寝転がっている。少し視線を上げるとソファーがあって、その上にはひしゃげた姉が座っていた。


 え。

 僕は頭を振る。きっと幻覚だよ。


 僕の後ろで、姉の息遣いを感じる。姉さんは後ろにいる。

 でも、はっきりと、頭の潰れて全身がひしゃげた姉がソファーに座っているのが見える。

 その目は、笑っていた。


「姉さん」


 僕は心細くなって少し大きな声を出す。プールから顔を出したみたいな、大きな息が吐き出される。


「なに?」

「いや、なんか……いなくなっちゃわないかなって」

「なに?姉ちゃんがいなくならないか怖くなったの?可愛い奴め!」


 姉が僕の腹をこしょこしょししながら、より強く抱き寄せる。


「わひゃっ、ちょ、やめっ」


 僕は笑いながら抵抗する。本気のではなく、もぞもぞ動くだけの抵抗。

 夜は、苦手なんだ。

 眠れない夜は特に変なことばかり考える。

 もしも大きな地震が起きたら。

 もしも悪い奴が家に入ってきたら。

 もしも朝起きたら僕は死んでいて記憶を引き継いだだけの別人だったら。


 考えてもしょうがないことを、無闇に考える。

 薄暗い闇のせいだ。

 だから、苦手だ。


「ねぇ、姉さん」

「なに?」

「姉さんって好きな人とかいるの?」

「えー?」


 怖い気持ちを忘れようとして、適当なことを聞いてみる。ひしゃげた姉なんて、いないよ。


「いるよ」


 いるんだ。


「誰?学校の人?」

「うーん、違うかも」

「あ!もしかして年上?姉さんファザコンだし〜」

「ちがわい!誰がファザコンじゃ!」

「えー?だって大学生にもなってパパって言うじゃん」


 僕は、父さんなのに。


「別にいいでしょ。女の子はそんなもんだよ」

「女の子〜?姉さんが?」

「どう言う意味だコラ〜〜!」

「わぁっ、冗談冗談!嘘だから!姉さんちょー綺麗!だから脇はやめて!せめてお腹にして〜!」


 脇の下に手が入り込んできて、僕は悲鳴をあげる。楽しそうな悲鳴だ。

 楽しい話をすればいい。

 暗いのが怖いなら、それを忘れて楽しい話をすればいいのだ。

 でも、空元気だ。

 騒いでもふざけても、夜の、薄暗がりの不気味さはどうしても拭えない。

 僕は、恐る恐る目を開ける。

 やっぱりソファーの上にはひしゃげた姉が座っていた。

 怖い。


「姉さんはさ、死んじゃわないよね」


 つい、そう聞いてしまった。

 別に身内が死んだわけでもないのに、唐突すぎるよ。

 いや、父さんが死んだっけ?

 死んで、ないよね。

 僕の家族は、誰も。


「なんで?」

「んー、なんとなく」

「そっか」


「昔さ、似たようなことあったよね」

「え?」


 姉は今思い出したというように言った。


「尊がさ、昔テレビかなんかで変な特集見て怖がってたんだよ」

「え゛?そんなことあったっけ」

「あったあった。確かさぁ、人体発火現象?とかいうのでさ。姉さんは燃えないでね。姉さんが燃えちゃったら僕もぎゅーってして一緒に燃える!って」

「ちょ、いやいやいや盛ってないそれは!?」


 そんなキザったらしいセリフ言うだろうか?


「盛ってませーん!」

「盛ってるって!」

「盛ってないの!……私もまだ子どもだったからさ、怖くなっちゃってさ。でも私が泣いたら絶対尊はもっと泣くなーって思ったから我慢したんだから」

「それは……ごめん」

「で、尊のことぎゅーって抱きしめて撫でてさ。燃えたりなんかしないよって、人体発火なんてホントにあるわけないよって、そう言ってさ。でもやっぱり怖くて二人でわんわん泣いちゃったの」


 パパとママがびっくりしてたよね。


「なんか、あった気がする」


 と言うかあった。恥ずかしい記憶だ。


「僕さ、しばらく火っぽいものが怖くて母さんにもタバコやめて!って言ってたよね」

「そうそう、あと願掛けでさ。一番熱い火の色は白だからって横断歩道の白いところ踏まないようにしてたよね。普通白いとこだけ踏むからちょっと面白かった」

「う……アホだね僕」

「アホじゃないよ。子どもなりに考えたんでしょ?私も一緒に白いところを踏まないように大股で歩いたの、結構楽しかったり」


 うん。僕も楽しかったよ。


「てかあの時期あんま白い服着なかったのって」

「そだよ。中学上がってからは流石に制服着ないわけにもいきませんけど」

「でも黒とか青の服も似合ってると思うよ。その」


 姉さんはなんでも似合うけどさ。


「お、口がうまいね〜?さっきは私なんか女の子じゃないみたいなこと言ってたのに」

「も〜!あれは忘れて!軽口だよ。姉さんは素敵な女の子です」

「うわ、流石に照れるね」


 どうだか。声が照れてない気がする。

 僕は言った後で急激に照れて体を丸めた。

 数秒の沈黙が発生する。改めて、薄暗い。

 首のひしゃげた姉は、足もひしゃげている。


 姉は、ソファーの上の姉に気が付いていないのだろうか?

 それとも、気づいていて見て見ぬふりをしているのだろうか?

 僕は、姉の方に向き直ろうと体を動かす。


 天井に、二人の姉がいた。

 ぐちゃぐちゃで血まみれで、カビのように天井にこびりついた姉と。

 先っぽが抉れた舌を垂らしながら張り付いている姉。

 原型を保っている方の姉の舌から、血が一滴垂れる。僕は思わず口を塞いだ。唇の端に、血がついて、ひんやりする。


 姉が気がついてないわけがない。

 もし何も言わないのなら、これは幻覚だ。

 幻覚だ。幻覚だよ。幻覚に決まってる。


「ねえ、尊」

「なに?」

「もし、お姉ちゃんが明日死ぬってなったら尊はずっと一緒にいてくれる?ぎゅーってしててくれる?」

「何言ってんだよ。縁起でもない」

「いいじゃん。ねぇ?どう?」


 姉の声は、甘えたようで、少し切なげだった。

 僕は自分の中で、何かがずくずく脈打つのを感じる。


「いるよ。ずっと一緒に。ぎゅーってしてる」

「そっか」

「うん。いるよ」


 僕は、なんだか姉が本当に死んでしまいそうな気がした。

 ソファの上のひしゃげた姉。

 天井に張り付いた舌のない姉と舌先のない姉。

 幻覚だよ。

 考えすぎなんだよ。夜だから、変なことばかり妄想して、あんなものを見るんだ。


 姐さんの顔が見たい。

 

 恥ずかしいけれど、きっと姉と向き合っていれば。

 姉の顔を見ながらなら、あんな気持ちの悪い幻覚なんて見ないよ。


 僕は、体をもぞもぞ動かす。

 冷たい手を握りながら、ゆっくりと。


 そして。

 

 振り返ると、姉は静かに息を引き取っていた。

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