3

「尊、ソレこっちちょうだい」


 姉に言われ、僕は洗濯バサミがたくさんついてるやつを渡す。これ、なんていうんだろう。


「それは、ピンチハンガーね」


 スリッパを履いて、少し薄汚れたベランダに立つ姉が笑う。なんだか子ども扱いされたようで悔しい。


「いや、知ってたし。忘れてただけで」

「じゃぁ食パンの袋留めるやつは?」

「え?クリップじゃなくて?」

「バッグ・クロージャーね」

「海賊みたい」

「あははは」


 また、笑われる。ムカつくけど、ちょっとだけむず痒いような嬉しさもある。

 別に笑われたのが嬉しいわけじゃなくて、じゃぁ何が嬉しいかと言うとわからないんだけど、でもなんか嬉しいような変な感じだ。


 姉がピンチハンガーを物干し竿にかける。僕は次のやつを取って、姉に手渡しする。

 父さんも母さんも仕事が忙しくて、洗濯物を干すのはもっぱら姉の仕事だった。


 今日はよく晴れてる。大きな雲が空を流れていて時々暗くなるけれど、青々と抜けるような、寂しいくらい爽やかな晴れ空だ。洗濯物を干すのにはもってこいで、だから僕は姉を手伝っているのだ。


 僕は最後のタオルを取ると、サンダルを履いてベランダに出る。


 うちのベランダは、少し汚れていて狭い。

 フェンスなんか埃が溜まっていて、見ているだけで咳き込みそうだ。砂なのかよくわからない粒々があちこちについていて、すごく乾いた印象を与える。あくまで印象であって、そもそもフェンスは水を含むようなものではないのだけれど、薄汚れたフェンスにはなおいっそう乾いた印象がある。

 それに加えてあちこちについた傷が、キィキィという引っ掻いた時の音を想像させて嫌だ。

 多分、それはどれも気のせいなのだろうけれど。

 視覚情報を通じて、過去の経験が想起され、イメージが形作られているの過ぎない。

 乾いた印象は、ただの印象だ。


 じっと見ていると、僕はなんとなく喉がカサカサするのを感じた。これも、気のせいなんだろうけれど。

 

「尊、手伝ってくれてありがと」


 姉は受け取ったタオルを干し終えると、僕の頭を撫でた。一瞬へにゃりと笑いそうになって、ハッとして口元を引き締める。


「ちょ、やめてよ」

「えー?なんで」

「恥ずいじゃん」


 僕の視線が、フェンスから移動する。

 ベランダの向こう側には、大きな駐車場があって、その駐車場の両脇に家がある。どちらもベランダがこちらを向いていて、互いのベランダから互いのベランダが見える形だ。


 さらに駐車場の向こうに道路が一本あって、通行人が歩く。そしてその向こうには家が一軒ある。

 

 少し古い、ベージュ色の壁の家だ。

 ベランダは別の面にあるが、窓がこちらを向いている。

 

 以前ベランダに立ってなんとなく外を見ていた時、あそこの家には若い夫婦が住んでいるのを知った。窓を開けっぱなしにして、仲睦まじそうに花瓶の花に水をやっていたのだ。

 

 窓のすぐ近くに棚か何かがあるのだろう。その上に花瓶と、写真縦の裏側と、小さな箱みたいなものが見えた。


 夫婦の顔は、正直覚えていない。そんなものだ、記憶なんて。起こった事柄、見た事象だけ覚えていて、詳細なことはぼやけていく。


 棚の向こうにはテーブルが見えて、床には赤のカーペットがあった。本当に赤かはわからない。うちにある赤のカーペットとデザインが似ていたというだけだ。


 うちにあるカーペットと似ていて、その、何か変な空想を抱かなかったかと言うと嘘になる。

 その、姉さんと。

 いや。

 やめようこれは。


 ともかく。

 ともかくである。

 こちらからこれだけ詳細に相手の家が見えるということは、つまり相手側もこちらは見えているということなのだ。


 あの時、もしかしたらあの夫婦は僕に気付いていたかも知れない。

 なんとなく見えただけだから、覗く気とかはなかったけれど、以来あの家のカーテンは閉まっている。いつ見ても、閉まっている。


「もー!恥ずかしいとか生意気だぞ!子どものくせに!」

「子どもじゃないです〜」

「子どもだよ〜」


 撫でようとする姉と、外に視線を向けつつも姉の手を避ける僕の攻防戦が発生する。

 別に撫でられるのが嫌なわけではないのだ。

 ここで撫でられるのは恥ずかしいので、できれば家の中でして欲しいというだけで。


 僕は再度向かいの家を見る。いつもと変わらずカーテンが閉まっている。

 そして、通行人はいない。

 両隣の家もベランダには誰も出ていなかった。

 これなら、撫でられてやってもいいかも知れない。

 

 いや。

 ダメだな。

 

 よく見ると、両隣の家はカーテンが開いていて、磨りガラスの向こう側に誰かいる。


 ちょうど雲が太陽を隠して微妙に暗いから、ぼんやりとしか見えない。

 でも、前を(つまるところ外の方を)見つめながら立っているのがわかった。直立不動で、突っ立っている。

 

 まるで、こちらを見てるみたいに。

 まぁ、自意識過剰だろうけれど。それにしても気持ち悪いな。窓に向かって突っ立ってるって、僕らじゃなかったら誰を。

 いや、お互いを見合ってるのか?

 すりガラス越しのぼやけた相手を、睨みつけあっている二人の人。

 

 なんとなく、女性な気がする。

 

 それは、正直言ってかなり気味の悪いイメージだ。あまり考えたくはない。


「姉さん、部屋戻ろうよ。外、埃っぽいしさ」

「撫でさせてくれるまでやだ〜」

「どっちが子どもだよ……」


 姉は、頑固なところがある。言ったら聞かないのだ。

 でも。

 やはり斜め両隣の家が気になる。

 緑の壁の、比較的あたらしめの家と、白黒のおしゃれな家。大した都会というわけでもないのに、この辺は洒落た家が多い。


 でも、あんな家あったかな。


 僕の中に、よくわからないモヤモヤがある。

 

 あの二つの家が、妙にイメージと一致しない。

 確かあの辺には、もっとしなびた工場みたいな家があったんじゃなかったっけ。

 いや、それはベランダ側じゃなくてドア側から見て斜め両隣の家、か?

 でも、確か向かいの家を見た時にそういう映像が目の両端に映った気がするんだよな。


 向かいの家は、見慣れている。

 カーテンが閉まっていて、多分あの向こうで夫婦が生活してるのだろう。

 それは僕の記憶以前の部分にあって、何も違和感はない。

 

 でも、あの緑の家と白黒の家は、微妙に見覚えがない。

 いや、知っているはずなんだけど。

 どうにも記憶と実感が乖離している。妙な疎外感がある。畳の部屋の時みたいだ。

 

 畳の部屋?

 

 畳の部屋ってなんだよ。

 確か、開けちゃいけない押し入れがあって。

 いや、押入れの中には布団と使わなくなった道具が。

 いや。


 なんの話だ、これ。


 雲の隙間から、太陽の光がさす。

 暖かい、暑いくらいの熱線が辺りを照らして、逆光で姉の表情が見えない。


 僕は、なんとなく斜め両隣の家に視線を向ける。

 光の雨に照らされて、ぼやけた人影が解像度を上げる。

 それは。

 それぞれの家にいたのは、どちらも姉だった。

 すり潰されて血まみれになった姉と、舌を噛みちぎった姉。


 雲がまた動き、太陽の光が少しずつ弱まっていく。

 僕は、二人の姉から目を逸らした。

 ベランダには、姉がいる。

 姉は、笑っている。


 また、雲の隙間。

 光がさして。姉の表情が逆光で見えなくなって。

 

 ベランダの姉が、フェンスにしなだれかかり。

 

 しなだれ、かかり。

 

 姉は光の中で放物線を描きながら落下した。

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