2
気持ち悪いぐらい毒々しい蝉の鳴き声が響いている。うるさい。八月の蝉が、どうしてこうも五月蝿いのか。
僕は喉にひどい痛みを感じて、咳き込みながら目を覚ました。勢いが強かったのか、少し肩が痛む。
「大丈夫?尊」
姉が正座をして、僕を見下ろしている。いつもはポニーテールにしている髪を解いていて、なんだか新鮮だ。
僕は畳の部屋に寝かされている。和室というのだけれど、僕はなんだかずっと畳の部屋と呼んでいる。
僕を中心に、右側に姉がいて、左側に箪笥がある。頭のすぐ後ろには押し入れがあった。
押入れから、少し錆びたような匂いがする。そこには多分、上段には布団があって、下段には普段あまり使わない道具だとかが入っているのだ。
そして、開けてはいけない気がした。
足の下には、襖がある。
襖の外には、襖の外の空間がある。
そこは、多分開けていい。
なんとなくだけれど、そっちは大丈夫だと思う。
額に、嫌な汗が滲む。
右を、見ると。
姉は、優しく微笑んでいる。
僕の右側に正座したまま、優しく。サラサラの髪が、電灯に照らされて白っぽい光を反射している。
髪が顔にかかり、それをそっとかきあげる仕草に胸がぎゅうとなった。
それは懐かしい、に似た。
ごめんなさい、に似た。
それを言い表すことが、難しい。
多分語彙の中にはあるのに、言葉にできない。
時間は、なんとなく、夜だと思った。
窓はない。確かあそこに窓があったと思ったところには、淡白な壁紙があった。
だから外の様子なんてわからない。部屋の中は、十分に明るい。
多分、空気が夜なんだ。
寂しくて、大切な何かを見過ごしてしまったような空気。
「僕、寝てた?」
「うん、うなされてたよ」
「ごめん」
「なんで謝るの」
姉が、くすくす笑っている。
なんで謝ったのか、わからないけど、後ろめたい気がした。
夜は、不思議と後ろめたい。
誰かに、ではなく時間に対して、とても。
それに。
「せっかく来たのに」
「そういう日もあるよ」
そう、せっかく来たのだ。
月に一度しか来れない──
あれ?
なんだっけ。
せっかく──ってどこに?
ここ、どこだっけ。
畳の部屋だと言うことは、わかっている。
畳の部屋と呼んで親しみ、ここで寝転んで漫画を読んだり、姉に戯れついたりしていることも覚えている。
でも。
ここはどこの畳の部屋なんだっけ?
自分の家だろうか?
自分の、というか両親が所有する、僕と姉が住む家。
いや。
違う気がする。
たしかに住んでいた時期はあったと思うけれど、違う気がした。
親戚か、誰かの家。
そうだ、じぃじとばぁばの家じゃないだろうか?
昔、少しだけ一緒に住んでいた祖父母。優しくて、暖かくて、競馬が好きな祖父と、韓ドラが好きな祖母。
父親が祖母との折り合いが悪く、しょっちゅう会うのはいい顔をしなくて、だから月に一度──そうだ、月に一度だけ祖父母の家に来て遊ぶのだ。
だとしたら、それは後ろめたいに決まっている。
せっかく、遊びに来たのに。
「二人は?」
「リビングでテレビ見てるよ」
よく耳を澄ますと、襖の向こう側から何か聞こえる。韓国語だと思う。祖母が好きなドラマの時間となると、もう結構遅い時間だ。
これはやってしまったかもしれないな。
僕は改めて、後ろめたく思う。
ふたりとも寂しいだろう、というのは思い上がりにしても遊びに来た孫がグースカ寝てしまったらいい気はしないだろう。
目をキョロキョロさせる。サイダーのペットボトルがある。サラダせんべいの袋が、何かを籠目に編まれた茶色の屑籠からは見出している。
あと、読みかけの漫画。コンビニ本の、ドラえもん傑作選。たしか、笑える話の特集だっけ。
なんとなく、遊び呆けて、祖父母にお菓子やらを出してもらって、そのまま眠ってしまったのだろうと予測できた。
多分、そんな気がする。
でも、なんでだろうか、そんな覚えがない。
覚えがない、というより、実感が湧かない。
何か座りが悪いのだ。
まるで今記憶がはじまったような、疎外感を覚える。
世界が、ぼやぼやしている。
本当に僕はじぃじとばぁばの家にいるんだろうか?
リビングでは、ふたりがテレビを見ているはずで。
だから、早く行ったらいいのだ。
でもなんだか、頭がぼうっとして、思うように動かない。世界だけじゃない。僕もぼやぼやしているのだ。
疎外感と、夜の空気だけが冴え渡っている。
頭の後ろの、押し入れが意識に上がる。
あそこには、布団と、普段使わない道具が入っている。
多分ドライバーとか、もう何年も使っていない脚立とか。
そんな気がする。
そして、絶対に開けてはいけない気がする。
なんだかそぞろな気持ちになる。落ち着かない。ざわざわする。
自分が現実から薄皮一枚隔てて別レイヤーにいるように感じられる。世界のぼやぼやが、加速度的に悪化していく。
おかしい。
おかしい。
あの、押し入れなんだ。
あの押入れの中に、奇妙な感覚の正体がある気がして、だから、開けちゃいけない。
押し入れは、絶対に開けちゃいけない。
さっさと足元の襖を開けて、リビングに行って、じぃじ、ばぁば、ごめんね寝ちゃって、テレビ一緒に見ていい?って、そう言えば、きっとそれでいいんだ。
早く、起き上がるべきなんだ。
「まだ寝ぼけてる?」
「ん……」
姉の指が、僕の額に当たる。相変わらず冷たい、心地よい指。
ああ。
姉さん。
僕は。
姉さんが。
「もうちょっとこうしてよっか」
姉の声が、無性に愛おしい。
凛としていて、少しだけ高くて、安らぐ声音。
得体の知れない、”ここは自分のいるべき場所ではないんじゃないか“という妄想を、包み込んでくれる。
地に足がついていくような、感覚。浮かんでいる体を、少しづつ地面に下ろしてもらうような、そんな。
まるで小さな子どもみたいだ。
僕にとって姉はきっと、小さな頃に見上げていたままなのだろうと思う。
僕がどれだけ大人になっても、暖かさも、指先の冷たさも、この関係性も、多分変わらない。
それが嬉しい。
だから、もう少しだけ。
もう少しだけこうしてもいいだろう。
リビングに行くのは、もう少し後でいいはずだ。
「うん、もうちょっとだけ」
「うん、もうちょっとね」
さすさすと、額の上を姉の指は移動する。気持ちいい。ほっとする。
すごく懐かしい。
懐かしいと言うのはきっと適切な表現ではなくて、ただこの感情の動きを懐かしいとしか表現できない。
語彙の中に、適切なものがないのだ。
だから、懐かしいとしか言えない。
姉に撫でられるのは、すごく懐かしい。
今も目の前にいる、ずっと一緒にいる姉が懐かしいというのが、少し妙な感じで、僕はつい笑ってしまう。
面白いからではなく、何か耐えられない齟齬からくる笑いだった。
頭の後ろに、押し入れがある。
開けてはいけない、押し入れがある。
姉の顔が、笑っている。
そっと僕を見つめている。
下から見ると、少し胸の膨らみが見えて、いや、何考えてるんだろう。
今日は、襟の緩い服を着ているから、余計に変にドギマギしてしまう。
「ねぇ、姉さん。やっぱり」
僕は気まずさに耐えかねて、じぃじとばぁばのところに行こう、と言おうとした。
それを姉は、そっと手で押さえる。
「言わないで」
そう、言われた。そういう唇の動きをした。
でも、姉は声を出していなかった。
姉の手が、僕の頭の後ろの押し入れに伸びる。
ダメだよ、そこ開けたら。
中には布団と、もう使わなくなった道具が入っている。
それなら、別にいいじゃん。
でも。
ダメなんだ。
姉が、押し入れを開けると。
そこにはすり潰された死体の姉がいた。
「っ」
僕が声を上げる前に、生きている方の姉は舌を噛みちぎった。
僕の顔に、血がかかる。
そして死体は二つになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます