21.菜の花の、坂の上


 部屋へと副社長の耀平と夫人の花南が直接案内をしてくれる。

 エレベーターへと向かうためにロビーを歩いていると、おみやげショップがあり、そこの入り口にひときわ大きなガラスが展示されていることに気がつく。


 樹の目が輝き、そばにいる花南へと笑顔を向ける。


「あれが、瑠璃空か」

「そうです。父があそこに飾るんだと言い張って。自分のホテルに娘の工作を飾るみたいで恥ずかしいですけれど」

「いやいや。父心ももちろんだけれど、立派な芸術品だ。それはもうお客様が多い場所で見てもらったほうが作品のためだろう」


 ライカ片手に、また夫が駆け寄っていく。

 ああもう。麗しい若社長さんだったのに、いまは無邪気元気なおじさんになっていて、杏里も苦笑い。

 だが、杏里も現物を一目見て、そこへと惹かれていく。


 ガラスケースの中に厳重に収められ展示されている瑠璃色の大皿。

 かなり大きなサイズで、華奢な彼女が作り出したとは思えないものだった。豪快というよりは、荘厳……。吸い込まれる夜空そのもの、神秘的な作品だった。ケースの中、先頭には札が置いてある。

【銀賞】

【瑠璃空 山梨県 芹沢工房 倉重花南】

 先ほどまで、ちょっとはりきりすぎのおじさんモードだったのに。樹がその夜空のような作品を見上げて、神妙な面持ちに変わった。

 圧倒されているのもあるのだろうが、なにかを思い出しているようにも見えて。あの頃の、常に真顔で憂う眼差しを見せていた樹を思い出すものだった。


 それは杏里もだった。天の川のような銀粉が散らばっている瑠璃の大皿は、真ん中を見つめれば見つめるほど、天空に吸い込まれるような錯覚に襲われる。美しさの感動ではなく、感情を揺さぶられるものなのだ。


「花南ちゃんに欲しいものはなにかと俺が聞いた時、『自分にしか作り出せない芸術』と答えたよな。これだよな。おめでとう、花南。君はあの時から探していたものを、ここに生み出したんだな」

「えっと、そう言われると大袈裟っていうか……。そんなこと堂々と言っていた自分が恥ずかしいだけですよ」


 花南は若かった自分が言い放ったことに恥ずかしそうだったが、樹は首を振る。


「ライカで撮らせてもらおうと思っていたけれど。これは俺の心に残しておくよ。そう思えた作品だ。受賞、おめでとう」


 樹の言葉に、花南が黙ってしまった。ほんのり涙が浮かんで見えたが、天邪鬼さん。口元をぎゅっと結んで我慢したのがわかった。その顔が懐かしい。小樽で彼女が素で見せてくれていたかわいい顔だった。そばにいる夫の耀平さんも静かに微笑んで、花南のあたまを愛おしそうに撫でている。こんな義兄妹だったのだろう。


 気持ちが落ち着いた花南が、瑠璃空の皿を見上げて、杏里と樹に教えてくれる。


「この作品にサブタイトルをつけるとしたら『星の数ほど嘘をついた』なんです」


 星の数ほどの嘘。思わぬタイトルだが、彼女らしい言葉。彼女が教えてくれるその声に、夫妻は耳を傾ける。


「みんな、生きていると嘘はつくんです。星の数ほど、生きている人たちのそばに嘘が転がっている。でも、嘘は卑しいものもあれば、必要なものもある。嘘をついても生きていけるし、生かしてもらっていることも。空は知っているんです、嘘の数を。これを造ったことで、わたしの嘘も救われた気がしました」


 やはり、『夜空は美しい』なんて安易な表現ではなかった。安易に見せておいて、人の心を深く惹きつけ揺さぶるのは、そんな思いが彼女にあったからなのだろう。空に吸い込まれるその感覚は、誰にも『懺悔』を感じさせるからなのかもしれない。


 そんな『嘘』を自然なものとして捉えた彼女の作品を、夫の樹も、杏里もいつまでも眺めていられた。

 そこにいればいるほど、自分たちが犯した偽りの日々も、あって当たり前だったと許してもらえるようで……。




 案内された部屋も素晴らしかった。海側が全面オーシャンビューのツインルームで、陽射しが傾くたびに海の色も雰囲気も変わっていき、心が癒やされる時間を堪能できた。


 夕暮れは美しい白浜を、樹と一緒に散歩する。春の潮風は優しく、カメラが趣味の夫にはたまらない素材に溢れていて、もうずっとレンズを覗いてシャッターを押し続けている。

 でも杏里のことも忘れずに、杏里を撮影してくれたり、手を繋いで歩いたりもした。

 スマートフォンで撮影したものを、小樽にいる優吾に送信すると『今度は子供たちとも絶対に行きたい』との返信があった。

 娘の『一花いちか』が優吾叔父ちゃんと夕飯づくりのお手伝いをしている画像が返信に貼られていた。


 一花が生まれてから。ほんとうに、しあわせな夫妻の日々だった。


 仕事も家業も、育児も、家庭も、夫妻仲も順風満帆――。

 今日だって、愛する夫とこんな素敵な浜辺で結婚記念日を迎えられるしあわせ。


 あんなに明るい金春色の海だったのに。日が沈むと、花南の瑠璃空のような深い夜の色に吸い込まれていく。


 こんな時に、杏里の心の奥から、まだ癒えない小さな痛みと小さな黒い点が現れる……。

 美紗のこと。父と母のこと。



 夜の食事はフレンチを予約していた。

 また海と浜辺が見える個室に案内してもらえた。個室の予約などしていなかったから、これは倉重夫妻の配慮のようだった。


 うす暗くなった浜辺の上には、月が昇っていた。今度はその月が遠浅の海に金糸雀カナリア色の帯を水面にうつしている。

 部屋に入りテーブルについて、向かい合う形で座った杏里と樹はすぐに気がついた。

 テーブルの中央に飾られているガラスのキャンドルホルダー。七つのマグノリアだったのだ。


「樹さん、これ」

「不格好だった、あれか。いまの花南の技で作ったものか」

「またチャレンジしたのね、花南さん。素晴らしい出来映え。これが造りたかったのね。イメージ通りだわ……。幻想的で花香るといいたくなる美しさね」

「熟練した技を習得して、もうプロ中のプロだもんな……そうか、ここまでに登り詰めたか」


 今度の樹は遠慮なくライカで撮影をした。夫が撮ったその写真の雰囲気もイメージどおりに幻想的だった。

 元の工房主が訪れて、成長した姿をひっそりと見せてくれる。とても嬉しいおもてなしだった。


 それだけではなかった。運ばれてくるアミューズの器も『大澤ガラス工房』で造られたものだった。花南の兄弟子が吹いたカクテルグラスに大皿、遠藤親方の切子皿も出てきた。

 もう夫妻で大興奮しながらの食事になった。


「一度、親方も連れてきたいものだな」

「そうね。工房から絶対に離れないお人だから。どうにかして、あの瑠璃空の現物と、このマグノリアは見てもらいたいわね」


 花南の受賞を知った日も、遠藤親方は『そうですか』と笑みをみせただけで、いつもどおりの彼だった。

 でも杏里は知っている。その時、杏里はそばにいなかったが、事務員の年配女性が『親方ね。ちょっぴり泣いていたの。誰もいないときに。あれ絶対に愛弟子カナちゃんの受賞を喜んでいたと思うのよね。しらんぷりしたけど』と教えてくれたのだ。

 ガラス職人のお父さんは、たとえ弟子を褒め称えたくても『いつもどおりのお父さん』であろうとしたのかもしれない。

 だからこそ、いつか、親方にもこのホテルに来て欲しいと思う。花南に会ってほしいと思う。


 そして杏里は最近『両親』のこともよく思い越すようになった。子育てをしていると、たまにどうしても『私の親はどう思っていたのか』と自分の気持ちと重なることは否めない。

 父も母も歪だけれど、それも愛情だったのか。いや、やはり己の体裁が勝っていた。いや……。そう思う繰り返しだ。


 それでも父は『一花』が生まれてから、急に好々爺に変貌した気がしている。大澤の父は一清が誕生してしばらくして他界していたので、子供たちには、杏里の父はたった一人のお祖父ちゃん。盆や正月の節目には会わせてはいたが……。一花が生まれてからは、特に母が女の子かわいさに小樽に積極的に父を連れて会いに来るようになったのだ。杏里は忙しいからを理由にして避けていたが、義母の江津子がおなじ祖父母としてうまく相手をしてくれたり、優吾が対応してくれたりしていた。


 でも逃げてばかりでも……。その形が『たまにはふたりで、旅行でも行ったら』と、母の日父の日に杏里から旅行や食事をプレゼントするぐらいにまでは気持ちは軟化していた。


 だから。ここも、両親には見てほしい――。そんな気持ちが自然と浮かんできていた。


 義母も『できる分だけで良いじゃないの。上出来よ、杏里さん』と言ってくれるから、それでいいんだと素直になれない心を慰めている。


 楽しいフレンチ料理の時間も堪能し、夜も心地の良いさざ波を耳にしながら、夫とブランデーと挟んでいつまでも、心穏やかな夜を過ごせた。



 ホテル周辺の観光を楽しんで二泊。花南と耀平と一緒にランチをしたり、ご実家のご両親とも対面してご挨拶をしたり、花南の小さな娘ちゃんとも会わせてくれた。甥っ子の航君は、もう大学生になり関西で独り暮らしをしているとかで、この日は会えなかった。

 まるで親戚に会いにきたかのような、あっという間の楽しい結婚記念旅行となった。



 出発する日の朝。ご挨拶にと、大澤夫妻は耀平がいる副社長室へと出向いた。


「素晴らしいおもてなし、ありがとうございました」


 夫の樹とともに、杏里も揃って御礼のお辞儀をした。


 立派なデスクに座っていた耀平は今日も黒いスーツ姿で、笑顔で迎え入れてくれる。大澤夫妻がお別れの挨拶に来るからと、彼のそばには花南も控えてくれていた。


「そう仰っていただけて、安心いたしました。今度はご家族でいらしてください。お子様たちが遊べるような準備をしておきますので」

「社長、杏里さん。また絶対に来てくださいね。いつでも待っていますから」


「是非。今度は家族で揃って参ります。その時は、よろしくお願いいたします」

「きっと小樽の家族も喜ぶと思いますので、またそう遠くない日に必ず」


 夫妻同士で挨拶する傍らで杏里も微笑みを浮かべていた。

 ほんとうに素敵な二日間だった。そう思っていることを、杏里は耀平に伝えようとして。彼のデスクの上にある写真立てに気がつく。


「あら、素敵なお写真ですね」


 たくさんの菜の花に囲まれた小さな女の子と、二十歳ぐらいの青年が向き合っている写真だった。一歳ぐらいの女の子が手に菜の花をひと束もって、向かい側に同じ目線にしゃがんでいる眼鏡のお兄さんの鼻先に、お花をくっつけている写真だった。

 眼鏡の青年は、向かい側にいる女の子がすることを、目を瞑って嬉しそうに微笑んで、差し出してくれている菜の花の香りを吸い込んでいるような写真。歳が離れている兄妹のほほえましい写真のようだった。


「ああ、娘と息子と小豆島へ行ったときの写真ですね。息子の航が好きなんですよ。小豆島。私たちの休暇はこの島に行くことが多いです。これは去年の春休みですね。いまごろでしたから、今年ももう咲いていると思いますよ」


 小豆島。そう聞いた途端、夫、樹の表情が強ばった。杏里もだった。

 花南がそれをすぐに察した。そして、そのしあわせそうな兄妹の写真を撮ったのは、母親の花南だとも気がついた。


 花南がなにもかもわかっているといいたげな静かな表情で、その写真を手に取った。


「これ。美紗さんと大槻おおつきシェフのお店そばにある菜の花畑なんです。最近、ここSNS映えするので人気のスポットなんですよ」


 花南は。美紗に会いに行っている。

 初めて知ったことだった。


「小樽で私が吹いたグラスが初めて商品になったのは、美紗さんのカフェに通っていたから、でしたよね。いまもあのときのグラスをお店で使ってくれているんです。料理も小樽の修業時代を思い出す懐かしいもので、景色も素敵で……。おふたりもお店も変わらなくて……。うちの航、美紗さん特製のレモネードが大好きなんですよ」


 あれから美紗がどうしているのか。知りたくて、でも、知ろうとしないで時が過ぎた。

 花南は知っていたのか知らないのか。いや、もう知っているのだろう。美紗が樹の愛人だったこと。そして杏里の大親友だったこと。複雑な関係を築いていたこと。わたしたち三人の『たくさんの嘘』を。


「いつか是非、行ってみてください。待っていると思いますよ。美紗さんも大槻シェフも」


 なんと言葉を返せばよいのかわからなかった。樹も杏里も。

 最後の挨拶をかわし、倉重夫妻に見送られ、樹と杏里は倉重リゾートホテルを後にした。



 金春色の海がまた続く、レンタカーの車窓。二日間の楽しく美しさを堪能した気分が、一気にしぼんでいるのがわかる。


 だが、ハンドルを握って運転をしている樹が唐突に言いだした。


「杏里。仕事はあと一日、二日、なんとかなるか」


 なにを言いだしたかわかった。杏里の目に一気に涙が浮かんだ。


「もちろん、どうにでもなります」

「このまま行こう。どう行けるか調べてくれすぐに」

「はい、あなた」


 山陰から小豆島へ行くルートを調べた。一泊できる宿も確保した。

 ふたりの心は通じているし、ふたりの心はひとつだった。





 翌日。杏里と樹は、瀬戸内の青い海が見渡せる丘の路を歩いていた。


 菜の花がいっぱい咲いている丘、そのてっぺんに、小樽の坂の上にあった白と青を基調にしたあのカフェがそのままそっくりの姿であった。


 むせかえるほどに甘い、菜の花の春の匂いに包まれて、丘の上で手を振っているその人がいる。杏里を見つけて、彼女が坂の道を急ぎ足で降りてくる。


「杏里ちゃん!! 樹!」

「美紗さん――」

「美紗……」


 まったく変わっていない。黒髪の美しい彼女が走ってくる。

 駆け下りてきた美紗が、いちばんに抱きついたのは杏里だった。

 杏里もその女性をちからいっぱい抱きかえした。


 私は、あなたのことも愛している。


 黄色の花々の中で、彼女の優しい匂いを杏里は吸い込む。

 夫がそこで優しく微笑み、女ふたりをそっと抱きしめてくれる。


 シェフも手を振って呼んでいる。坂の上へ懐かしい三人でのぼっていく。

 島の青い海から、春の風。

 瀬戸内にも蜃気楼はみられるのだろうか。しあわせの黄色い花に囲まれて、杏里はふと思った。



恋すれば孤独 (終)










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恋すれば孤独*愛のない結婚を選ぶ訳* 市來 茉莉 @marikadrug

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