20.花にあいにゆく



 結婚して十数年。やっと夫妻の念願が叶う。


 夫が運転するレンタカーの車窓には絶えず、アクアマリン色の海が続いていた。やがて見えてきた白い砂浜にある白いホテル。


「やっと到着だ」

「ほんとね。遠かった~」


 車を駐車させ、夫妻でスーツケースをひっぱりながらホテル玄関へ向かう。

 玄関の自動ドアをくぐり抜けると、また目の前に水色の海が一面に見える。オーシャンビューの明るいロビーに、樹と杏里はそろって顔をほころばせる。


「花南の写真のとおりだ」

「花南さん、この海の色のこと、なんて言っていましたっけ。アクアマリンじゃなくて……」

金春色こんぱるいろだ」

「そうそう、金春色。そのとおりの色だわ。素敵」


 また大澤夫妻の結婚記念日がやってくる。

 長男は大学生、次男は高校生になり、娘はもう小学生に。樹と杏里はアラフィフ夫妻。優吾は娘が生まれてから、仕事以上にハンドクラフトに夢中になり、義母の江津子も元気いっぱいアクティブお祖母ちゃん、最近は日本ハムファイターズのサポーターになっている。

 今回は当日日程が取れなかったが、ふたりで思い切って念願の山陰に記念旅行にやってきた。


 フロントでチェックインの手続きをすると、スタッフがその名を見て少し表情を変えた。

 すぐに部屋に案内されず、海が一面に見える窓辺のティールームへと案内される。

 夫の樹は今日も愛機の『ライカ』を持っていて、もう窓辺へと構えて、遠浅にひろがっている金春色の海を撮り続けている。

 頼んでもいないのに、おいしいアプリコットジュースまでスタッフが持ってきてくれた。


 そんなに時間が経たないうちに、夫妻が座っている席に、彼女がやってくる。


「杏里さん、大澤社長、お待ちしておりましたよ!」


 黒いワンピースを着ている花南が笑顔で現れた。

 何年ぶりか。一目見て、杏里が先に涙ぐんでしまった。夫はもう満面の笑み。



「花南ちゃん、やっときたぞ」

「社長、遠い小樽からここまで、ありがとうございます。ライカも一緒に持ってきたんですね」

「あたりまえだろ。あれからずっと、俺の相棒だよ」


 夫はもうはちきれんばかりの嬉しさを爆発させているが、杏里はたくさんの思いが溢れて涙が止まらない。


「杏里さん……。その節は、大変お世話になりました。小樽での修行がなければいまの私はいませんから」

「花南さん……。会いたかった。立派な職人、いえ工芸作家になって、奥様になって。素敵な女性になっていて、もう、なんて言ってよいのか、会えて嬉しくて」


 花南がちょっと困ったように頭を傾げる。


「わたし、あの時ただただ生意気な子供でしたもんね」


 杏里は首を振る。あの時の、あなたの揺るがない信念とまっすぐな心があったからこそ、杏里も樹もこうして一緒にここまで来られたのだ。


 そんな大人になった花南のそばには、黒いスーツ姿の男性がそっと控えていた。


「いらっしゃいませ、大澤様。遠くからここまでお疲れ様でした。花南と一緒にお待ちしておりました」


 花南の夫で、義兄。いまもここ『倉重観光グループ』の副社長を務めている倉重耀平氏だった。

 花南が写真ファイルの最後に一枚だけ保管していたあの写真、小さな男の子をだっこしていた男性だった。

 当時、樹と一緒に写真から察したとおりに、花南もあれから数年紆余曲折があり、この男性と甥っ子の元に戻り結婚して義理の母親となっていた。


 小樽から『致し方なく見送る日』。樹とともに杏里は、この義兄に連れ去られるよう工房を辞めさせられた花南を、遠くから見送った。


 前もって山口の義兄から『義妹のための工房を起こすので、来年になったら強引に連れて帰ります』と知らされていた。そんな身勝手な申し入れだったが、大澤ガラス工房としてそれを許してしまったのは、遠藤親方が決意をしていたからだ。


『小樽にきて三年、技術は合格ぎりぎりまで仕込みました。彼女専用の工房を義理のお兄様が経営するなら、自分だけの芸術を生み出すにはこのうえない最高の環境。あとは花南の技を磨き続ける努力とセンス次第。黙って見送ります。距離を置いていた実家への強制送還みたいになり嫌がるでしょうが、耀平さんに引き渡します』


 樹は一度反対をした。義兄が花南のためにガラス工房を起業するとしても、強引すぎる。花南を自分の手元に置くための手段に違いない。夫も花南を大事に見守りたい職人として思うからこその反対だった。

 杏里もほんとうはまだ小樽にいて欲しかった。だが――。


『ここに帰ってくればいいじゃない。山口でうまくいかなければ、小樽にいつだって帰ってこられるように逃げ道を残しておいてあげましょう。彼女には彼女の家族の事情がある。私たちにいろいろあったようにね』

 親方ももう一点付け加えた。

『花南が実家を遠ざけていることはおわかりでしょう。あの強情で天邪鬼な彼女が素直に帰るはずがない。実家に帰す、良い機会だと思います。一度、ご家族に返しましょう。そこはお義兄様に任せましょう』


 そこは杏里も樹も気にしていた。資産家一家にありがちな『しがらみ』が、花南の実家にも存在しているだろうことを。彼女がほんとうに縁を切ってしまわないうちに、家族に返すのも大事なことだとも思わされた。


 最後、大澤側の結論は。『彼女の夢は、自分だけにしか生み出せない芸術』、その一歩を踏み出すのだ。見送ってあげよう。遠藤親方と杏里の決断に、最後は樹も折れてくれた。


 当日、花南の引き渡しには、遠藤親方に対応をすべて任せた。経営陣の樹と杏里は、遠くから見送ることに。

 騙し討ちのようにして、話し合いが済んでいる大人たちに陥れられるようにして、なにもしらない花南が工房から連れ去られていく日。


 彼女が実家と距離を置いている事情はわかっていた。

 姉の夫だった義兄を好きだから、その気持ちを押し殺して『ひとり』で出てきたことも察していた。あの写真から。

 だから、義兄に無理矢理タクシーに乗せられ、もう空港に直行するといわんばかりの強引さを見せつけられても、杏里と樹は工房前で佇むだけで口も挟まず、首もつっこまず、ただただ見送った。


 小雪が舞う冬だった。静かに見送る杏里の隣で、花南を敬愛していた樹は拳を握って震えていた、堪えていた。彼女が、オーナである杏里と社長の樹が遠くに控えているのを見つけて、なにかを言いたそうにして、助けを求める視線を向けてきたのもわかっている。夫は目をそらし、杏里の目には許しを請う涙がうっすらと滲んでいた。


 去って行くタクシーに夫妻で一礼をすると、後部座席にいた義兄が申し訳なさそうに礼を返したあの日。


 突然去ったアパートの荷造りは、オーナーでおなじ女性の杏里が引き受けた。由緒ある裕福な実家に生まれついたのに、ほんとうに、なにも持っていない子だった。大事なカメラと身の回りのものだけまとめさせられ連れて行かれたようだ。あとは杏里が簡単に荷造りをしても、段ボールみっつぐらいにしかならなかった。彼女の小樽での三年間が、ガラスを吹く日々ひと筋だったことがわかる暮らしぶりだった。


 その夜、遠藤親方は元気がなかった。一晩中、工房事務所のデスクで、うつむいて、花南が最後に吹いたグラスをずっと眺めていたようだった。樹は自宅で、悔しそうにブランデーを呷っていた。杏里もそのお供をさせてもらった。


 たまに遠藤親方から知らされる花南のその後は、杏里と樹が辿ってきた道以上に、哀しく辛いものだった。小樽に逃げ道を残してあげていたのに――。彼女は『ひとりでいきてゆく』。花南が次に選んだ修行場は『富士山麓、山中湖』。自ら進んで、彼女は自分の彷徨う心を常に自分で携え、決して放棄しないで、痛みもそばにおいて、いつもガラスを吹いている。


 やがて、その果てに。彼女はついに生み出したのだ。

 願っていた『私にしか作り出せない芸術』を。

 『瑠璃空』。彼女が芸術家として認められた作品が大きな作品展で受賞した。


 そのうちに、一枚のハガキが大澤家に届いた。

『新しく家族になりました』と手書きのメッセージが記された、花南の花嫁姿の写真だった。

 あの小さかった男の子が高校生になっていて、夫になった義兄と息子になった甥っ子と三人、金春色の海を後ろに黒引き振り袖を着た花南の姿だった。


 その次に届いたのは、花南が女の子を出産したというハガキ。赤ちゃんをだっこして、夫の耀平と背が高くなった甥っ子が寄り添う家族写真だった。


 それを知って、大澤夫妻はいてもたってもいられなくなったのだ。

 遠い山陰にふたりそろって会いに行こうと、夫の樹と決意をした。


 倉重観光グループはいまも引き続き『大澤ガラス工房』のお得意様で、ホテルと旅館で使うための製品を注文してくれている。担当者は、この義兄様、倉重副社長。遠藤親方を窓口に、たまに彼本人が、小樽の工房まで仕入れにやってくる。その時に杏里は一度『花南の作品を当店で扱いたい』という申し入れをしたいため、遠藤親方を通じて対面したことがある。なので『ご無沙汰しています』と挨拶を交わした。樹は『正式には』初めての対面になるので、お互いに名刺交換をするというビジネスマン同士の挨拶を交わす。


「その節は、当時は義妹だった花南が大変お世話になりました」

「いいえ。こちらこそ、芯がしっかりしている花南さんがいてくださったおかげで、妻とここまで歩んでこられたようなものですから。私たち夫妻にとって、大事な……友人と呼んでもいいのかわからないのですが、忘れられない女の子でした」


 夫ふたりが挨拶を交わすそばで、花南が懐かしい生意気な顔で、樹をにやにやと見ていた。樹も気がついた。


「なにかな、花南ちゃん」

「いえいえ。友人と言っていただけて嬉しいなと思いまして。でも、友人と言ってくださるキッカケってあれですよね。反省集とか――」

「大事に持っているからな。何年も戒めていますよ。花南さんのおかげで! 相変わらずだなあ。これじゃあ、旦那さんも大変でしょうっ」


 すっかり白髪交じりになった樹が、当時と変わらない様子で、花南につっかかった。花南もしっとりとした奥様の雰囲気を備えていたのに、あっという間に小樽時代の『女の子』に逆戻り。懐かしい小樽工房での在りし日を杏里は思い出す。


 なのに。彼女の横に静かに控えている耀平が、ちょっとおかしそうに笑いを堪えて下を向いたのだ。花南も気がついた。


「ちょっと、義兄さん。なんで笑ってんの」

「いえ。大澤社長、申し訳ないです。しつけをしないまま小樽に見送ったものですから、ご苦労されたかと……」


 あ、義兄さんは『どんなお嬢様』かよくよくご存じなのだと、夫妻そろって気がついた。

 それもそうか。あれがきっと花南の『素直な姿』だったのだろう。元より家族で、義兄妹で、いまは夫と妻になるほどの関係だから、義兄様はお見通しということらしい。

 でも。そう思うと、杏里は嬉しくなる。自分が経営する工房で、彼女はひとりきりで小樽に来たかもしれないけれど、父親のような遠藤親方に見守られ、実家同様に伸び伸びと過ごしてくれていたということだ。


 だから樹も遠慮なく、彼女の義兄に告げた。


「いやあ、もう。四十手前だった私に、真っ向から対立してきたんですよ。後にも先にも、私のことを真っ正面からノックアウトさせたのは、花南ちゃんだけですから」

「あー、ちょっぴりだけ。杏里さんから聞いたことあります。花南がやりこめたという話を」


 とっくに杏里が話していることにも、樹は唖然としていた。耀平が小樽に来たときに、一緒に食事をしたのだが、その時に花南のこと話題にしたら、つい……樹が花南にこてんぱんにされた話をしてしまったのだ。杏里もとぼけて笑ってみた。


 耀平と花南も案内してくれたテーブルについて、しばし歓談する。これまで工房と花南を通して『なんとなく顔見知り』だった四人が初めて向き合って会話をするが、ほんとうに初めてとは思えないほどに話が弾んだ。


「本日は結婚記念旅行ということでしたね。おめでとうございます。また大事な記念のお祝いに、当ホテルを選んでくださって御礼申し上げます。精一杯のおもてなしをさせていただきます」


 最後は副社長の彼が丁寧な礼をしてくれる。

 その隣に楚々と寄り添って、妻として美しく一礼をした花南は、もう立派な夫人で、そしてこの家の跡取り娘だった。

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